もう、何も要りません。4
「ハナ!早く起きなさい!」
朝、ママの声で目が覚めた。
「全く怠け者なんだから!起こさなきゃ起きやしない。あの男とおんなじ!」
パパの事だ。離婚した、パパ。
「あたしはもう出かけるからね。急いで起きて学校行きなさいよ。さぼるんじゃないわよ!」
ママは一応、縁故のツテで勤めに出ている。
朝っぱらから働かない頭に、ママの怒鳴り声。
『あの男とおんなじ』
パパとおんなじ。
思い出す。
昔の事。
あ。
ああ。
ああああああ。
あああああああああああああああああああああああ
あああああああああああああああああああああああああaaaaa、あああ。
あたしはベッドに横たわったままでいる。
頭には何もなく、何も考えられない。
体は動かない。
動かす気力がない。何も出来ない。
気分がすごく下にある。このままどこまで落ちるんだろう。
死にたくて、死にたすぎて、胸が苦しい。
ただ、息を吸い、吐くという動作がものすごく辛い。
憂鬱感とともに目を閉じると、地下にどんどん沈んで行きそうだ。
私には生きる価値がない。
私には何の価値もない。
私は死ねばいい人間。
なのに何で生きてる?
胸が苦しい。
く
る
し
い
。
そんな思いばかりがぐるぐると巡る。
希望なんか全くない。あるのはただ、絶望。
徐々にアタマがオカシクなってるのかな。
このまま、完全にオカシクなればいい。
早く、早く。
苦しいの。苦しくてとても堪らないの。
ベッドに横になって、ただ死を夢想する。
死ねやしない、わかってる、でも。
ただ現実は続く。
いつになったら私は楽になるんだろう。
助けて。
誰でもいいから。
苦しい。
苦しいの。
その時、ふとユウの顔が思い浮かんだ。
何も考えられない頭に、彼への愛情だけははっきりと思い描けた。
ユウ。
ユウ。
絶望でいっぱいの頭に、少しだけユウの事を考える。
横になったまま、彼と話した事や彼と過ごした事を思い浮かべる。
ちょっとだけ、楽になったような気がする。
このまま目を閉じよう。
この隙に、目を閉じて眠ってしまおう。
このままずっと、目覚めなければいいのに。
あり得ない事だけど、眠る度にいつもそう願う。
このまま死んでしまえますように、って。
目を閉じたまま、永遠に眠れますように、って。
「おはよ、ユウ」
次の日は普通に学校に出かけられた。
お昼に屋上に行くと、ユウが来ていた。
「ハナ、昨日来なかったけど、風邪?大丈夫?」
指切りげんまん。
約束。
「あのね…物凄い、鬱で。動けなかったの。昔の事とか、思い出して」
「ママに罵られて、辛くて辛くて。死にたくて。苦しくて。でも、ユウの顔思い浮かべて、そしたらちょっとだけ楽になったの。それで、その隙に寝て、起きたらだいぶマシになってた。今日はフツーに大丈夫だよ」
こんな話を他人に出来る日が来るなんて思ってもみなかった。
ユウに昨日の出来事と、その絶望感を話すと、少し楽になった。
「…ハナ、お母さんがアル中だって言ってたよね。お母さんは、ハナを罵ったりもするの?」
「…うん…」
「暴力とかは?」
「小さい頃はよくされたけど…大きくなってからは言葉の暴力になった」
「そっか…辛いよな、親に罵られるなんて。体の傷よりも、ずっとずっと苦しいし、悲しいよね…。ハナ、よく今まで一人で頑張って来れたね。辛かったね」
「うん…」
私はやっぱり馬鹿で弱いから、ユウの優しさに涙が溢れた。
そして子供のようにユウにすがりついて、泣いた。
ユウはそのまま、『いいこいいこ』と頭を撫でてくれた。
私がずっとママにしてもらいたかった、『いいこいいこ』。
私はますます泣いて、泣いて、泣きまくった。
そして、泣きつくしたらなんだか妙にすっきりして、晴れ晴れとした気分になった。
涙を拭って、私は無理矢理に笑う。
「…でも、しょうがないんだよね」
しょうがない。
しょうがないんだもの。
私がママの娘である事も、ママがアル中である事も、ママが私を罵しり責める事も。
そこに生まれて来てしまった以上、しょうがない。
「しょうが、ない、のかな…」
そう呟いて、何か考えるようにユウは床を見つめている。
「ユウ、どうしたの?」
「ん?ああ、ごめん。何でもないんだ」
「そうなの?…なら、いいんだけど」
どうしたんだろう。
ユウは、何か、考えていた。確かに。
