1話 気配
「んじゃ、行ってくる」
「おう、気をつけてな」
父と子の、普通の日常が幕を開ける。父とは、 仲がいいわけではないが悪いわけでもなく、互いの目を見て話してはいないが確かにそこにいるものとしての存在は認めている、そんな関係。どうだ、ありふれているだろう?
ただ何か一つ、今日が普段と違うところを挙げるとすれば、それは今日が俺の高校の入学式だってことだ。入学式なら、親も同伴するのが一般的じゃないかって? その親が一般的じゃない場合、世間の「一般的」は俺にとって一般的じゃない。
そう、俺の父親は刺青をいれる仕事をしている人だ。ただそれだけなら、変わったお仕事をなさっていますね、で済むのだが、どうやらそれ以外の仕事もしているらしい。俺には教えられなようなナニカをする仕事だ。
俺は命が惜しいから特に何も親父には聞かないが、時々刺青をいれそうもない人がこっそり店に入ってきて何かを喋ってるのを見ることがある。その時は俺は何も見なかったことにして、足音を消し、その場を立ち去るんだ。そのせいか、足音を消す技術だけは他の人に負ける気がしないがな。
まぁ他にも仕事について聞かない理由がある。実はこの父親、実の父親ではないらしい。何故「らしい」って言葉を使ったかというと、実の両親のことについて俺は全く記憶になく、またそのことを今の親父から聞いた話になるからだ。正直、仮の父親だろうが本当の両親だろうが俺には関係ない。この俺を生んでくれたのが実の両親でここまで育ててくれたのが今の父親、いう事実があるだけで十分じゃないか。養育費をどうやって稼いでいるのかは謎だけど。
まぁそんなことはいいとして、俺の家は渋谷駅の近くにある。って言ってもビルとかじゃなくって父親の職業のイメージに合いそうな、出入り口がちょっと地上より下にあるような家だ。小学校の時、俺の先生が家庭訪問の際、入るのにビビってたのを見るのがささやかな楽しみだったりもしたなぁ。
俺はその時の先生の顔を思い出し、笑みを浮かべながら家を出る。いくら出入り口が地下にあると言っても、わざわざ学校に行くのに毎朝階段を登るのは面倒極まりない。裏できっと危ないことをやってるであろう父親にはうってつけの場所なんだろうけどな。
階段を登りきって思う。眩しい。
そして、その眩しさが、これからの高校生活を暗示しているものだと信じて俺は渋谷駅を目指し、歩き始めた。
俺の行く高校は横浜市にある。「聖グローリー学園」とか言うそこそこ頭の出来が良い人たちが行く場所だ。少なくとも、関東圏でその高校の名前を言えば、あっ、君賢い方なんだね、って見られるくらいに。まぁ同時に名前が仰々しい事でも有名だがそれは俺たちに罪はない。悪いのは全て初代校長だ。
そして俺はその高校のまだ新しい制服を着て歩いている。もっともっと頭のいい高校が沢山あるのは知っているが、それでも意気揚々と歩いてしまうのは仕方のないことだろう。すれ違う人みんなが俺を見ている気がしてならない。まぁ気のせいなんだろうけどな。
「あの人、……ない?」
「ホントだ、しかもよく見たら……じゃん」
おっと、気のせいでもないみたいだ。すれ違った少女達が俺を見ながら何か言っているぞ。喋ってる内容は「あの人、イケメンじゃない?」「ホントだ、しかもよく見たら聖グローリー学園じゃん」かな? もう少し子猫ちゃんたちの会話でも聴こうか。
「うわっ、バッグ持ってないのに何しに学校行くんだろうね」
「寝癖もついてるし、きっと……」
ああ、最後まで聞きたくない。何一つポジティブなこと言ってねぇ。さっきの会話はきっと「あの人、寝癖酷くない?」「ホントだ、しかもよく見たらバッグ持ってないじゃん」だったんだろうなぁ。……つら。
バッグ忘れたのは俺の根本的な部分がバカなだけであるから、その陰口も受け入れはするが君たちが寝癖、と言ってたものに関してはちょっと異議申立てたい。
