三章 innocentな人々
1
「あっっのハゲ!!」
奈美香は猪狩の部屋で怒鳴り散らしている。せっかくの晩餐をワサビ入りモンブランで締めることになったので、たいそう気分を害したようだ。
「禿げてはいない」
そんな奈美香に対しても猪狩は冷静に対応する。もちろん佐加田教授が禿げていないのは奈美香もわかっているはずだ。単純に、あの年代の男性を侮辱するのに一番適した単語というだけであろう。猪狩はむしろ、モンブランにワサビを練りこんだ方法に関心があった。
そして、あえて二年連続で同じ手を使ってきた教授には多少感嘆した。もちろん、褒められたものではないが、完全に無警戒だった奈美香は見事に引っかかってしまったのだ。もし警戒していれば臭いで気がついたかもしれない。
「うるさい!! あーもう、最悪よ! あんなに美味しい料理だったのに台無しだわ!」
「わかったから、静かにしてくれ」
暴れる奈美香も猪狩は他人事のように見ていた。現に他人事である。
「これが静かにしていられる!? 無理よ無理! ああ、ぶん殴ってやりたい!」
奈美香はベッドの枕を思いっきり殴りつけた。バフッという心地よい音をたてたが、もし人間相手ならば、かなりの痛手を負わせられるだろう。
扉をノックする音が聞こえた。
「どうぞ!」
猪狩の部屋にもかかわらず、奈美香が不機嫌な声で応答する。
遠慮がちに扉が開くと、そこには教授の娘の結衣が立っていた。長い黒髪と、薄化粧がおしとやかな雰囲気を出していた。大和撫子とは彼女のよう人を指すのだろう。
奈美香の茶髪と対比するとその黒さがより際立っていた。
「あ、えっと……結衣さんでしたっけ?」
先ほどとはうって変わって奈美香は口調を直し、礼儀正しく応答した。こういった切り替えは(ある程度、常識として誰もが持ちつつも)彼女の得意技だったが、扉がノックされた時点でそうできなかったのは、相当に苛立っていた証拠だろう。
「はい、あの、入っても?」結衣が躊躇いがちに聞いた。
「ええ、どうぞ」
奈美香は結衣を招き入れる。部屋の主である猪狩の意見は全く聞かなかった。とはいえ、もちろん彼も異論はない。
「あの、父が大変失礼な事をしました。すいませんでした!」部屋に入るなり、結衣は深々と頭を下げた。
「あ、いえ、結衣さんが謝ることじゃないですよ」
あまりに唐突に謝られたためか、奈美香はうろたえた様子だった。
「私たちも父に付き合わされて、ちょっと迷惑しているんですけど……」結衣は苦笑した。
「大変ですね」後手に回った彼女はありきたりに言う。
「ええ、それじゃあ、本当にすいませんでした」
結衣はもう一度頭を下げて部屋を出て行った。
「律儀な人ねえ、わざわざ謝りに来るなんて。あれ、でも、謝りに来たのなら私の部屋に来るはずよね?」
奈美香は首を傾げた。猪狩は「あれだけ騒げばわかるだろう」と言いたかった、が顰蹙を買うだけだったのでその言葉を飲み込んだ。少なからず、悪戯の影響で彼女の思考は鈍っているようだ。
「この家はみんなイノセントだ」猪狩は思いつきを言った。
「は?」
「結衣さんと静江さんと柏田さんは無実、教授は無邪気。どちらもイノセントだ」
「あっそ。別にうまくもなんともないわよ」
突如廊下から悲鳴が聞こえた。この声は結衣である。
「何!?」
二人は部屋を飛び出した。
廊下で結衣がうずくまっている。木村、阿久津、瀬戸も飛び出して出てきた。
「一体どうしたの!?」瀬戸が困惑した表情で聞いてきた。
結衣は何も言わず、廊下の奥を震える手で指差した。
皆がそちらを向く。
窓の向こうに別館の窓が見える。ここで初めて別館の窓というものを見た。
