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もう、何も要りません。5

第五話


 その日、母親はまたも醜く酔っぱらい、私に因縁をつけてきた。 

 そしてまたお決まりの言葉を吐く。

 ろれつの回らない、醜い喋り方。

 醜く理性をなくした姿。

 まさにアル中そのものの、姿。

「お前なんか堕ろせばよかった…なんで産んじゃったんだろ。お前みたいなクズ」

「…死ねばいいのに!」

 存在価値の全否定。

 それを実の母親から言われる私。

 ママはいつから私をこんなに激烈に罵るようになったんだろう。

 記憶には霞がかかって朧げにしか思い出せない。

 そんな考えもすぐにママの怒鳴り声でかき消された。

「いつもいつもぼんやりして気味が悪いったら!」

 私、ただ立ってあなたの怒鳴り声を聞いてるだけだよ。

 それが、気味が悪いの?

 どうして、いつから、どこから、私達はこうなったんだろう。

 私の存在を作り出した張本人がその存在価値を否定したのに、私と言う存在は消えない事が不思議だった。

 否定されたその瞬間、存在自体も消滅してしまえばいいのに。

 人間てなんて厄介なんだろう。

 これが陶芸品とか例えばそんなものなら、叩き壊して全てが終わるのに。

「あーもうお前の顔見てるだけで寒気がする!消えて!あたしの前から!」

 ママにそう言われて私は2階の自分の部屋に帰った。

 外界から遮断してくれる薄いドアを静かに閉じて、私は柔らかいソファに倒れ込むようにして座る。

 深いため息。

 安堵じゃない。

 疲れと、絶望のため息。

 何故だか机の下にもぐりこみたくて仕方なくて、だけど本当にもぐりこんだら、余りにも居心地が良くて、もう二度とそこから出て来れなくなるような気がしたから、私はその意味不明の衝動を抑えようと戦う。

 だけどそんな意味不明なことを考える自分が馬鹿みたいで、少しだけ笑った。

 ママは私を嫌っている。

 憎んでる、と言ってもいい程に。

 それはどうしてだろう。

 私がパパに似てるから?

 私の頭が悪くて、世間に自慢出来るような娘じゃないから?

 ママとパパがまだ一緒に住んでいて、私を可愛がってくれた微かな記憶。

 その記憶はほんの10年前くらいのものなのに、想像もつかない程昔のように感じる。

 隙あらば私にケチをつけようとと待ち構えてでもいるようなママ。

 そして私は罵られ、否定される。

 逃げ出したい。

 こんな苦痛に耐えて耐えて耐えて耐えて耐えた6年間。

 限界だ。

 もう、こんな苦界で生きる事に耐えられない。

 でも、それでも未だに私は『もしかして、いい子にしてたらいつかママが愛してくれるかもしれない』という望みを捨てきれないでいる。

 情けない。

 こんなに傷つけられてるのに、

 私はまだ、希望を、望みを捨てられず、

 私を憎み続けるママを、私を疎ましく思うママを、ママに、

 愛して欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて。

 母親の、愛情。を、求めている。

 たとえママが私の存在を全否定しても。

 たとえママが私を産んだ事を後悔していても。

『お前なんか堕ろせばよかった』

 ママの言葉が蘇る。

 中絶。

 胎児の頃に消し去れば良かったと思う?

 それなら、それなら。

 本当にいっそ消して欲しかったよ。

 消さなかったのなら、今更戻らない過去を私に押し付けないで。

『お前なんか堕ろせばよかった』

 何度も何度も言われ続けた言葉なのに、何故私は慣れる事が出来ないんだろう?

 何故毎回毎回苦しいんだろう?

 何故毎回毎回悲しいんだろう?

 そして、泣くんだろう?