頭の両横にある、一見寝癖にしか見えないようなピョンって跳ねているこれ、実は寝癖ではないんだ。毎朝どんな体勢で寝ていても、いざ朝になって起き上がったらこの髪型になってるものだから、寝てる寝てない関係なしに跳ね上がってるもの、つまり寝癖ではなく単なる癖っ毛なのである。まぁちょっと水をつけてなじませたら引っ込むんだけどな。屁理屈だって思うか? その通りだよ。
にしても、入学初日からやらかしたな。でもまだ時間は沢山ある、同じ学校のやつにはまだ会ってない、なら問題はないな。その場で回れ右して急いで家にバッグを取りに行くのはなんかダサいし、心の中で口笛を吹きながら優雅に脇道に逸れる。しばらく経ってからバッグを取りに家に帰ろう。
そう思って、イヤホンを耳に装着し、音楽を流そうとする。学校に行く為のバッグは忘れたのに音楽を聴く器具一式は忘れないあたり、流石だな。俺はラップとオペラ以外は基本的に全部好きなのだが今はロックを聴きたい気分だ。この辛い社会に反逆してやるぜ、って感じのものが好ましいな。そう思い、激しめのロックの再生ボタンを押す。
――あれ、聞こえない
試しに音量を上げてみる。俺を、今ものすごく落ち込んでいる俺を立ち直らせてくれよ。
――ん? どうして聞こえないんだ?
あぁ、もしかしてBlueTeethがまだ繋がってないのか。だとしたら今頃ケータイ本体からものすごい音量で激しいロックが流れてるぞ、ヤバイな。今頃、今週分の冷ややかな目を一斉にあびていることだろう。
俺は誰にも悟られないようにチラッと周りを見る。しかし、誰もこっちを見ていなかった。あれ、音楽が流れてこない理由は別のものなのか? そう思い、もう一回最初から聴きなおそうと一旦俺はBlueTeethの接続を切る。
その時だった。電子音が聞こえのは。
――SAVE――
え? いや、俺はBlueTeethの接続を切っただけで何もセーブしてないぞ。というか、接続を切ったのにどうして音が聞こえたの?
そして俺はよく分からない現象に頭を悩ませる暇もないまま更によく分からない現象を目にする。
時間が止まっている。
走っている車も、喋っている人の口も、飛んでいる鳥も、落ちている花びらも、何もかもが止まっていた。まるで写真の中の世界にいるかのように。
一体何が起きたのか、何故時間が止まっているのか、俺は何をするべきなのか、逆に何もしないほうがいいのか、俺は何故動けるのか、周りの人たちは息しているのだろうか、というよりちゃんと生きているのだろうか、
分からない分からない分からない。分からない事だらけだ。
俺は混乱しながらも状況を把握しようと努力する。でも、何一つ分からない中で状況を把握しようなんて無理なことだった。
一体何分過ぎただろうか。短い間考えていたのかもしれないし、長い間考えていたのかも分からない。そもそも、その間も周りの人達が動かなかったことを考えると、何分も何も、時間というものが過ぎてなかったのかもしれない。
それでも、何事にも終わりがあるようで、再び電子音が聞こえた。
――CONTINUE――
次の瞬間、渋谷の街に喧騒が戻る。
一体今まで何があったんだろう。何で他の人は普通通りにしていられるんだろう。
あれ、普通? いや、普通じゃないな。前を通り過ぎる人々がやたら俺を睨んだり舌打ちをしていたりする。
これはまさかみんなが俺を嫌いになる魔法にでもかけられたのか? そんな、一体俺が何をしたって言うんだよ。
……あ、ケータイ本体から音楽が出てるのね。そういえばさっきBlueTeethの接続を切った覚えがあるな。それなら納得だ。まぁ、バカが考えそうな魔法の効果じゃなくてよかった。
そうして俺はいそいそと音量低下ボタンを連打する。
――イライラした目線とは別に、俺をじっくりと見るような目線があるとは気付かずに。
Bluetoothじゃないですよ、BlueTeethです。
……流石に著作権を気にしすぎですかね。