もう、何も要りません。7
第七話
3月に入ったものの、まだ冬の寒さの残る日。
私はまたユウの家に来ていた。
がらんとした室内にもだいぶ慣れた。
「ジャスミンティーと紅茶、どっちがいい?」
「ジャスミンティーちょうだい。私大好きなんだ」
ユウがいれてくれたジャスミンティーはあったかくて美味しかった。カップの中で開いて行く茉莉花が不気味で、そして、綺麗だった。
私はクッションに座って、彼はベッドの上に座った。
ただ、お茶をすする音が続く。
ユウは机の上のMacの電源を入れた。
「あれ、Mac、どうするの?」
「僕が作った曲が入ってるんだ。て言ってもアレンジなんだけど。ハナに聞いて欲しくて」
ユウが音楽再生ソフトを起動して、プレイボタンをクリックする。
Macのスピーカーから流れる、音。
その音は…
遠くで光に包まれながら流れてくるような、
魂をそっと撫でられているような、
限りなく完璧な青色にくるまれているような、
パッヘルベルのカノン。
ユウがアレンジしたカノン。
時間にしてわずか4分弱。
わずか、4分弱。
それなのに、
私は、
その美しさに、
心臓を
貫かれた。
再生が終わった。
部屋には静寂が戻った。私は動かない。
ただ息を吸い、吐く。
涙が出そうで、でも出ない。
広大な大地を見たような気がした。
多くの観客に囲まれたギロチンの処刑場を見た気もした。そう、まるで、マリー・アントワネットの処刑のような。
私はゆっくり、ユウの方に顔を向ける。
「この曲を聴きながら、死のう」
自然に、ごく自然に、まるで当たり前のようにその言葉が出た。
「うん、死のう」
ユウも当たり前のように答えた。
「二人で死ぬ為に作ったんだ」
もう、アタマをオカシクする必要はない。
穏やかに、死ぬ事も出来るんだ。
私達は諦観の境地で、死ぬ事を決めた。
3月4日、日曜日の事だった。
二人が出会ってから、2ヶ月弱。
私達は、自殺の決行日を4月8日と決めた。ユウの妹さんの誕生日らしい。
「ごめん、勝手に決めて。でも、どうしてもこの日にしたいんだ」
謝りながらユウが言う。綺麗な顔が悲しみに少し歪む。
「きっと、妹は泣き叫んだと思うんだ。『お兄ちゃん助けて』って。でも僕は起きなかっ
た。妹がどんなに叫んでも。絶叫しても。その最期の瞬間にも。……お父さんは、お母さんが男と家を出て、リストラされて、ほとんど喋らなくなった。でもあの前日、バラエティの番組を見て、少しだけ笑ったんだ。僕は嬉しかった。お父さんは立ち直りつつあるんだ、って思って。でも、違ったんだ。まさか自殺と殺人を決めた、悲しい笑顔だなんて思いもよらなかった。…3人で飲んだお茶。きっと僕のだけ、睡眠薬が入ってたんだろうね。僕のだけ…。そして、妹は血塗れになって殺された」
ある日突然、『お前なんかいらなかったんだ』と宣言されたユウ。
「うん、うん。じゃあ、その日にしようね。妹さんの為にも、ユウの為にも」
そう言うと、ユウは少し嬉しそうに笑った。
「…ねえ、ユウ。今から1ヶ月、私、家を出てユウの家に住んでもいい?」
「もうね、嫌なんだ。存在価値を全否定されるのも、存在意義を全否定されるのも。死ぬのなら、せめて最後の1ヶ月くらいは、楽しい気分でいたい。大好きな大好きな友達と」
毎日毎日、少しずつ、『お前には生きる価値がない』と刷り込まれ続けた私。
「うん、いいよ。妹の部屋、そのままにしてあるから、使って」
「え、でも…いいの?妹さんの部屋でしょ?」
私は申し訳なく思って聞く。
「いいよ。ハナならいい。ハナなら、優子…妹も怒らないよ」
「ありがとう、ユウ」