ある日の学校帰り、私達はユウの家に寄る事にした。
ユウの家は15階建ての分譲マンションで、部屋は10階にある。
廊下から下を見るとすごく高い。落ちたら死ぬのかな。死ぬんだろうな。痛いのかな。
その時は、怖いのかな。
家には誰もいなかった。
3LDKが異様に広く感じる。家具が余りない。
「家の人って仕事中?」
通されたリビングのソファに座り、ユウが何気なく聞いたら、ユウは微かに微笑む。
それは、出会った時の、あの微笑みだった。
そして言った。
「お母さんは男と出て行ったんだ。お父さんはリストラとそれが重なって首を吊った。妹はお父さんが自殺する前に、殺されてたよ。道連れが欲しかったんだろうね」
さらりと壮絶な話をするユウ。
ああ。
この微笑みには、とてつもない量の感情や、言葉や、叫びが押し込められているのか。
だからこそこんなにも悲しくて切ないのか。
「…僕って、家族にとって何だったのかな。お母さんは僕たちを捨てた。お父さんは妹を道連れにして殺したけど、僕は生かされて、普通に寝てたよ。睡眠薬でも飲まされたんだろうね。お茶か何かで。起きたら…リビングは血まみれで、妹が横たわってて、風呂場ではお父さんが…」
そして彼は、また穏やかに微笑んだ。
しばらくの沈黙がまた続いて、私は口を開いた。
少し声が震える。
「…私のママ、アル中だって言ったよね。よく罵られたりするって。それね、私、生まれてすぐパパが愛人作ってさ。物心ついた頃には家はどろどろだった。ママはそれからアル中になって、酒を飲んで。パパが帰ってくる度にそれこそ命がけの喧嘩をしてたよ。ママがパパに包丁を突きつけたり、パパがママの髪をつかんで壁に殴りつけたり。それに割って入って泣きながら止めるのは必ず小さい私で。私は夜が来るのがすごく怖かった。ママはよく自殺未遂をして、それを見つけるのも大抵私で、恐怖と心配で死にそうだった。ママに無理矢理水を飲ませて、指を突っ込んで吐かせたり、お医者さんに電話したり、それを小3くらいのの私がするの。しばらくするとおばあちゃんとかが来てくれて、それでやっと私はやっと安心出来て。…私が小5の時にね、やっとパパとママの離婚が成立して、『ああ、もうあんな思いはしなくていいんだ』って安心したけど、でも『もう二度とパパと朝ご飯を一緒に食べたり出来ないんだなあ』って思うと寂しかった。でも、私はこれで平和になる、そう思って疑いもしなかったの。…でも、それからも地獄だった。私はパパ似で、でもそんなの遺伝子のせいで私のせいじゃないのに、ママはいつもそのことで私を責めるようになって。「あんな男に似やがって」とか、『お前なんか産まなきゃ良かった、堕ろせばよかった』とか『今すぐ死ねばいいのに』って。それで、こないだも泣いてたの。親に存在価値を否定された子供って、生きてる意味があるのかな…。今頃、ママ、家でお酒飲んでるんだと思うと帰りたくない。帰りたくないよ…」
私は、彼の壮絶な体験に対して言うべき言葉が分からなかった。
私は、彼の壮絶な体験に対して自分の傷も披露する事しか出来なかった。
昔を思い出したのか、話をしながら怖くて足がガクガク震えて、何となく寒くなったような気すらして、両手で体を抱きしめながら話した。
私は、彼の傷に対して、自分の傷も曝け出して、舐め合う事しか思いつかなかった。
それが正しい答えだったのかは分からない。
もっといい答えがあったのかもしれない。
でも私にはそれしか出来なかった。
それしか出来なかったんだ。
そう思って震える体を抱きしめながら私は無理に微笑む。
ユウのあの微笑みを出来るだけ真似して。
「しょうがないよね」
そして私はまたその言葉を言う。
しょうがない。
しょうがないんだ。
どれだけ苦しんでも悲しんでも、どうしようもない事、それは必ずあるから。
だから。
「しょうが…ない、のか」
「しょうが…ない。しょうが、ない、」
「そうだね、しょうがない」
ユウはその言葉を繰り返して、しばらく俯いた。
それから顔をあげて、ゆっくりと微笑んだ。
ああ、この微笑みは諦観の笑みだ。
全て諦め、全て受け入れ、地獄を見た者だけが出来る美しい微笑みだ。
もしかしたら、諦観は、全ての感情の中で一番美しいのかもしれない。
「…うん、しょうがないんだよ」
私は彼の手を握って、言った。その手は優しく、温かかった。




