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美奈

 仕事を終えて携帯を見ると、お姉ちゃんから電話がかかってきていた。きっと長くなるだろうと思ったから、電話をかけるのは帰ってからにすることにした。着替えて職場を後にし、電車に乗る。もう日常となった都会の景色を眺めながら、電話の内容について考えていた。

 お姉ちゃんは最近、情緒不安定だ。結婚を前にしているからという一般的な理由もあるし、当人たちの特別な事情もある。私だったら、どうするだろう。この世で唯一信じられると思えた男性が、不治の病にかかっているかもしれないとしたら。


 先週のことだ。お姉ちゃんが体調を崩してかかっていた病院で、その可能性を指摘されたのは。

 お姉ちゃんの彼氏さんは結婚する段になって急に「子どもは欲しくない」と言い出した。子どもを欲しがるお姉ちゃんとの溝が深まり、一時は破談の話まで出た。そんな時に、若い女の先生に言われたそうだ。「もし相手が片親なら、その理由を聞いたほうがいい」と。

 確かに彼氏さんの父親はいなかった。でもそれはうちも同じだから、敢えて深くは聞いていなかった。お姉ちゃんが尋ねると、彼氏さんとそのお母さんは、堰を切ったように話してくれたらしい。父親が「ハンチントン舞踏病」だったこと。急激に動けなくなり、自分のことも分からなくなり、数年前に亡くなったこと。それがトラウマになっていること。そこで私に連絡が来たわけだけど、いくら医療関係者だといっても医者じゃないんだから分かるわけがない。でも少しでも力になれるならと、調べてはみた。


 ハンチントン舞踏病。いまだに治療法が見つかっておらず、発症すれば急速に進行し、数年でほぼ確実に死亡する神経難病。そしてこの病気は50%の確率で遺伝し、浸透率はほぼ100%。つまり、父親がこの病気だったということは、彼氏さんがこの病気を持っている確率、更に言えばこの病気で亡くなる確率が50%なのだ。しかも遺伝するたびに発症年齢は若くなり、重症化していく。そんな、悪夢のような病気を彼氏さんの父親は、いや、家系は、持っていた。

 遺伝病だから遺伝子を調べれば、その病気が遺伝しているかどうかは分かる。でも彼氏さんは調べていなかった。その理由は私にも分かる。だって、もしそれで病気であることが確実になったら、自分が若くして死ぬ運命にあることを知ってしまったら。その衝撃に耐えられる自信は、私には無い。そして、そんな思いを自分の子どもには味わわせたくないと考えるのも、ごく自然なことのように思える。


 呼び出し音が1回鳴り終わらずに、お姉ちゃんは電話に出た。その声は、今にも泣きそうだった。

「美奈! どうしよう! 私、どうしたらいいか……!」

「お姉ちゃん、落ち着いて。何かあったの?」

「別に、何もない。ただ、彼の病気について、病院で説明を聞いてきたよ。大体は美奈が言ったのと同じ話だった。検査をするかって訊かれたけど、恐くて……少なくとも彼は今は発症してないから、様子を見ようって。でも、何かあるとすぐに病気じゃないかって恐くなって、これからもこれが続くんだって思うと……」

 きっと、彼氏さんはこうなることが分かっていたんだろう。だから、お姉ちゃんにも病気のことを話さなかった。でもそれはお姉ちゃんの不信を招くことになった。癌や後遺症の告知に似たものがある。知らせても知らせなくても、どちらにしろ辛いのだ。そして、知ってしまえばもう後戻りはできない。

 でも、私個人としては、知らないことで有りもしない不安に悩まされるよりは、知ることで地に足のついた恐怖と立ち向かうほうが、周りもサポートしやすいし、希望はあるように思う。もちろん、立ち向かえない人も見てきたし、それを本人の弱さに帰すこともできないのだけれど。

