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 装置のスイッチを入れた。電子音がして、液晶が点滅し始める。時計は午後11時を指している。増幅が終わるまで約3時間。結果をみるのは明朝でもいいのだけれど、今から帰るのも面倒だし、今日も研究室に泊まろうかな。戸棚からマグカップを取り出し、コーヒーを注ぐ。匂いは好きなのだけれど、どうもこの苦さは慣れない。カフェインに弱いわけではないのにね。口当たりをやわらかくするために冷蔵庫の牛乳を少々入れる。砂糖は就寝前だからやめておこう。


 あれから10年、僕は今、理学院で分子生物学の研究をしている。なんて言うと聞こえはいいけれど、要は大学の延長だ。社会に出るのを先延ばしにしている、とまで言えなくもない。同年代の人たちのほとんどが既に働いてお金を稼いでいることを考えると少し後ろめたい。世界を驚かせるような研究発表ができればいいのかもしれないけれど、そんなのは夢のまた夢で、所属している研究室の方針も相まって、毎日非常に地味な作業の繰り返し。それでもやっぱり僕にはこういうのが合っているんだと最近つくづく思う。小さな仮説を立てて実験でそれを証明する、その地道な積み重ねが新たな知見を生み出すのだと思うと、それだけで僕の心は躍る。これでお金がもらえれば言うことないんだけどなぁ。逆に学費を払っているときたもんだから、親孝行できるのはまだ当分先のようだ。

 あれ以来5人が一堂に会したことは一度もない。たまにばったり出くわすことはあったけれど、進学やら就職やらで散り散りになってからは、年賀状のやりとりをするくらいだ。でも、それでも心の中では、いつもみんながそばにいるように感じる。そう思うのは僕だけではないと信じたい。

 今でも時々思うんだ。僕があの時自分の意志を貫いていれば、みんなあの列車には乗らなかった。今のようにはならなかったはずなんだ。綾乃さんとは中学のクラスメートで終わっていただろうし、隼人と本音でぶつかることもなかっただろう。加奈さんや亜深さんに至っては知り合う機会すらなかった。運命じみたものを感じる、なんて曲がりなりにも科学者が言うべきではないのかも知れないけど、そもそもあの体験自体が非科学的だしね。


 コーヒーを飲んで一息ついていると、携帯電話がなった。画面には北潟あかりとある。

「もしもし」

「こんばんは、水樹君。今大丈夫?」

「うん、実験も一区切りついたところだし」

「ひょっとして、またカンヅメなの? 体壊さないでね」

「ありがとう。そちらこそ体に気をつけて」

 いつものやりとりを経て、僕は尋ねる。

「それで、どうかしたの?」

 一瞬、向こうが逡巡する気配が感じられた。それだけで僕は内容を察する。

「ごめんね、また他言無用の話なんだけど」

「うん、大丈夫。今部屋に誰もいないから」

 僕が先を促し、彼女は話し始めた。


 彼女、北潟さんとは、大学の教養科目で一緒になった。語学の授業でペアになり、彼女が高校模試のトップランカー常連だったことに僕が気付いたのが始まりだった。その後も何かと彼女とは関わりがあって、問題を解決するべく協力したことも何度かあった。逆に僕が鬱病で留年とまでなってしまった時には、――両親や先生は勿論だけれど――彼女には随分助けてもらった。そして僕が院へ進み、彼女が卒業して研修医となっても、こうして時々連絡を取り合っている。

 ……取り合っている、というのは少し違うかな。僕から彼女にかけることはほとんど無いから。だって、ねえ。こんな無職男からかかってきても嬉しくないでしょ。


 彼女の話はこういうことだった。

 Tさん(仮名)は20代女性。1ヶ月前からのめまいと動悸を訴えて彼女の外来を受診した。一通りの検査で異常はなく、自律神経失調症という診断になった。ストレスが原因になっていることが多いため、思い当たることがないかを訊いたところ、恋人と喧嘩していることが分かった。その理由が、どうにも奇妙だというのだ。

 付き合い始めたのは3年前。Tさんは父親の浮気による離婚を経験していたこともあって男性不信だったけれど、彼はとても誠実で信頼できた。彼となら、子どもに自分のような思いをさせない家庭を築けると思ったそうだ。しかし、付き合ってもう長いし、お互いの両親に挨拶もしたのに、いざ結婚をほのめかすと、彼は躊躇しているようだった。そこはTさんが引っ張って、婚約にまでこぎつけたが、直前になって彼からこう言われたという。「子どもは作らないで、2人で暮らそう」と。