 喉の奥に小さな空気の塊のようなものがつまって、涙が後から後から溢れる。

「ぅ…ぅ…っ…」

 私は、今までの経験上、余り声を出さないで泣く事が出来る。

 何の自慢にもならないけどね。

 ああ、明日は目が腫れちゃうな。

 目の様子を見ようとドレッサーの鏡を見て、ふと自慢の綺麗な長い髪を束ねて、頭の上でまとめてみた。

 私は立ち膝のまま、しばらく鏡を見つめていた。

 それから急に、机の引き出しからハサミを取り出した。

 そして、まとめた髪の根元を、ざっくりと切った。

 髪がばさばさと床に散らばる。顔にも髪がくっついて、くすぐったくて鬱陶しい。

 それをイライラと払いのけて、また髪を切った。

 適当に、無茶苦茶に。

 不思議な、爽快感。

 一つハサミを入れる毎に何となく心がすっきりするように感じる。

 多分、錯覚なんだろうけど。

 それでも私は切り続けた。

 ざく、ざくというハサミの音が軽快で心地良い。

 その音にまかせて、無我夢中で切り続けた。

 ねえ。

 愛してないなら、いらないなら、

 無惨なおかっぱ頭になったところで、ざくざく言う音にも、髪を切る感触にも飽きて、ハサミを持て余した。

 いてもいなくても同じ存在なら、

 そのハサミの刃で、腕を切ってみた。全然切れない。

 筆箱からカッターナイフを探し出して、それでまた腕を切ってみる。

 だいぶ力をこめているのに、なかなか切れない。

 人間の肉って切りにくいんだな。

 消えても何の問題もない存在なら、

 ようやく一筋、傷が出来て血が滲む。

 それを見たら、何だかふっ、と心が楽になるのを感じた。

 嬉しくなって、私は飽きるまで腕を切り続けた。

 パックリ開いた傷口の奥に白いものが見える。肉かな。あれを切ったら脂肪とか静脈に達するんだろう。でもそこまではしなかった。深さ2mmくらいの浅い傷を沢山作った。

 腕や手首に、傷口からの血を塗り付けて、それは少し冷たくて、少し楽しかった。

 そして、気持ちも少しだけ楽になったように感じた。

 すっきりして、私はふと周りを眺める。

 血に塗れた右腕と、散乱した髪の毛で滅茶苦茶になった床。

 それを見て、私は思わず少しおかしくなって笑った。

 ねえ。愛してないなら、いらないなら、殺してよ。そんな勇気、あなたにはないだろうけど。

 でも、じゃあ、何で私を産んだの?この地獄に私を産み落としたの?

 ドレッサーの鏡を見てみたら、その顔はユウの微笑みととてもよく似ていた。

 ただ、不思議と私はまだ涙を流し続けていた。

 もう少し、もう少し。


 

 次の日。

 あれから私はそのまま床で眠ってしまって、起きてから部屋の掃除をして、お風呂場で髪を切り整えた。

 さすがに無惨すぎたから。

 切り終えてお風呂場から出ると、起きて来たママと出くわした。

 咄嗟に私は右腕を隠した。

 下着姿だったので、昨日切りつけた傷は丸見え。

 傷をママに見られたくない。

 見せたくない。

 本当は髪も見られたくなかったけれど、それはしょうがない。 

 ママは一瞬、私の髪を見て驚いたように目を見開いた。

 そして次の瞬間、鼻で笑った。

「自分で切った訳?また流行の髪型とか真似したんでしょう。そんな滅茶苦茶な頭がかっこいいとでも思ってるの?みっともない」

 朝イチでママの嫌味を聞く。

 ママ。

 かっこいいなんて思ってないです。

 ただ切りたかったからです。

 だから適当に切っただけです。

 腕も切りました。

 滅茶苦茶に切りました。

 血塗れになりました。

 少し痛かったです。

 でも楽しかったです。

 切り終わったら、気持ちが少し、楽になりました。

 あなたに傷つけられた心も少し、楽になりました。


 もちろん、アナタに理解してもらおうなんて思ってませんけど。

 

