話死合い
「私の事なんかほっといてよ!」
風邪が強く吹いている高層ビルの屋上で女は今にもその身をはるか下にあるアスファルトへ打ち付けようとしている。この高さから飛び降りればまず間違いなく体はどこも使い物にならなくなることは明白である。女の体は小刻みに震えていた。その震えが死を目前にした故くるものなのか寒さ故なのかは本人のみ知り得る事であった。女は口を開く。
「そういえば、あなたは誰なの?」
彼女が問いかけた対象は決して虚無の空間などではなく、女から10メートルほど離れたところに佇んでいる壮年の男であった。背は170後半から180センチ程あり、体つきはやせ気味である。服装は真っ黒なスーツに身を包み、スーツの隙から見えるワイシャツと手にしている手袋、全く日に焼けていない肌がどれも真っ白く主張されていた。
「私は死神です」
「死神?」
「はい。あなたが今そこから飛び降りるということでしたのでそれを見届けさせていただこうと思いここに足を運びました」
死神と名乗る男は整然とした口調でつらつらと言葉を発した。強風に揉まれても直立した姿勢を全く崩すことのない様子にはどこか人間じみた様子を感じさせない雰囲気がある。
「ふざけないで!見せ物じゃないのよ!」
「心配なさらないでください。死後どのみちあなたはマスコミから見せ物扱いを受けます。今死のうとしているこの瞬間に一人や二人立ち会ったとしても後々の事を考えればあなたの死を知る者が一人二人増えるというだけでその他に全く違いは生じません。どうかお気になさらず続きをどうぞ」
女は男を睨みつけたが男は表情を変えることなくただ女の方を見ているだけであった。沈黙と強風にまみれた空間の時間は一秒一秒がゆっくりと進むように感じられた。ふと女が視線を落とす。
「……待って、そもそも私はなんでこんなところから飛び降りて死のうとしていたの?」
男の眉の端がピクリと動いたように思えた。一分も掛からぬうちに女は「あ」と声を上げる。
「思い出した。あなたのことも、私のことも死のうとしていた理由なんかも全部思い出したわ」
女が視線を上げると男は先ほどよりも女の方に近づいてきている気がした。しかし彼からは動いた気配が感じられなかった。女は目を見開き再び男を睨み、口を開く。
「私は脳に病を患っていた。数時間ごとに記憶が消えてしまう病気を。それを利用してあなたは私をたった今ここで、殺そうとした!」
「何のことだかさっぱり存じ上げませんが」
女は拳を握りしめ震えていた。それは死の恐怖からでも寒さからでもなく、目の前に薄ら笑いを浮かべて突っ立っている男に対して沸き上がる怒りによって小刻みな振動となる。
「あなたはきっと私にこう言ったのね。お芝居をしよう、君は自殺志願者で僕は死神。君がそこから死のうとする姿を見て薄ら笑いを浮かべているから君はこの世の未練についててきとうなことを嘆いてくれって」
「……」
「そして私の記憶が消える瞬間を待っていたんでしょう?記憶が消えた瞬間私はこの状況に動揺し、勢いで身を投げ出すと思って!そうして私が死ねばさぞ都合がいいのよねこの下衆な相続人が」
その瞬間突風が女の目を閉じさせた。次に目を開けた時には男の姿は女の目の前にあった。女の体に衝撃と浮遊感が走る。
死神と名乗り相続人と呼ばれた男の手は白い手袋越しに女の命を高層ビルの淵から溢れさせた。 男の口から独り言がもれる。
「やっとここまで追い詰めたんだ。こんな気の狂った人間を裁くのに裁判まで待ってなどいられない」
アスファルトへ落下し絶命した女に妻子を殺された男は静かにその場を立ち去った。