明かりが点いている。三階に上がってきたときは点いていなかったはずだ。その窓から椅子に座っている教授が見えた。
しかし、普通の状態ではなかった。
窓から見えるそれは日常を切り取った絵画のようだった。教授は椅子に深く腰掛け、右手は肘掛に、左手はすぐ横のテーブルの上に置かれている。
いかにも、テレビを見ていて眠ってしまった、というような姿。
ただ、そこにある唯一の非日常の部分。
教授の左胸は赤く染まり、ナイフのようなものの柄があった。
「そんな……」阿久津は絶句している。
奈美香の反応は早かった。
彼女は窓に映る教授の姿を見て、走り出した。
階段を駆け下りる彼女に猪狩もついていく。後ろから、阿久津、瀬戸が続いた。
「っと、どうしたんですか!?」彼女は二階で柏田とぶつかりそうになった。
二階にも悲鳴が聞こえていたのか、単に彼女とぶつかりそうになったからか、彼からは困惑の表情が見て取れる。
「教授が別館で刺されたんです!」奈美香は足を止めずに説明した。
「な!? そんな!!」柏田も驚きに目を見開き、奈美香と猪狩に続いた。
彼女は玄関の扉を乱暴に開ける。ゆるい傾斜を駆け上がり、階段は二段飛ばしで駆け上がる。飛ぶように、三度で上りきった。
「くそっ、速い……」
猪狩は奈美香についていくのが精いっぱいだった。
別館は狭く、部屋が一つと階段しかなかった。階段を駆け上がり、三階へと向かう。猪狩にはそれがやたらと長く感じられた。目的地というのは、急げば急ぐほど道のりが長く感じられる。それはどんな状況でも同じようだ。
やっとの事で猪狩が部屋にたどり着いたとき、奈美香はドアノブに手をかけ、ガチャガチャと回そうとしていた。
遅れて阿久津、瀬戸、柏田が到着した。歳のせいだろう皆息を切らしている。
「鍵がかかっています」奈美香は柏田に向かって言った。
「え? ここは普段鍵をかけないのですが……。取ってまいります」そういうと柏田は階段を駆けていった。
「壊そうか?」阿久津が肩で息をしながら言った。
「ドラマみたいには上手くいきませんよ」猪狩は言う。
しばらくして木村が上ってきた。
2
木村は本館の三階に残った。皆と一緒に行こうとしたときに、誰かに服の裾を引っ張られたのだ。振り返ると結衣が地面にうずくまったまま、裾をつかんでいた。ここに一人残していくのも悪いと思い、その場にとどまった。
こういったとき、何と声をかければいいのだろうか。大丈夫? 落ち着いて? 適当な言葉が見つからなかった。仕方なく黙っていた。居心地が悪くなって、視線をあちこちに動かす。廊下の窓にも目をやった。
「あれ?」
別館の窓のカーテンが閉まっていく。奈美香たちが閉めたのだろうか。だが、そうする理由はない。
もしかすると、犯人がまだ中にいるのではないか。そんな考えがよぎった。
「大丈夫かな?」
もし犯人が中にいるのであれば奈美香たちが危ない。もう部屋に着いたころだろうか。向こうは大人数だから、大丈夫かもしれないが、それでも知らせた方が良いかもしれない。
「あの、結衣さん。僕、行きますけど大丈夫ですか?」
結衣は頷いた。「私は部屋で休んでいます……」
「気を付けて下さい。部屋の鍵をかけた方がいいかもしれませんよ」
木村は走り出した。たかだかすぐ隣にある別館だ。三階から降りて別館に移り三階から上がっても二分ほどしかかからなかった。別館の二階と三階の間の階段で柏田とすれ違った。
「鍵を取ってまいります」彼は走りながら説明し、階段を駆け降りていった。
何の事だかすぐには状況を理解できなかったが、考える間もなく奈美香たちと合流した。
3
「あれ、良兄?」
