もう、何も要りません。3
第三話
今日の天気予報は晴れ。
だけど、恐ろしく風が強くて寒い。
屋上に行くと、物凄い風が吹き抜けている。
今日は飛び切り寒い。
「寒いね。寒すぎる。あり得ないくらい寒い」
私は両腕で体を抱き締めながら言う。
「ほんとに。今日は『屋上日和』じゃないなあ」
ユウも寒そうに言う。
「屋上日和って」
思わず笑いながら繰り返し、続けて言った。
「今日はフツーに授業受けるしかないっぽいね。帰りに遊びに行こ」
「そうだね。じゃあ、校門で待ち合わせよっか」
「うん、そうしよ」
いくら二人の楽園でも、びゅうびゅうと風が音を立てて吹き荒れてているようでは、落ち着いて過ごすなんてとても無理。
授業が終わって校門に行くと既にユウはいて、私達はそのまま駅前に行く事にした。
駅前は駅ビルもあって、学校の近くにしては栄えてる。
いちじくのクリームをはさんだパンが人気のパン屋さん。
シックだけどバカ高い喫茶店。
ギャルい服を売ってるセレクトショップ。
パチンコ店。
そんな商店街を抜けると、デパートや予備校、カフェバーとかが連なる中心地となる。
そしてその少し外れに公園があって、住宅街が続くようになっている。
「そういや、ハナの家ってここら辺って言ってたよね」
ユウが言う。
「うん。寒いからお茶でも飲んでく?って言いたいけど、うち両親が離婚して、母親はアル中で。それが嫌だから私、なるべく家には遅く帰るようにしてるんだ」
ちょっと笑いながら答えた。これも初めて人に話す事だった。
笑顔はうまく出来ただろうか。
重い事を重くないように言うのは難しい。ましてや、シラフで。
「そっか」
ユウの横顔は夕日で赤かった。
予備校の生徒らしき男の子たちが笑いながら側を通り過ぎた。
私達は無言でそれを見送る。
彼らの苦しみはなんだろう。受験?
それとも人知れず苦しみに耐えているのだろうか?
その苦しみは、私よりも大きいのだろうか?小さいのだろうか?
「苦しみっていうのは、どうやって耐えて行けばいいんだろうね」
ユウは、私に向かって言ってるような、自分に向かって言ってるような感じで、小さく呟いた。
冷たい風が吹いて、私の短いスカートの中を吹き抜けて行った。
太ももが冷たい。
「ただ、ただ、慣れて行くしか、ないのかな。それが、通り過ぎるまで」
「…でも、慣れる事の出来ない人は?」
「…うん」
私はただ、頷く。
私達は、知っているから。
その答えを。
私達だけが、分かる答え。
目の前には、5万。
福沢諭吉の描かれた紙が5枚。
これが私の1時間半の価値。
今日のオヤジは羽振りがよかった。
最近不景気なのか、女子高生の価値が下がったのか、ウリの相場は2〜3万くらい。
たまに7万くらいくれるイイヒトもいるけど。
この紙、どうしようか。
特に欲しいもの…今は何もないや。
オヤジは先に出て行って、私はラブホの部屋でただその5枚の紙を見つめる。
体中についたオヤジの体臭が気持ち悪い。
洗い流したい。すぐにでも。早く。早く。
でも私はお風呂には行かずに、その気持ち悪さの中、ベッドの上で横たわる。
気持ち悪さを噛み締めながら。
わざと、気持ち悪さの海に自分を突き落として。
ああ。
あああ。
ああああああ。あ。あ。
もう少し。あと、もう少しだ。
ハナがホテルで横たわっている間、ユウもクルージングの店でオヤジに選ばれていた。
彼は店の売れっ子だった。
ホテルでコトを行う時、ユウは何も考えないようにしている。
僕はただの肉塊。
感情なんかない肉塊。
沸き上がるこの嫌悪感は、ただの脳内の電気信号。
シナプスとシナプスの間を走る脳内伝達物質。
そう言い聞かせつつ、体を売る。
そんなユウを、突然、客はぶん殴った。
一瞬、ほんの一瞬だけ苦痛にゆがむユウの顔。
それを見て客は満足げに気味の悪い笑みを浮かべた。
コトが全て終わり、彼の目の前には2万円。
ユウは思う。
あいつのパンチは痛かったな。少しだけだけど。
鏡を見ると、口が切れて血が出ている。頬も少し腫れているようだ。
これで2万は安いと思うけど。
でも今、何か欲しいもの…特にないな。
じゃあ、まいっか。
ああ、もう少し。もう少し。
もう少しだけの辛抱だ。
2人の不思議なシンクロ。
次の日、ユウは屋上に来なかった。
風邪でもひいたのかな。最近寒いし。心配だな。
明日は来るといいな。
翌日の授業中、教室の窓から下をぼんやりと眺めていたら、遅刻して登校するユウの姿が見えた。
良かった。今日は屋上に来てくれるかな。
私が2時間目に屋上に行くと、ユウはそこにいた。
彼は、屋上の柵にもたれてグラウンドを見ていた。
「ユウ」
後ろから声をかけると、彼は無表情で振り向いた。
その無表情さは、凍てつくような鋭さで、私は一瞬寒くなった。
口の横には絆創膏が貼ってある。どうしたんだろう。
「ハナ。おはよう」
無表情のまま、彼は言った。
「おはよう」
それきり、かける言葉が思いつかなくて、私も柵にもたれてグラウンドを見つめた。
体育の授業で男子がハンドボールをやっている。
騒がしい叫び声は遠くて、下界(ほんとにこの表現がぴったりだと思う)とここは、余りにも空気が違う。
「…一昨日、またウリしたよ」
ユウがぽつりと言った。口の傷はその時のもの?
