第39話 釣りキチ兄弟
幸盛には六歳離れた弟がいる。オレは一生涯独身貴族を貫く、と豪語していたくせに、現在の奥さんと居酒屋で意気投合するや、電撃結婚して娘を一人もうけている。
その弟が、幸盛など足元にも及ばない釣りキチなのだ。二十代の頃は「釣りなんかまどろっこしい」と素潜りで水中銃を片手にアワビやサザエを獲っていた弟だが(密漁?)、やがて魚釣りに意趣替えし、渓流釣り、鮎の友釣り、堤防からのアジの投げサビキ釣りなどを一通りやってきて、五十歳を超えた現在では毎週のように三重県の筏に通い、チヌ(黒鯛)のダンゴ釣りに没頭している。
幸盛が四十歳の頃、近所に住む江沢さんがとっておきの穴場を教えてくれた。信じられないことに、行けばかなりの確率でクロダイが釣れるという。当時の幸盛は堤防からの投げ釣りでアイナメやカレイやキスやヌメリゴチなどを釣って満足していて、クロダイなど夢のまた夢の魚だった。
その穴場とは、今でこそ菅元首相の英断で停止しているが、静岡県浜岡原発の排水口だった。そこは二十メートル四方ほどのコンクリートでできていて、三メートルほどの高さの鉄製パイプ柵に囲まれていた。当時はまだ、原子炉を冷やした海水がトンネルをくぐり抜けて来てドドドッと滝のように海に流れ出ていた。冬でも温かい排水の中で微生物が発生し、それを食べる小魚が寄ってきて、その小魚を食べる大きな魚も集まってくるという絶好のポイントだ。
その角の部分からよじ登り、先人が鉄製パイプをおっ広げた箇所から柵の中に侵入する。そして海に面した場所に釣り座を構え、パイプとパイプの隙間から短いリールザオを出し、エサのボケ(スナモグリ)の尻尾に針を刺し重めのオモリをつけて激流の中に落とし込む。エサは白く泡立つ海中に落ちながら瞬く間に沖の方に流されて行くのだが、穏やかな海では警戒心が強いクロダイが、ここでは逃がしてなるものかと反射的にエサに食いついてしまうという寸法だ。
その日はあいにく二人とも小さなシマイサキしか釣れなかったが、先に来ていた地元の人たちがクロダイをポツリポツリと釣り上げた。それを目撃した幸盛の釣り魂に火が付いた。柵の中でも場所が重要で、中央部よりも両端の方が脇にテトラポットがあるので釣れる確率が高いのだ。江沢さんの仕事は日曜休みだが、幸盛の当時の職場は日曜出勤があったので平日にその代休がとれた。平日は釣り人が少ない。幸盛単独での浜岡通いが始まった。
当時は妻がまだ健在で小遣いが限られていたため、高速道路料金の片道三千六百円を惜しんで夜中に国道1号線を走った。最初の日だけは車中で仮眠しようとしたが、どうにも興奮して寝付けないので、暗いうちに懐中電灯を照らして監視カメラに手を振りながら柵を乗り越えてみた。
当初は平日の夜は人が来ないので幸盛の独壇場だった。意外にも、魚は夜中でも釣れることが分かった。幸盛もクロダイを一枚、二枚と釣り上げるようになった。のみならず、五メートルほどのサオを使って柵の上からウキを流して沖の方でヒラアジや大きなコトヒキが釣れることも知った。
釣れたクロダイやコトヒキをしばしば実家に持って行き、地元の人は馬鹿にするコトヒキの刺身が割と美味いこともあって、味をしめた父親が連れて行けとせがむので一度だけ案内したことがある。ところが、狭い柵の間から手を出して釣る釣りなので「こんなの釣りじゃない」などと文句を言うから二度と誘ってやらなかった。ちなみにこの時父のサオに超大物がかかって釣り糸が切れてしまったが、あの魚の正体はたぶん巨大なエイだろう。
秋口だったと記憶しているが、たまたまクロダイが十枚以上釣れた日があった。サイズは三十センチ弱ながら、五十匹買ったボケが早々になくなってしまうほどに釣れたのだ。家に帰ってから得意満面で弟に電話すると、興味を抱いた弟がわが家にやってきた。浜岡原発のことを色々教えてやると、一度連れて行けというので一緒に行くことになった。
それまでにも弟と二人で行ったことが二度あった。一度目は知多半島中須漁港での夜のメバル釣りだった。缶ビール片手の弟がもつれる舌で「世の中バカばかり」と愚痴っていたのを覚えている。二度目は師崎港でのアイナメ狙い。仕掛けを換えようとしていたら、近くの神社が放し飼いにしているニワトリが寄ってきて、針に刺したエサの岩虫を飲み込んでしまいズリッ、ズリッと釣りザオを引きずる。二人で「ニワトリが釣れた」と大苦笑したが、ハサミで糸を切った後のニワトリがどうなったかを想像すると今でも胃が痛くなる。
いよいよその日がきた。弟との打ち合わせでは、仕事を終えてそれぞれの自宅で晩飯を食べてから、弟が幸盛の家まで迎えに来て弟の4WD車で気前よく高速道路を使って行くことになっていた。エサに使う一匹二十円の貴重なボケは幸盛の職場の近くに常時切らさない大きなエサ屋があったので、打ち合わせ通りに弟の分まで買ってから帰宅した。
そして晩飯を食べている時だった。当時はまだ携帯電話がない時代で、自宅の電話が鳴った。弟からだった。
「仕事を早めに打ち切って、今、浜岡におるで」
「は?」