 ママが出かけた後、私は学校へ行く準備をしながらも、また涙が溢れそうになった。

 また、罵られて、馬鹿にされて。

 その時、右腕の傷が目に入った。

 ああ、昨日滅茶苦茶に切った傷。

 浅い傷や深い傷。

 深い傷は当然、まだ塞がってなくて。

 その隙間に肉が見える。

 血がゼリー状に固まってるところもある。

 そんな傷を見ていたら、昨日のように、また少し気持ちが楽になった。

 不思議。


 学校に着く。

 学校は4階建ての建物が二棟、連絡通路で繋がっている。

 その手前の建物の、一番下の階の、下駄箱から一番遠い教室。

 そこが私のクラス。

「おはよー」

 私は笑う。

「おはよ、ハナ…えーーー!?」

 友達は私の髪を見て大声を出して驚いた。

 それはそうだろう。

 昨日まで胸まであった髪が突然短くなったのだから。

 しかもその切り方は、明らかに素人の手によるものである事が容易に想像がつくものだったから。

「自分で切ろうと思ったら失敗しちゃってさー」

 適当に笑いながら話す。

 友達もそれに合わせて軽口を叩く。

「失敗ってレベルじゃないでしょー、ちょっと」

「ハナ、不器用過ぎ!」

「案外アバンギャルドでいいかもよ〜。デザイン系の専門学生みたいでさ!」

 あはは、と一緒に笑いながら、あたしは思う。

 今が冬で良かった。

 夏だったら、昨日の傷が見えてしまう。

 見せたくない。

 彼女達にも、傷を見られたくない。

 そう思ったから。


 机の周りに集まって、ジョシコウセイの朝のおしゃべりの時間。

 私は、笑う。

 自分の社会適応の良さに感心する。

 私は学校では完璧な『ジョシコウセイ』だった。

 スカートを膝上15cmにあげて、紺のハイソを履いて、化粧をして。

 先生の悪口を言ったり、他愛のない話に笑ったり。

 何の悩みもない、あるとしたらレンアイのことで悩んでいる、普通の女子高生。

 本当にそうだったら、どんなにいいだろうね。

 

 1限目は好きな数学だったけど、保健室に行くと言って、私は屋上に行った。

 今日の空は薄曇り。

 貯水槽のある建物の壁にもたれて座る。

 ここだけが、学校での私の居場所。

 セーターの裾をめくって、ブラウスをひきあげて、昨日切った腕の傷を見た。

 そんなに深い傷はないようだけど、ブラウスにはところどころ血が付いている。

 愛しい。

 この傷が愛しい。

 私の代わりに悲鳴をあげてくれているような気がして。

 ああ、そうか。

 分かった。

 だから、私はこの傷を、ママにも友達にも見られたくないと思ったんだ。

 私の心の悲鳴。

 その傷。

 本当の私を表す傷だから。

 傷をそっと撫でる。

 指に少し、血が付く。

 痛くはない。

 私は傷を撫で続けた。

 ああ。

 穏やかだ。

 静かに、ただ静かに。

 落ち着いていく。

 私は目を閉じる。

 気持ちが無に近づく。

 幸福であるとすら感じる。

 ふふっ。

 私は笑みを浮かべてまた傷を撫で続けた。

 苦痛。

 悲しみ。

 絶望。

 それを通り越した先にあるのは、ただ、穏やかさだった。

 ゆったりと時は過ぎて、漂うように。

 それは幸せと言ってもいいくらいの、穏やかな穏やかな気持ち。

 何もかも、大した事じゃない気がするような。

 そうか。

 これが、諦観の境地。



 どれくらいそうしていたのか分からないけど、扉が開く音がしたから、私はユウが来たのかと思って、扉の方を見る。

 だけど、そこには全く知らない男の子が立っていた。

 とっても綺麗な顔をした男の子。

 ユウ以外にも、合鍵を持ってる人がいたなんて。

 私は驚きすぎて、言葉が出なくて、無言のまま彼を見上げていた。

 彼は私の髪と、腕を見て、驚いた声で問いかける。

「どうしたの、それ?」 

 え。




第六話に続く。

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