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諒太郎

「……それでは、行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 空港の手荷物検査場の前で、俺たちはそう言葉を交わした。

 今の時期は旅行のシーズンを外している。加えて平日の昼間とあって、いつもごった返しているイメージの強い空港も、少し人の気配が薄れていた。

 彼女の体は少し強張っていた。飛行機が怖い、のではないだろう。多少の躊躇いの後、彼女は一歩を踏み出した。

「――百合花さん!」

 ここで機会を逃さなかった俺を、あいつは讃えるだろうか。それとも、ここまで決心がつかなかったことを笑うだろうか。

 きっと、後者だろう。

 心臓の鼓動と掌の汗とともに、これまでの様々な出来事が脳裏によみがえる。中学生のときのこと。彼女に告白したときのこと。高校の部活での出来事。そして――


「文芸部のみんなの近況を尋ねて回ってるの」

 そう言って仲本が急に連絡をよこしたのは、つい最近のことだった。理由を尋ねると、仲本は電話越しだというのに声を潜めて――まるで内緒話を打ち明けるように――囁いた。

「森田先輩と桜井先輩がね、結婚するんだって」

……それはそれは、おめでたいことだ。当時は全くそんな気配は無かったと思うが、卒業後に再会してからの話だという。

「もうすぐ招待状が元文芸部員には行くはずだけど、それだったらみんなでムービーでも作ろうと思って。協力してくれる?」

 そうして俺は仲本が集めた写真やメッセージを編集することになったのだった。仕事柄、こういう作業には慣れているし、ツールや素材も揃っている。作品は着々と形をなしていき、それはそれぞれの「現在」を垣間見る作業でもあった。


 社会人になると文芸部のメンバーとはすっかり疎遠になってしまった。卒業後しばらくはSNSサイトで近況を報告しあうこともあったが、次第にみんな忙しくなり、俺も滅多に訪れなくなった。部活関係では尾崎と直接連絡を、非常にたまに、取り合うくらいだ。

 尾崎は何でも小学校教諭になったらしい。さもありなんと思うと同時に、高校教師ではないのかという疑問も持ち上がったが、思うところがあったのだろう。俺も親と同じ職場は嫌だが、尾崎のはそんな消極的選択ではなく、もっとポジティブな理由だと思っている。

 仲本本人はフリーランスのレポーターなどをやっているという。非常に彼女らしいと思ったが、失礼ながら俺はそのことを知らなかった。同じ地域で仕事をしていることは聞いていたのにもかかわらず、だ。それを詫びると、仲本は昔と同じように屈託なく笑った。

「まあ、しょうがないよ。まだ小さい仕事しかしてないし。それだけじゃやっていけなくて司会のお姉さんとかもやってるし。と言うよりむしろ、そっちがメインでやりたかったんだけど」

「司会って、イベントの進行役?」

「そうそう。地方のイベントステージとか子ども向けのヒーローショーとかも多いかな。大学の時にバイトでやってみたらハマっちゃって。でもなかなか専属ってわけにもいかなくて、機会がたくさんあるのを求めてこっちに来たって感じかな。榎本君も、子どもができたら見かけることもあるかもね。そしたら教えてよ。観客からランダムに選んだということにしてステージに上げてあげるから」

「俺個人としては丁重にお断りしたい」

 入船先輩は数学科に進んだ。進んだはいいものの、就職先がなくて困っているらしい。

「まあ、よく言うな。数学者か数学教師になるくらいしか道がないって」

「ねー。入船先輩、人に教えるにはまるで向かなそうだし」

 これは手厳しい。確かに先輩の熱弁は聞き手の理解度をまるで考慮していなかった。学者になるにしてもある程度のプレゼンテーション能力は必要だろうが、その枠は果たして日本にどれだけあるのだろうか。

