本気の死闘
蚊はパーで殴るものではない。グーで殴るものなのだ。
俺はここまで納得できない助言を聞いたことがない。
蚊は小さい。グーになどしたら、ますます蚊に当たらなくなる。自明である。
そもそも、グーで殴るというのは、単純なパワーだけで見るなら、人間の最大戦力の一つである。今までどんな物も人も、俺はグーで殴ったことがない。
俺には姉と妹がいる。
姉は自分用と勝手に決めていたバームクーヘンを俺が食べたときなど、すぐ平手打ちに走ったし、妹は俺が妹のチーズケーキをわざと食べたふりをしたときなどに、よくグーで殴りかかったものだ。
俺はそんな時も二人の手首を拘束して攻撃を防いだ。
俺の初めてのグーを、変な蚊に盗られるとは、非常に嫌な気分である。
「トモヤ、早くせんとまた敵が攻撃してくるぞ!」
そう、しかし残念ながら悩んでいる暇はなかった。
俺は代替案を持たず、更に解決を望んでいる。
俺は、目の前の蚊に拳を真っ直ぐ突き出した。
拳は、今まで経験した変な空気には当たらず、蚊へと順調に進み、やがてブチ当たった。中指に確かに当たった感覚があった。
これで死んだだろう。俺は虫の跡を期待して、引いた拳を見た。
何もない。
蚊は平然と同じところに浮かんでいる。やや先程より飛び方が不安定な気がするが、気のせいといってしまえる程度である。
「もっと腰をつかって、最高の一撃を狙わな! そんなことじゃあ、何十回かかるか分からんわ」
ばあちゃんから檄が飛ぶ。
「は?何十回?」
蚊一匹殺すのに、なぜそんなにかかるのか。さすがにそれは俺の戦力の計算だとしても酷い。
ただ、グーで殴ったときは、ほかのやり方とは確かに違った。
俺はグーを続けることにした。それも今度は腰を入れて、本気で。
俺はパンチを繰り出す。熊とでも戦っているのだろうかと自分が情けなくなるが仕方ない。
三回くらい攻撃するたびに、蚊が俺に寄ってくる。自分を拳で殴る訳にはいかないし、何もできない。グーで殴りはじめて、4回目に血を吸われたとき、俺は一瞬眩暈がした。
「おい、トモヤ! あんまりもたもたしとると死ぬぞ」
ばあちゃんから気になる声がかかる。
「え? もしかしてマズイ病気を感染させる蚊なの?」
そういえばなんたら出血熱なんかは、蚊が原因だと聞いたことがある。ヤバイ。
「そんなもん、この蚊では罹らん」
「そっか」
「普通に体力がなくなって死ぬ」
「は?」
変な病原菌を運ぶ訳でもなく、たかが一匹の蚊に数回血を吸われたぐらいで死ぬ。常識ではあり得ない。だが俺は現に気分が悪くなっている。
実は、2回ほど指されたときから、ちょっと身体に違和感はあったのだ。手が腫れてきたり、体が熱っぽかったり、咳が出たりなんてことはない。ただ少しずつ気分が悪くなっている。そんな気がする。
焦って俺は、何度も本気で蚊を攻撃した。逃げることも考えたが、こんな変な蚊は、ここで処理しておかないと、心配でたまらない。
結局、三十回ほど殴ると、青い蚊は消えた。
強い敵でした。