「私もしたよ」
「いくら貰った?」
「5万」
「やっぱ、女の子の方が価値があるね。僕は2万」
「そうなのかなあ。最近は女子高生も不況っぽいよ」
また、無言。沈黙。
なんだか、今日のユウは雰囲気が違う。
近寄りがたくすら感じる。
「ねえ」
私の方を見もせずに、彼が問いかけた。
「…アタマって、いつオカシクなるのかなあ?」
彼の言葉が音になって、耳に入り、脳に届く。
そしてその意味を解釈した時。
私は、硬直した。
アタマが。
オカシクなる時。
そうか。
やっぱり、ユウは私と同じ理由でウリをしていたんだ。
絶望のどん底に落ちて、アタマがオカシクなって、自殺でもなんでも、簡単に適当に出来るようになる為に。
アタマがオカシクさえなれば、死ぬのなんか怖くなくなるはず。
その為に、私達はウリを続けているのだ。
とことんまで自分を痛めつけて、地に落として。
そうして、死ぬ為に。
苦痛から逃げる為に。
今日、ユウの様子がおかしいのも、納得がいった。
彼は、アタマがオカシクなるのを待つのに疲れたのだ。
そして、そんな日々にも。
そして、私ももういい加減疲れていた。
彼も私も、弱い弱い、人間なんだ。
苦しみも、悲しみも、耐えるのはもう限界だった。
「助けて…」
小さな小さな、聞き取れない程小さな声で、ユウが呟いた。
その後、もう少し大きな声でまた繰り返した。
「助けて」
「僕はもう、限界だ。もう、耐えられない。もう、ウリなんかしたくない。もう、何もしたくない。もう、何も考えたくない。もう、動きたくない。もう、生きていたくない。もう、何もかも無理なんだ。でもまだ、死ぬ勇気がない。まだないんだ。そんな情けない僕は、一体どうしたらいい?どうしたらいい?教えてよ!どうしたらいい?」
いつも穏やかなユウが、感情をぶちまけて、叫ぶようにまくしたてた。
痛烈な思いに、声が震えている。
頭をかきむしるように抱え込み、彼はもう一度、最後の言葉を繰り返した。
「…どうしたらいい…」
私は、そんな彼に何も言えなかった。
何も言える言葉がなかった。
私も同じ思い。
でも、答えはなくて。
どうしても、それへの答えはなくて。
本当に、一体どうしたらいいんだろう。
一体、どこに救いはあるんだろう?
私達みたいな人間はただ、苦しみに耐えるしかないの?
死ぬまで、その苦しみに。
「一緒に、いるよ」
「私が、一緒にいる」
なんとか出てきた言葉は、余りにも曖昧だった。
俯いて床に座った彼の隣に正座して、彼の手を握った。
その手は消えてしまいそうに軽かった。
そのまま、どれくらい経ったんだろう。
今、お昼くらいかな。
「オナカ、すいたね」
何気なく私がそう呟くと、彼はぷっと吹き出した。
余りにものんきに聞こえたのかな。
でも、おかげで今日、初めて彼の笑顔を見れた。嬉しい。
「すいたかも。何か食べに行こうか。もう学校はさぼって」
私達はこっそり学校を抜け出して、お昼に出かけた。
お昼は美味しくて、私も彼もいつも通りに話し合う。
でも、私はどうしてもさっきまでのユウが気になって。
あんなにまで追いつめられて苦しむユウが悲しくて。
「ユウ」
「ん?」
「…私、あんなユウ初めて見たよ」
「あんなに、限界まで我慢しないで。私、ほんとに何も出来ないけど。側にいる事とか聞く事しか出来ないけど。でも、それでも、少しでも楽になるかもしれないし。だからお願い。辛かったら、私にぶちまけて。全部。全部。楽になるまで」
感情を剥き出しにして苦しむユウ。
座り込んで、動かないユウ。
そんな彼の姿を見た今日、彼が余りにも不安定で、ギリギリのところで何とか生きてる状態なんだって、今更ながら思い知った。
無力な私だけど。
本当に、ちっぽけだけど。
ユウの力になりたい。
心底、そう思った。
「ありがとう…」
ユウは嬉しそうに、照れたようにに言った。
「でも、ハナも。ハナも、辛い事とか、僕にぶちまけて。ハナも、絶対に溜め込まないで。約束」
そして、私達は小さい子みたいに、指切りげんまんをした。
二人とも、少しだけ笑顔になった。
第四話に続く。