「ま、本人が楽しければそれでいいんだけどね。最低限食っていけれさえすれば」

「その最低限の確保が問題なんじゃないか」

「学者さんって究めれば霞を食べて生きていけそうだよね」

「いきなりファンタジーだな」

「あとはバリバリ稼ぐ女性と結婚するか。結構アクティブだし、物好きを捕まえれば何とかなるよ。主夫やってるところなんて想像できないけど」

「なんかもう酷い言い草だな。概ね同意するけど」

「あとはそのうちノーベル数学賞でも取ってくれればいいなぁ」

 ノーベル賞に数学部門が無いことは黙っておいた。

 霧島先輩のことは俺も知っている。卒業して間もなく推理小説の新人賞を受賞し、その後もいくつか作品を世に出しているからだ。動向を逐一確認しているわけではないが、ブログは時々覗いているし、新作を見かけたら買うようにしている。文芸部のメンバーで純粋に小説で食べているのは霧島先輩くらいだから応援したいという気持ちもあるし、後書きなんかで懐かしい話が出てきてたりもするのでそれが楽しみだというのもある。文体は当時と比べてだいぶ変わっているが、洗練された中に昔の片鱗が覗いていることもあってそれがまた面白い。名は体を表すと言うように文章も書き手を反映するのだなと、当たり前のことを思ったりして。

 榊は一時期、地元のアイドルのようなことをしていた。雑誌で何度か見かけて驚いたものだ。一度だけ遭ったことがあり、その時は「思いっきり有名人になって、私を振ったことを後悔させてあげますから」なんて言っていたが、どうしているだろう。あの手の業界の厳しさは想像を絶するものがある。最近はめっきり名前を見なくなったものだから心配しないでもなかったが、久し振りに写真越しに姿を見た。

「私も詳しくは聞いてないけど、前は色々ゴタゴタしてたけど、今は普通にフリーターしてるみたい。普通に恋人もいるみたいだから心配は要らないんじゃないかな」

 俺と榊の間に起こったことについては、今となっては周知の事実であり、半分は笑って話せる内容となった。それでも仲本の含みを持った話し方は、俺に気を遣っているようだった。俺が責任を感じる必要はないと、そう言われているようで、それが逆に心苦しい。もう半分も笑い話にできるまでには、もっと時間が必要なのだろう。あるいは、そんな時は来ないのかもしれない。

 そして俺は、新聞社に勤めていた。少しは自分の趣味に合わせられたかと当初は思ったが、実際には営業に回され、ひたすら家を回るという文章とは無縁の仕事になってしまった。やっと配属が変わったかと思えば今度は編集の下っ端で、上の言うとおりに記事を加工するというまたも思惑とはずれた状況になっている。まあ人生なんてそんなものか。趣味を仕事にすると趣味が楽しめなくなるとも言うし、案外これがベストなのかもしれない。

 俺と彼女の関係は、10年前のそれと大して変わらない。変わったことと言えば、2人とも社会人になり、上京し、一人暮らしを始めたことくらいだ。当時仲本には「一緒に住めばいいのに」と言われ、森田先輩には「意外とお前も頭の古い人間なんだな」と笑われた。きっと怖かったのだ、ある程度の満足感を得ている現状に変化があるのが。たとえそれが99%歓迎すべきものであったとしても、残りの1%を俺は恐れていた。そしてそれは、今も同じなのだ。


 心臓の鼓動が、速く、強くなる。辺りの情景が薄れ、彼女の姿だけが視界に映る。温度も、騒音も、遠ざかっていく。既視感。高校時代、彼女と相対した時と同じ。

 言え、言うんだ俺。勇気を出せ!