「おかしいんです。私がずっと子どもが欲しいって言っていたこと、彼は知っているはずなのに。4人の顔合わせの時だって、孫の話が出ていたのに。理由を訊いたら、『子どもは好きじゃないから』って。そんなわけない! だって、彼は大学の頃に遊園地のバイトをしていたし、映画館で子どもが騒いでいても眉一つ動かさないし、公園で遊んでいる子どもを眺めてニコニコしているんだもの。きっと私と結婚したくないんです。他に女の人がいるんです。だからそんなことを言って、私と喧嘩して、婚約を破棄しようとしてる。そうとしか思えない自分がいて、そう思いたくない自分もいて。だって、彼に裏切られたら、私はもう誰も信じられない!」

 Tさんはそう言って泣いたそうだ。その場は何とか収め、来週改めて診察の予定としたが、どうにも気になって僕に連絡してきたというわけだ。


「だって、浮気してるのに結婚したくない人と婚約なんてするかな。私だったらその前に別れを切り出すと思うけど。でももしかしたら男女で考え方も違うかもしれないから、水樹君に訊いてみようと思って。どう? 破棄前提で婚約するなんてこと考える?」

「僕がまるで浮気男みたいな言い草だね……」

「あはは、そんなことないって」

 ため息をつく。浮気どころか、そういう色恋沙汰にはまるで縁が無かった僕だ。「男」としての意見を訊かれても困る。

 仕事で不思議なことがあったとき、彼女は電話をかけてくる。医師の守秘義務に抵触している気がしなくもないけれど、まあ僕が患者さんに会うこともないだろうし、名前が知れなければいいのだろうか。うがった見方をすれば、僕はいいように使われているのだ。まあ、それでもいい。僕にできることなんて、彼女のそれに比べれば微々たるものだけれど、それでも誰かのために僕にもできることがあるのなら。

「婚約してから、浮気相手ができたってことはあるかな」

「それは微妙。そんなに期間は空いてないし、婚約前から様子がおかしかったっていうし」

「じゃあ、浮気には至っていなかったけど彼女以外に好きな人がいた。ただそれは叶わなさそうだったから諦めて彼女と婚約したところで両想いになってしまい、婚約を破棄しようとしている」

「あー、それなら確かに辻褄が合うかも……でも……」

 彼女の声は暗くなっていく。

「それってあまりにも、酷過ぎると思わない?」

「そんなこと言われても……そういう可能性もあるっていうだけだし」

「うん、可能性だよね。でもまた別の、浮気してない可能性ってないかな」

 どういうこと、と訊くまでもなかった。彼女の仕事は、謎を解くことでも、事件を解決することでもないのだ。

「私はね、Tさんに元気になってほしいの。そのためには、彼とじっくり話し合うのが一番だと思うんだ。でも今は、Tさんは壁を作ってしまっている。何とか話し合うきっかけができないかって、そう思ってるの。だから、浮気以外の可能性がないか、考えたいの。そうすればTさんに確かめようって、彼とちゃんと話をしようって、言えるでしょ。彼が実際に浮気しているかどうかなんて――まあ勿論、していないに越したことはないんだけど――重大なことじゃないんだよ」

「……」

 確かにそうだ。僕がここで頭を捻っても、それは仮説に過ぎない。量子力学ではないのだから、箱の中の猫が生きているかどうかは、開ける前から決まっているのだ。でも死んでいると決め付けて確かめなければ、それが猫を殺してしまうかもしれない。その箱を開ける勇気が、猫が生きている可能性が欲しいと、彼女は言っているのだ。そしてそれは、僕が普段からやっていることではないだろうか。


 話を自分の中でまとめ直す。検討する。流れを見る。経験に当てはめる。自分だったらどうするだろう。おかしな点を具体的に洗い出す。一つ一つに仮説を立てて、できるだけまとめて説明できる案を探す。辻褄を合わせる。帰納と演繹。論理的思考と、柔軟な発想。僕が両者を兼ね備えているかは分からないけれど、最終的に一つの結論を得た。間違いない、とは言えないけれど、矛盾は見当たらない。僕は電話の向こうの彼女に問う。

「ねえ、生まれる前から運命が決まっている病気って、あるかな?」

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