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一章 gloomyな招待

     1


 矢式奈美香はO大の一号館の一室にいた。

 一号館は教員達の研究棟になっており、そのため学生は滅多に行く事はない。講義棟である三号館から直接行くことができるが、学生間では交通の需要はほとんどない。ゼミですら講義棟にゼミ室というものが設けられているので、四年間で一度も訪れない学生もいるのではないだろうか。そんな施設である。

 そのような一号館になぜ彼女がいるのかというと、もちろん教員に呼ばれたからである。

 彼女が今いるのは三六〇号室、木村良知准教授の研究室である。

「ねえ、ちょっと汚すぎるんじゃない?」奈美香は眉間にしわを寄せ言った。

 部屋の中は、カップ麺や弁当の容器、コーヒーの空き缶などが散乱しており、本棚があるにも関わらず、本は床に山積みにされていた。まさに人工物のジャングルである。

 椅子の上にも物が置いてあるので、木村は即席で奈美香の居場所を確保する。

「いやあ、なかなか片付ける暇がなくてさ」

 木村は寝癖がひどい頭を掻きながら言う。まさかこの頭で講義に行くつもりだろうかと考えると、奈美香は気が重くなった。

「片付ける以前に、普通はここまで散らからないわよ」奈美香は呆れて乱暴に言い返す。

 彼女の言葉は明らかに教員に対するものではない。というのも彼らは従兄妹同士だからである。歳は十ほど木村の方が上だが、彼が面倒見の良い従兄だったかというと、現状を見てわかるとおりである。

「でもさあ……まあいいや。今度、片付けアルゴリズムでも作ろうかな」

「ええと、何だっけ、それ?」

 O大は商学系の単科大学であり、商学部しかないのだが、その中で唯一「経営情報学科」という、学生内で「半理系」と揶揄される学科がある。木村もこの学科の教員である。

 木村自身はガチガチの理系大学の出身なので、彼に言わせるとこの学科は理系の足元にも及ばないらしいが、曲がりなりにもそういった学科があるために、彼のような理系の人間がO大には数える程度だが存在する。

 彼女は商学科なので、理系じみた木村の言葉は理解できないことが多い。

「アルゴリズム? 要するに、物事の手順をコンピュータで割り出そうってこと」

「そんなもの作ったって結局片付けるのは自分でしょ? ロボットがやってくれるなら別だけど」

「ロボットの定義にもよるけど、きっと奈美香が想像しているようなのは専門外だなあ」

「効率的な手順がわかったって、絶対片付けないわよ」彼女は吐き捨てた。

「う……」木村は言葉に詰まる。「てかさあ、奈美香。君、何しに来たの?」

 奈美香はため息をつく。そして、出来る限りで彼を睨んだ。

「何って、良兄よしにいが呼んだんでしょ!」

「え?」木村は目を丸くする。「そうだっけ?……ああ! 思い出した」

「忘れるようなことなら帰るわよ」

 奈美香はすぐさま踵を返した。

「ちょっと待った! 部屋の話になって忘れただけでかなり重要なことだ!」木村は右腕を前に突き出してストップのポーズをとった。

「何?」奈美香は嫌味ったらしい表情で言った。

 そもそも、あの程度の会話で忘れることが本当に重要なのだろうか。

「そんな嫌そうな顔するなよ。今週の土日、暇?」

「土日?」記憶の手帳をめくる。「まあ、暇だけど」

「佐加田教授のパーティーがあるんだけど、来ない? ちなみに泊まり」

「佐加田教授? 誰それ?」奈美香は首を傾げた。

「ああ、知らないか。奈美香にとっては他学科の先生だからな。ただの大学教授のくせに、いや、くせにって言ったら立場悪くなるな……。まあ、とりあえず、やたら金持ちなんだ。なんか、すごい家系らしくてね。で、毎年パーティーを開いているわけ。今年なんて、新しく別荘建てたりしてさ。で、それに呼ばれたってこと」

「なるほど」奈美香は頷く。

「来てくれる?」

「嫌よ」奈美香はきっぱりと言う。

「えー」木村は小学生のような声を出した。

 わざとなのだろうが、あまりにも幼稚な十歳年上の従兄に、彼女は頭を抱えたくなった。この部屋に来てから気分がジェットコースター並に急降下している。

「だって、誰かを連れて行きたいってことは一人じゃ行きたくないってことでしょ? で、私に頼るって事はどうせ、ゼミ生には断られたんでしょ? ってことはその佐加田って教授はろくな人じゃない」

「う……鋭い三段論法だね。けど、ろくな人じゃないってのは言いすぎだよ。ちょっと変わってるっていうか、まあ、去年は今の四年生、つまりその時の三年生だけど、彼らを連れて行って……評判は良くなかったね」木村は苦笑いする。「それが今の三年生にも伝わって、全滅って訳。けど、面白い人だよ、教授は。たしかに一人で行くのはちょっと……。ああ、駄目だ。弁護できない。とにかく来てくれよ。一人じゃ、きついんだって」すがるような目で奈美香を見つめる。