「俺は……百合花さんが好きだ。今までも、これからも」

「……はい」

「だからーー」


 文芸部に入らなかった彼女がジャーナリストになったことは少しも驚くべきことではない。ただ、彼女の「作品」を見て俺は、高校時代に周囲の目など気にせず文芸部に引き込んでおけば良かったと後悔したものだ。事実、彼女は駆け出しにしては充分なほどの知名度を得ていた。ただそれが充分な収入に繋がるかどうかはまた別問題ではある。

 笑顔がないのは売り込みの際の大きなハンデだが、一般に感情が伝わりにくい文章という媒体において、彼女の筆致はとても雄弁だった。読み手を引き込み、喜ばせ、考えさせ、涙させる。それはきっと彼女が、自身の想いの伝え方を、26年間必死で考えてきたからなのだろう。今でも彼女の顔を訝しむ者もいるし、心ない言葉を浴びせる者もいる。彼女の病気を知っているのはごく一部で、それを広めようとは俺も彼女も思っていない。

 以前、病気を公開したらどうかという声もあった。そうすれば誤解を生むことはなくなるし、同じ病気を抱える人達を勇気づけることにもなるからと。だがそれは、言わばレッテルなのだ。それによって許されることもあるだろうが、新しい決めつけが起きる。周囲の目が個人ではなく、病気に向かってしまうことは、彼女が最も避けたいことのはずだった。それもまた、リスクを避けて現状に甘んじたということになるのかもしれない。見る人によっては臆病とまで言われそうな方針を、彼女はとっていた。そしてそれは俺も同じで、彼女とは「恋人」のままでいいとさえ思っていたのだ。

 しかし半年前、思わぬところで変化がもたらされた。

 ストレートで医者になりやがったカズは、持ち前の才能で築いたネットワークからある情報を持ってきた。なんとメビウス症候群を手術で治せる医者がいるという。しかも、希望すれば手術を受けられるよう手筈を整えまでして。もちろん完全に治るわけではないが、笑うことくらいはできるようになるかもしれないとのことだった。だが、朗報に対してカズの顔に笑顔はなかった。

 手術のことは俺にはよく分からない。簡単に言えば、要らない神経を持ってきて、顔の筋肉に移すのだという。それを聞いた俺は、神経とはそんな機械の導線のように切り貼りできるのかと驚いたものだ。だが、実際に行うのは非常に難しいらしい。顔には重要な神経や血管などが張り巡らされている。ほかの神経を傷つけて、もっと重い障害を招いてしまうかもしれない。手術によって死ぬ可能性も……ゼロではないらしい。また、手術自体が成功したとしても、それと顔が動くようになるのとはまた別問題だという。

「私にできることは、準備することだけ。伝えるかどうかはえのっちが決めることだし、手術を受けるかどうかは、百合花ちゃんとご家族が決めることだよ」

 伝えない選択肢もあったのだ。変化を望まず、リスクを避け、現状に満足することもできた。それでも俺は悩んだ末に伝えることを選び、彼女はーー言うまでもなく俺以上に悩んだ挙げ句ーー手術を受けることを選んだ。今日のこの飛行機に乗って。

 その時から、俺は、決めていたのだ。


「――結婚してください」

「……」

「……」

「……」

 返事は、即答ではなかった。

「……どうして、そんなことをここで言うんですか」

 何時間のようにも感じた沈黙の後、彼女は拗ねるような口振りでそう言った。まあ言われるかもなとは思っていた。だから用意していた台詞を口にする。

「ごめんよ。百合花さんに心配してほしくなかったんだ。手術が成功しても失敗しても俺は君と一緒にいたい」

 だったらもっと早く言えという声が聞こえてきそうだが、そこは俺の度胸のなさということで。

「先輩は……意地悪です」

 やっぱり、そうだろうか。

「嬉しいのに、笑えないじゃないですか。笑いたいのに、笑えないじゃないですか。笑えるように、なりたくなっちゃうじゃないですか……」

 彼女の眼から、涙はこぼれない。それでも俺は彼女が泣いているのが分かった。

 申し訳なさと、不甲斐なさとで、涙がこぼれるのをこらえながら、

 俺は、彼女に、キスをしたのだ。


 視界が戻ってきた。温度や騒音も認識の中に入ってくる。

 そして、周囲から注がれる視線に気付き、俺達は慌てて体を離した。取り繕うように咳払いをし、時計を確認する。

「もう時間じゃないか? 早く行ったほうが」

「はい。行ってきます……諒太郎さん」

 俺は思わず笑った。彼女もきっと、笑っていたのだろう。

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