奈美香たちが柏田が来るのを待っていると、彼とすれ違うようにして木村がやってきた。「ここ、鍵がかかってるの」
「そうなのか? 君たちが走っていってから、部屋のカーテンが閉められたんだ」
「え!? それって……」瀬戸が恐怖からか目を見開いた。
「たぶん、犯人は中にいる」
張りつめた空気がさらにピンと張られたように感じられた。
「おい、どうする?」阿久津が聞いた。
「武器を持っているかもしれませんね。人を刺しているくらいですから」
「警察に連絡した方がいいんじゃない?」今度は瀬戸が不安そうな顔で聞いてきた。
「ええ、もちろん。でもどれくらいかかると思います?」
奈美香も彼の意見に同意した。ここは山の中の別荘だ。車でも一時間はかかるだろう。現に、ここに来るまでにそれくらいはかかったはずだ。
「それまでここで見張っているわけにもいきませんし、相手も篭城する気なんてないでしょう。けどナイフで刺しているから、拳銃は持ってないでしょうし、頑張れば何とかなるんじゃないでしょうか」木村は冷静に説明しているが、冷や汗をかいている。
もし、犯人と取っ組み合いになって、まともにやりあうことのできる人間が、この中にいるだろうか。おそらく、若い木村と猪狩だけであろうが、彼らの運動神経がたかが知れているのは奈美香も良くわかっていた。
「柏田さん、遅い……」
思わず彼女はつぶやいた。だが、柏田はおそらく六十歳前後だ。この短い距離とはいえ、体力的に辛いのは理解できる。それでも、早くしてくれと思っている自分がいた。
ようやく、柏田が上がってきた。息を切らして額には汗が浮かんでいる。
「柏田さん、鍵!」奈美香は催促した。
「奈美香は下がってなさい。猪狩君も」奈美香は木村に引き止められる。
もどかしかったが、ここはおとなしく木村に従うことにした。さすがにこの状況の危険さは理解できる。
「私が行きます。こう見えても武術をやっていたので」柏田がそのまま前へ出る。
「いえ、僕が。ご老体にはきついでしょう」
木村の言う通り、鍵を取りに行ったことで柏田は息が切れている。少し迷ったようだが、柏田は面目ないと言って木村に鍵を渡した。
木村は鍵を鍵穴に通した。心なしか、震えているように見える。
鍵を回す。カチッという音がした。
そっとドアノブを回し、少しだけ開けた。ドアがかすかに軋んだ。
「……え!?」
木村は驚いたような声を上げ、ドアを全開に開いた。
そこには、誰もいなかった。
真ん中にはテーブルと一人がけのソファー、テーブルの上にはリモコンが置かれている。壁際には本棚、テレビなど少し家具があるだけ、本棚にはあまり本は入っていない。
あまりにも殺風景で、あまりにも有り得なかった。
「なんで!? ここ、三階よ?」奈美香は驚きのあまり口を塞ぐことができなかった。
他の面々も同じようなものだ。その中で、柏田が何か思い出したかのように口を開いた。
「奥様とお嬢様……」
ここには、木村、奈美香、猪狩、柏田、阿久津、瀬戸の六人。つまり、本館には静江と結衣、か弱い女性が二人だけである。
「急ぎましょう」
木村が言い出し、六人は急いで本館へ戻ることにした。
連なって階段を下りる。そして外に出て本館に戻るところで瀬戸がつぶやいた。
「一体どうなってるの?」
誰も答えない。答えられないのだ。誰もがそれを知りたいだろう。
玄関に入るが異常はない。
ところが、段々と何かの匂いが漂ってきた。二階からのようである。
「血の匂いだ……」猪狩がつぶやいた。
急いで階段を駆け上がる。談話スペース、そこには、
心臓を一突きに刺され、椅子に腰掛けた、窓から見たままの佐加田教授の姿があった。