「去年はどんなだったの?」

「デザートがロシアンルーレットになってたんだよ。無警戒で食べたうちのゼミ生が……。いや、ほんとに凄い量だったみたいで。お笑い芸人がやるくらいの量が入ってたみたいだ」

 語る木村の表情が痛々しい。いわゆる苦虫を噛み潰したような顔である。

 ところで、苦虫とは何だろうか。食べたら苦い虫のことだろうか。だが、普通虫など食べない。誰か食べた事があるのだろうか。想像すると気持ちが悪くなった。

「断ればいいじゃない。何で行かなきゃいけないのよ?」思考を元に戻して彼女は言った。「他の人は断ったりしているんだけど、俺は学生のときから佐加田ゼミで、大学に残ってからもいろいろとお世話になっているから……」

「義理深いのね。いってらっしゃい」奈美香はなんとなく微笑んで、ついでに手も振ってみた。

「そんなあ、頼むよ。一人で来いとは言わないからさあ。今度、飯おごってやるよ」

 奈美香は呆れてため息をついた。それほど行きたくないのならば行かなければいいのに、と思う。

「その辺のファミレスじゃ嫌よ」

「……わかった。それなりのとこに連れてくよ」

「そう、じゃあそういうことで。誰を誘おうかしら」

「頼むよ。あ、俺はこれから講義だから」彼は時計を見て言う。

 彼は散らかった机からノートパソコンを取り出した。いや、掘り出すという表現の方が正しい。むしろ、発掘でも良いかもしれない。

「じゃあ」

 木村は出て行った。そして奈美香は呟いた。

「結局、寝癖のまま行ったわね」


     2


 O大の正門から講義棟までの通路の脇には桜が数本咲いている。緑色の木々の中で、鮮やか過ぎるピンクがその存在を主張していた。桜とは不思議なもので、隣のS市は一週間前に満開を迎えたが、O市では今が見ごろである。「桜前線北上」なんて言葉があるが、S市とO市は緯度的には変わらないはずだ。この一週間の時差は何なのだろうかと彼女は少しだけ考えた。