「私たち……別れた方がいいのかな……」

「……そう、思うんだ?」

「もちろん、別れたくはない。あの人しかいないって思うよ。でも……」

「お姉ちゃんは……その人のこと、好きなんだよね?」

「そうだよ。でも……だからこそ怖いんだ。いつまでこの気持ちが続くかわからない。彼が介護がいるようになったとき、私はうんざりしているかもしれない。そんなの……彼に申し訳なくて……」

 だから。

 だから、お姉ちゃんがそう言った時、私には希望が見えた。

「それなら大丈夫だよ。普通、そんなことにまで頭は回らないよ。本当にその人のことを好きだって証だよ」

 お姉ちゃんが恐れているのは、大切な人を失うことではなかった。彼氏さんが大切な人を失ってしまうことを、自分にその資格が無くなることを、恐れているのだった。なんて深い愛情だろうか。それがあれば、立ち向かえる気がした。人間は困難を乗り越える生き物だから。


「……美奈、ありがとう」

 電話を切る直前、そう声が聞こえた。

「やめてよ、お姉ちゃんらしくもない」

 思わずそう言った時には、もう電話は切れていた。だから、私の言葉は届かなかっただろう。それで良かったと思った。

 私と別々に暮らしているうちに、お姉ちゃんは少し変わった。がさつで男勝りなのは相変わらずだけれど、時々弱さも見せるようになった。でもそれは、お姉ちゃんが弱くなったわけではないと思う。むしろ今までが、誰にも見せられなかったのだ。強がらなくてよくなったのは、きっと彼氏さんの影響なのだろう。だからこそ、二人には結ばれて欲しいと思う。いや、それはきっと私のエゴなのだ。二人が納得する結論を出してくれれば、それに対して、私は何も言うまい。


 翌日、職場に向かう。朝の会議で、新しく担当する患者さんが決まる。

 神経の分野では全国的にも有名な病院で、私は作業療法士をしている。いわゆる、リハビリの先生だ。脳梗塞や交通事故で失った機能を、取り戻す手助けをしている。もちろん完全に元通りになる人は少ない。そのことに絶望してしまう人もいる。でも、多くの人は、そこから時間をかけて立ち直る。困難に立ち向かって、乗り越えるのだ。特に強い意志をもってなった仕事ではなかったけれど、人の強さを感じられるこの仕事が、今は好きだった。

「こんにちは。本日から担当させていただきます、鶴羽美奈といいます。一緒に頑張りましょうね」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 そう言って丁寧に頭を下げたその人は、私と大して変わらない年齢の女性だった。おじいちゃんおばあちゃんばかりの病院では珍しい。病名も聞いたことのないものだった。えーっと、たしか、メ、メニエール……違うな、これは別の病気だ。

「今日は初日なので、色々伺わせてください。まだ手術直後で無理は禁物ですしね。川畑さんは、リハビリをしてどうなりたいと思っていますか?」

「……笑えるように、なりたいです」

 そう言った彼女の顔は、確かに硬かった。顔面神経麻痺があるらしい。脳梗塞や帯状疱疹でも顔面神経麻痺にはなるから、そのリハビリ自体は例がないわけではないけれど、まだ経験の浅い私にとってはなかなかの挑戦だ。ましてや、相手は顔が命の若い女性だ。一緒に頑張ろうというのは、あながち儀礼的挨拶ではない。

「分かりました。笑えたら、きっと素敵ですよ。焦らないで、ゆっくりやっていきましょうね」

「……ありがとう、ございます」


「ありがとう」。その言葉が聞けるのも、この仕事をやっていてよかったと思えることの1つだ。

私はその言葉の重みを知っている。大切さを教えてもらったから。

他の人からすれば些細なことかもしれない。でも、私にとっては人生を左右する重大なイベントだった。もしあの出来事がなければ、今の私は存在しない。眞子を見捨てていたかもしれない。

きっと私は大切なものを失って、なのにそれにすら気づかなかっただろう。

だから、今度は私が、あの人へこの言葉を贈りたい。

心からの感謝を込めて。

ありがとう。

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