そして、その日から私達は同居を決めた。
家に帰って、こっそり荷物を持ち出して、そのままユウの家に行った。
さよならママ。
永遠に。
出来るなら愛して欲しかった。
だけど、それは無理だって分かったから。
でも、覚えてて。私はママを愛してた。
忘れないでね。この事を。
そして今日から、ここが私の家。
死を待つ私達の、家。
似た者同士の私達の、最後の場所。
妹さんの部屋。
本棚には本が溢れかえり、入りきらなかった本は床に積まれている。本は、小説だったり漫画だったり、様々。私の知らないものばかり。パラパラと読んでみると、面白いものもあれば私には意味の分からないものもある。
部屋の隅には、水の入ったオブジェが置いてあった。電源を入れると、七色の泡がぽこぽこと水の中で泳ぐ。濃い黄色から薄いオレンジに変わり、それが濃い赤になって薄いピンクに変わり、薄い薄い、透明に近い青になって、濃い青になって。
その、限りなく透明に近い薄い青色に、何だか救いみたいな、安らぎを感じた。
ドレッサーにはチープコスメ。安くてもおめかししたいっていう、ムスメ心。
きっと、頭が良くて、ユウに似て可愛い子だったんだろうな。
ごめんね、優子ちゃん。
今日からこの部屋をお借りします。1ヶ月。
リビングに出ると、ユウがお茶をいれていた。本格的な中国茶。
殺風景なリビングの食卓テーブルについて、ユウの入れてくれたお茶を飲む。
「菊花茶って言うんだ。烏龍茶の一種」
「美味しい」
小さな茶器で飲むお茶はいい香りがした。
お茶と沢山の本と大切な友人。
ここは最後の場所にふさわしすぎる。
「…ねえ、ユウ」
「ん?」
「これから1ヶ月、学校行くのもやめて、思いっきり遊ばない?私、ウリで稼いだお金、あんまり使わないで貯金してたから、パーッと使っちゃおうよ。今まで出来なかった事とか、やりたかった事とか、バカみたいな事とか、いっぱいいっぱい」
なんだかワクワクしていた。
「いいね!僕は生活費に回してたからそんなに貯金ないけど、でも少しはあるし。全部使
っちゃおう」
そうか。ユウは、この家で一人で暮らしていたんだ。
妹が殺されて、お父さんが自殺した、この家で、一人で。
一人で住む3LDK。妹が殺されてお父さんが自殺した3LDK。
そこで一人で生活する苦しさや悲しさはどんなだろう。
悪夢で飛び起きた日。
苦しくて泣き明かした日。
気が狂いそうになって、狂いたいと切望した日。
ああ、そうして彼はクルージングに顔を出すようになったんだ。
そこに安らぎはなくても。
僅かな救い、『アタマがオカシクなる』事を求めて。
「ねえ、ユウ」
「ん?」
私が彼に出来る事。
出来るだけ彼を受け入れる事。
出来るだけ感情を分かち合う事。
それだけだった。
自分の無力さに嫌になる。
でも、似た者同士の私だからこそ、出来る事もあると信じて。
「いっぱいいっぱい楽しもうね」
「うん」
ユウは満面の笑顔で答えた。
ああ、そうだ。もう一つ。
出来るだけ、彼を愛する事。
次の日、私達はデパートに来ていた。目的は買い物。
とりあえず、欲しいものとか何でも買っちゃえ!みたいなノリで。
私は真っ先に、CとCのロゴで余りにも有名な、一流ブランドのSHOPに行った。
以前、路面店に飾ってあったのを見て、綺麗だなあ、と思っていたワンピースを買おう
と思ったのだ。
フロアの雰囲気からして、他の階と違う。床に敷き詰められた絨毯。勇気を振り絞って、入り口に入る。
高級感に満ちた店内で明らかに私達は『異物』だった。
店員の目が笑っていない。さっさと出て行け、とでも言いたげだ。