 木村の研究室を出た奈美香は、その桜の下を通りながら誰を誘おうか考えていた。

 すぐに思い浮かんだのはいつもの三人だ。

 猪狩康平、新川怜奈、藤井基樹。彼らは大学で最も親しく接している友人で、何度も四人で行動している。もう三年目になる。

 だが、四人で行くことは単なる痛み分けのようで嫌だった。なぜ引き受けてしまったのだろうかと考えるが、しかし、後悔先に立たず、である。

 怜奈は、可哀想かもしれない。前評判が良くないのに、連れて行くのは気が引ける。

 そういう意味で藤井は適任かもしれない、と言ったら人権侵害だろうか。彼ならば社交的だし、いじられキャラとまではいかないが、悪戯に対する耐性もある。

 だが、むしろ彼と二人でいる方が辛い。これも人権侵害だろうか。別に二人じゃなくても良いが、三人ならば四人でも変わりはない。

 やはり、猪狩が無難だろうか。と考えてどのあたりが「やはり」なのだろうという疑問。そして、どうして「無難」なのかという疑問。

 しかし、どうでもよいので特に考えはしなかった。おそらく、三人の中で最も付き合いが古いからだろう。それ以外に他意はない。

 とにかく、誘う事さえできれば、あとは文句を言わないだろう。問題はどうやって誘うかだった。

 とりあえず、猪狩に電話をかけてみることにした。結局、直球勝負である。

『何?』

 数回の呼び出し音の後、猪狩が電話に出た。不機嫌そうに聞こえるが、これが電話での彼の平常である。ただし、面と向かって話しても微々たる差しか感じられない。

 何でも相手の顔が見えない状態での会話が嫌いらしい。だが、彼が面と向かっての会話を好んでいるようには彼女には見えなかった。

「あんた、今週の土曜って暇?」思考を中止して本題を切り出す。

『いや』

「何かあるの?」

『いや』

 彼の返答に、無性に電話を切りたい衝動に駆られた。しかし頼み事をしているのはこちらなので我慢するしかない。

『嘘だよ。けど面倒事はご免だ』まともな返答が来たは良いが、見事に見抜かれている。

「そんなことないわよ! 良兄に佐加田教授のパーティーに誘われたから一緒に行かない?」

『ああ、佐加田教授ね……誰?』

「説明は面倒だから。パーティーよ、パーティー。で、来るの? 来ないの? てか来なさい!」

 自分で言っておいて何だが、人に物を頼む態度ではないと思う。これでは断られても無理もないかもしれない。

『いいよ』

「え?」予想外にあっさりした返事に思わず聞き返してしまう。

『あ、行かない方がいい?』

「いや、そんなことない! オッケーオッケー」

『ところでさ。『よしにい』って誰?』

「あれ? 知らなかったっけ? 私の従兄。ほら、あんたの学科にいるでしょ。寝癖ぼうぼうの」

『ああ、木村先生ね。従兄か。そういや、そんなこと言ってたな』

「とにかく、詳しい事はまた教えるから。じゃ」そう言って電話を切る。

 予想外に簡単に事が進んだことに奈美香は安堵した。残る問題は、どうやって当日を乗り切るかだった。

 デザートは猪狩に食べさせようか。


     3


「ねえ」しばらく黙っていた奈美香が口を開く。「本当にあってるの?」

 パーティー当日になった。

 木村、猪狩、奈美香の三人は車で山道を走っていた。車は木村が運転している。中古で買った日産のブルーバードだ。かなり古い型で、今時オーディオがカセットテープという骨董品である。昔から運転しているのなら、そういったことも普通なのだろうが、この車を買ったのはつい数年前なので、もっと良い車を買えば良かったのに、と奈美香は思っている。社会人が車を買うというのは、学生が在学中を凌ぐのに買うオンボロとはわけが違うはずなのだ。

「あってるよ。もうすぐだから」

 木村は今日はさすがに正装で、髪もしっかり整えている。こうして見ると意外と男前だと思うが、普段の寝癖頭と散らかりっぱなしの部屋を見れば、三十にもなって恋人がいないのも(もちろん過去にはいたのだろうが)頷ける。

「もう、何回も聞いたんだけど。ああ、暇だわ」助手席に座る奈美香は、狭い車内で精一杯の伸びをした。

 もう、随分と山道を走っていた。市外に出て、さらに山道に入りどのくらいが経っただろうか。幸い、道はアスファルトで舗装されているので、少なくとも人が寄り付かない場所ではないようだ。

「じゃあ、暇つぶしにクイズでもやろうか」

 木村が言い出したので奈美香はそれに乗っかることにした。

「いいわよ。なんでもかかって来なさい!」

「じゃあ、行くよ。

  ある小学校で、調査をしたところ生徒達にある共通点が見つかったんだ。

  算数が好きな子どもは国語が嫌い。

  理科が嫌いな子どもは国語が好き。

  理科が好きな子どもは社会が嫌い。

  

  じゃあ、正しいのは次のうちどれ?

  1、理科が好きな子どもは国語が好き。

  2、社会が嫌いな子どもは算数が好き。

  3、国語が好きな子どもは理科が嫌い。

  4、算数が好きな子どもは社会が嫌い。

 さて、どれだ?」

「いっぺんに言われてもわからないわよ。えっと、算数が…………」奈美香は携帯電話を取り出して、メモ帳機能で「算○→国×」と簡略化して記入していく。

 記入が終わってそれを眺めてみるが、特別何かを感じることはなかった。

「3じゃないの?」奈美香は首を傾げながら言った。

「はずれ」

 木村は意地悪く微笑んだ。なんだかその表情が憎たらしい。

「えー? なんで? まさか、共通点は統計学的に見て間違ってるから答えはないとか言わないでしょうね」

「君のその言い方が統計学的に見て間違ってると思うよ」

「じゃあ、何なのよ!」

「高校で数学やった?」

「それ、馬鹿にしてる?」

 奈美香は頬を膨らませる。いちいち遠回しな言い方に少し苛々してきた。

「あんた、わかる?」奈美香は後ろに振り向き、猪狩に聞いた。

「……4」猪狩はそれだけ答えた。

 いつもに増して不機嫌な様子である。いつもならば彼もいちいち遠回しな言い方をする人間である。このパーティーに誘ったのを根に持っているのだろうか。

「お、正解。さすがだね」

「なんで?」

 奈美香は猪狩に尋ねるが猪狩は何も答えない。奈美香は舌打ちして、運転している木村の方を向く。

「えっとね、高校で命題ってやったろ? で、もとの命題と対偶をたどっていけばいいのさ。命題が真でも逆と裏は真とは限らない。けど対偶は必ず真だからね」

「あ、そうか」

 算数が好きな子どもは国語が嫌い、の対偶は、国語が好きな子どもは算数が嫌い。

 理科が嫌いな子どもは国語が好き、の対偶は、国語が嫌いな子どもは理科が好き。

 理科が好きな子どもは社会が嫌い、の対偶は、社会が好きな子どもは理科が嫌い。

 そこから、算数が好きな子どもは国語が嫌い、国語が嫌いな子どもは理科が好き、理科が好きな子どもは社会が嫌い、となり、算数が好きな子どもは社会が嫌いが答えになる。

「そんなに難しくない……」猪狩がつぶやいた。

 奈美香は少しムッとなった。問題を空で言うことができた木村と、メモもせずに答えた猪狩の方がおかしいのだ。

 奈美香は思いっきり猪狩を睨みつける。猪狩は奈美香を無視して依然不機嫌な表情である。

「着いたよ」

 奈美香が前を向きなおす。今まで車の両側は森だったが、視界が開けてきた。立派な洋館が見えてくる。

 木村が車を館の前の駐車場に停める。車から降りると同時に、猪狩がまっすぐ森の方へと向かう。

「あれ、どこ行くの?」木村が訝しげに聞いた。

 奈美香はすぐにわかった。なるほど、不機嫌そうに見えたのはこのためか。そして、できる限り呻き声を聞かないように努めた。

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