商吉の諫言
鉉彰と魯継が敗北した事は、樹海の西で方元軍と戦っていた承咨の許へ具に知らされた。
承咨は長い黙考に移り、睨みの鋭い沈黙に側近達が畏縮する。
「……承咨様。南へ軍を下げ、鉉彰達と合流した後に撤退するべきです。今ならば、剣合国軍も執拗な追撃に出ることは叶わぬでしょう」
承咨が対応に困ったのだと判断した商吉は、全軍の撤退を進言。殿は自分が引き受ける心構えだった。
それでも承咨は沈黙を続けたが、十秒ほど経った後に一つの指示を下す。
「……楽瑜の部下どもを抹殺し、其奴等の首を剣合国軍に届けよ」
それは今の戦況に対する策ではなかった。商吉はすかさず反対する。
「処罰の事に関しては後ほど御考えを。先ずはこの戦を捨てるにあたって、味方の犠牲を如何に抑えるかを考慮なさるべきです」
衡裔からの返事がない現状、商吉は戦の継続に否定的だった。
元々が衡裔の立てた大戦略から外れる独断行動であるだけに、不測の事態に対する備えも具体的な作戦もない。言わば一度負ければ負け続ける恐れがあったのだ。
故に商吉は撤退を強調したが、承咨はそれを頑なに拒絶する。
自分の立てた作戦が一人の裏切り者によって覆され、標的捕縛の失敗どころか、全軍敗退となる事実を受け入れたくなかったのだろう。
「……鉉彰、魯継と合流はする。だが国に帰ることはせん。関差から曹欣の軍も召集し、占領したばかりの樹海に攻め込む。さすれば降伏した心角兵も我等に味方しよう」
「心角兵の力など期待なさいますな! 彼等の大半は民兵上がりの雑兵。居るだけ足手まといです! それに関差城の曹欣殿まで動かせば、本当に取り返しのつかぬ状況に陥る事も有り得ますぞ!」
関差はレトナ国の東隣、岐源郡の南隣、即ち心角郡の南東に位置する。
関差の東隣はアバチタ山岳軍領の角符である事からも、今なお角符攻めを行っている衡裔軍の第一級重要拠点を兼ねていた。
同地を守り、承咨軍と衡裔軍の背後まで守る将は、楽瑜が魯継と比較した用兵家の曹欣。
義に厚く、士卒を大切にし、よくこれを用いる人物。だがカイヨーの惨劇を批判して承土に諫言した事が災いし、彼は中央から外されて関差の地に追いやられ、魯継の副将とさせられた。
「ほぅ、取り返しのつかぬ状況か。言ってみろ」
承咨は意地悪く、商吉の諫言を続けさせた。
「まずは岐源郡の田慌です。かの者は剣合国軍と承土軍の中立を保っており、いつ関差に攻め込むか分かりません。次にアバチタ山岳軍本拠地のキュウクルに残っている軍が、山を越えて来襲する恐れがあります。奴等が山越えの奇襲を得意とする事はご存じの筈、故に衡裔殿が当たっておられるのです。……最後に、今戦は突然の出陣ゆえに補給が乏しく、レトナ国守備軍の殆どを動員している現状で曹欣殿まで動かせば、一体誰が物資輸送を行うのですか」
「……成る程……それもそうか」
意外にも承咨は、素直に諫言を認めた。
「謀略家なれど机上の戦術家」と揶揄される父の承土ならば、現場を知らぬが為に諫言を認めなかっただろうが、承咨に至っては一介の軍人である。同じ軍人の商吉の言葉に耳を貸す事ができ、商吉にとっては上官が承咨である事が幸いした。
「然し、それでも楽瑜は許せん。奴もまた、涼周共々苦しめてくれよう」
「……楽瑜の部下に責を負わせる事も、全軍に示しを見せる為ならば正しいでしょう。ですが承咨様、徒に厳罰を下すよりも、まずは利用なされては如何でしょう?」
「……裏切り者の側近を召し抱え、楽瑜を情で攻めろと言うか?」
冷静を失っていない承咨の思考は商吉に追い付いていた。
「左様です。楽瑜は情に弱く、恩を忘れぬ男。承咨様が率先して楽瑜の部下を庇うならば、上官たる楽瑜は承咨様を相手にしても全力を出しきれません。……涼周と楽瑜を狙うのは、その時が良いかと」
涼周を捕らえるのは楽瑜を弱めてから。涼周に靡いたばかりの楽瑜を相手するのは不利。
承咨は商吉の言葉から上記の意味を暗に感じ取る。
そして涼周を痛め付ける事に楽瑜を利用し、楽瑜も同時に苦しめる事も一興と思った。
「……ふっ、それも悪くない」
承咨は続けて樹海の深部へと顔を向け、傷痕だらけの顔を歪ませて別れを告げる。
「涼周、それと楽瑜よ。今回はこれで退いてやる。然しこれは貸しだ。……いずれその幼体を捕らえた暁には、この屈辱も清算する故、覚悟するがいぃ……!」
捕縛した涼周を、同じく捕縛された楽瑜の面前で切りつける。
服を剥がされた裸体を彩る鮮血と甘い悲鳴に、怒り狂うだけの無力な楽瑜。
歪んだ欲情を滾らせた承咨はそれだけで気を良くし、商吉とともに撤退戦の指揮を執る。
一方、方元軍の本陣では、撤退を始める承咨軍に対する次の手が話し合われていた。
「方元様。敵が総退却に出ました。殿は商吉と承咨本人の様です」
「各隊の隊長が追撃の可否を尋ねてきています。如何なさいますか?」
「……承咨の武勇、それに指揮能力は侮り難い。良将の商吉も一緒である事を思えば、追撃は避けた方が得策。下手をすれば、今度は我等が一敗地にまみれよう」
慎重かつ堅実に戦う方元はリスクを嫌って必要以上の追撃を避けた。
こうして樹海西部で行われていた戦闘も一応の決着を見せ、承咨は鉉彰と魯継の敗軍と合流して全面的な撤退に転じる。
承咨軍は方元軍の注意を引く役目にあり、方元軍も我から承咨軍に挑む事はなかった為、剣合国軍の死傷者数は二千から三千程度、承咨軍も同数かそれを少し上回る程だった。
「涼周若しくはナイツ。どちらかは私の事を、何か言っていたか?」
退陣の最中、承咨は魯継と鉉彰にそう尋ねた。
鉉彰は韓任との戦いに注力していた為にナイツ兄弟とは顔を合わせておらず、その問いには魯継が答える事になる。
「……別段、かの兄弟が何かを言った訳ではありませんが、楽瑜が少々……」
「ほぅ、裏切り者は私を何と称した?」
魯継は言葉に詰まって視線を逸らした。
相手が同僚であれば言うことも可能だが、よりによって承土軍次期大将である。本人の前で、裏切り者の下した評価を話せと言う方が無理である。
「ふっ、お前が気にする事はない。私とて、自分の異常性はある程度理解している」
魯継の心中を察した承咨が、自らを卑下して遠慮をなくさせた。
「恐れながら……楽瑜は承咨様の事を「人を人とも思わぬ輩」と称しました。更には承土様の事も「利を求め義を軽視する大将らしからぬ大将」だと……」
「ふっ、裏切り者の脳筋が……言ってくれる。だが、的は射ていよう。的は……な」
承咨はさして気にする様子を見せず、不敵な笑みを浮かべるだけであった。