「あの。このワンピース、試着させてもらえますか?」
「…かしこまりました」
うさんくさそうに試着室に案内された。
試着室も、私が今まで着ていた服のSHOPとは段違いに広い。
黒のニットのワンピース。肌触りが信じられないくらい心地よい。
その肌触りにうっとりする。
試着室のミラーでワンピースを着た私をみる。
明らかに似合ってない。モロに服に着られている。
でも、ごめんなさい、マドモアゼル・C。
このワンピースがどうしても欲しいんです。最後にこのブランドのの服を着てみたいんです。どうか、許して下さい。本当は、もっと時がたって、本当にこのブランドが相応しい大人の女性になって着たかったけど、それは無理になっちゃったから。
試着室を出て、店員さんに言った。
「これ、戴きます。着て帰ります」
80万円ナリ。
ついでに靴も買って(だってそれまで履いて来た靴は余りにもワンピースに似合わないから)合計で84万3千円ナリ。さらにバッグも買って(だってそれまで持ってたカバンは余りにも全てに合わないから)、結局合計で103万3千円ナリ。
こんな大金を数十分で使うのは初めて。
カバンから札束を出して支払いをする私を、店員は目を丸くしてみていた。面白い。どういう人間だと思われてるんだろう。
それまで着ていた服や靴や鞄を紙袋に入れてもらってSHOPを出た。
多分、もう二度と来る事はないだろう。
そう思うと、悲しくなった。
さようなら、マドモアゼル。ありがとう。
ユウは、特に欲しいものはないけど、一度女装がしてみたいと言った。
「所謂ニューハーフの人達と僕たちゲイは違うんだけど。彼女達は性別と体を神様が間違えちゃった人達だから。でも、一度女装したいとは思ってたんだ」
「どういう服が着たいの?」
「思いっきりゴスの服がいいな。前に冷やかしでそんな店に入ったんだけどさ。そこに飾ってあった白いワンピース、あれが欲しい」
道に迷いながらやっと見つけたユウの言うSHOPは、入り口が鉄格子で地下へと続き、壁には鎖やビニールに包まれたマネキンが飾られている。
中には、全身真っ黒のgothな服を着た美人の店員が3人いた。
彼女達はは特に私達に話しかける様子もなく、服を整えたり、伝票の整理をしていた。
店の中は蛍光灯ではなく、白熱灯がいくつも天井からぶら下がり、それが店内をぼんやりとした光で映している。
ユウのお目当てのワンピースはすぐに見つかった。
胸の部分がコルセットのような編み上げになっている、真っ白なロングのワンピース。
「試着したいんですが」
ユウが美人店員に話しかけた。
彼女はちょっとだけ顔にびっくりした表情を浮かべて、ユウを試着室に案内した。
どんなんだろう。
ユウはもとの顔が物凄く綺麗だから、きっと似合うだろうな。
いや、でも基本的に彼は男だから…。
私が色々と考えていると、試着室のカーテンが開いて、ユウが出て来た。
「…何か、変」
憮然とした顔でユウが言う。
確かに、何か変だった。
ユウの髪が短すぎるからだろうか?彼の髪は少しウェーブがかかった薄い茶色で、耳の下辺りまでの長さ。
女装には、少し合わないかもしれない。
そこに、美人店員が黒い帽子とブーツを持って来た。
帽子を被って、サイドの髪を少しだけ出して、ブーツを履くと。
思わず私は口をぽかんと開けた。
天使のような美少女。
「これ、全部下さい。着て帰ります」
合計13万4千円ナリ。
これでも十分すぎる程高価な買い物なのに、さっきの買い物が桁外れだっかたから、感覚が麻痺して、「安い!」と思ってしまった。
SHOPを出る。
まだ、時間は夕方。
さあ、次はどこへ行こうか?
飛びきりの美少女(男だけど)と、全身超高級ブランドの女子高生。
奇妙なフタリ。
今なら何でも出来る気がする。
何でも来いって気がする。
「次、何か欲しいものとかある?」
「うーん…ない。ハナは?」
「………ないなあ」
「物欲ないね、僕たち」
軽く笑いながらユウが言う。私も軽く笑って答える。
「ね」
「とりあえず、ぶらぶらしよっか、折角こんなところまで来たんだし」
「そうだね、物凄い美少女を街中に見せびらかさなきゃ」
「あははは」
私達は、久しぶりに来た街をとにかくブラブラした。
道端の雑貨屋を冷やかしたり、路面店に入ってみたり。
疲れたらカフェでお茶を飲んで。
そして夜になって、そこら辺にあったカフェバーで夕食を採る事にした。
店内は、四角だらけ。
キューブみたいな椅子やテーブルやオブジェ。
私はワタリガニとトマトのパスタとビール、ユウはペペロンチーノとカンパリソーダを注文した。
ワタリガニはバカみたいに食べにくくて往生したけど、美味しかった。
「これからどうしよっか?」
ちょっとだけビールを飲んでほろ酔いになったら、もっと飲みたくなった。
「折角だからクラブ行かない?この辺にね、Atomicってクラブがあるの」
そこは私が時々友達と行くクラブで、かかっている曲は大抵トランス。
酒(か、クスリ)でハイになって踊るのは楽しい。
「僕、クラブって初めてなんだ」
「そうなんだ?酒ガンガン飲んで踊り狂うの、超楽しいよ」
「じゃあ、ハナがカニ食べ終わったら行こっか」
Atomicの前では、数人の男が地べたに座って煙草を吸っている。微かにガンジャの匂いもした。
懐かしいな。
外からでも音楽がガンガン響いている。
私達はそこを素通りして、入り口に入る。2500円払って、ドリンクチケットを受け取る。
左手に再入場用のスタンプを押してもらって。手荷物はロッカーに入れて、フロアに行く。
鼓膜を劈くような爆音。
ああ、久しぶりだ。この感覚。
ユウは初めてのクラブが珍しいらしく、キョロキョロしている。
爆音で声が届かないから、耳元で怒鳴るように喋る。
「とりあえず、バースペ行ってお酒飲も!」
私はバーテンの兄ちゃんにドリンクチケットを渡して、
「ズブロッカ!ロックで」
と叫んだ。
「いきなりすごいの頼むな」
ユウが笑いながら言う。
「酔ったもん勝ちよ!」
「じゃあ、僕もズブロッカ!ロック!」
兄ちゃんはズブロッカを2杯作り、無造作に置いた。
それを受け取って、テーブルのあるブースに移動。
「取りあえず乾杯!」
使い捨てコップを合わせて、私は一気にズブロッカを飲み干した。
それを見て、ユウも一気に飲み干した。
二人顔見合わせてニッコリ。
そこに頭の悪そうな男が二人、話しかけて来た。
「ねーねー、二人で来たの?」
「一緒に踊ろうよー」
いつもは適当に乗って流すナンパだけど。
ユウに目配せすると、分かってくれたらしく、彼はこう言った。
「僕、男だよ」
ユウの声を聞くと、男達は逃げて行った。
「あはははは!根性ねーよ!僕の好みじゃなかったからいーけど」
「あはははは!」
一気飲みしたズブロッカはすぐにまわる。
それでも私達はもう1杯ずつズブロッカを飲んで、フロアへ踊りに行った。
ガンガンと響くトランス。
今かかってるの、どっかで聞いた事あるな。CD持ってたっけ。ああ、それにしてもトランスは最高に気持ちいい。
ましてや酔ってる時は。
フロアではみんな思い思いに踊っている。
私達も適当に踊る事にした。
トランスと酔いがうまい具合にアタマの中で混ざり合う。
グルグル回るフロアブース。
ユラユラ揺れるサイケデリック。
時々ユウと目を合わせて笑う。
時々バースペでまたズブロッカを一気。
Atomicにはお立ち台みたいなのがあって、そこの上にあがって踊ったりもした。
ズブロッカの強烈な酔いで、異様に楽しく、異常に高揚して、私達は踊り続けた。真冬なのに少し汗ばんだりもしながら、とにかく踊った。
盛り上がって服を脱いで、ブラ一丁になってる女の人にオッサンみたいな歓声をあげたり。
何度もズブロッカを頼んでバースペの兄ちゃんと仲良くなったり。
ナンパに来る男達をあしらったり。
私達は、発狂したように楽しんだ。
猛烈な眠気と疲れが襲って来て、帰る事にしたのは明け方4時。
外に出るとまだ真っ暗で、冷気が火照った頬に心地よかった。
まだ二人とも完全に酔っぱらっていたので、二人とも異常にハイで、滅茶苦茶な事を叫びながらタクを拾って帰った。
タクの中でもぎゃあぎゃあ騒いで笑う私達を運転手は素無視。慣れてるんだろう。
家に帰って、ユウはフラフラしながら「おやすみ〜」と部屋に入った。その直後、ばたーんと倒れる音がした。きっと床に倒れて寝てるんだろう。
私はフラフラしながら、それでもシャワーを浴びてから、ベッドに崩れ落ちた。
今日1日の我々の狂いっぷりを思い返しながら。
第八話へ続く。




