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その一

安政五年も残りを半月ほど残し、通り行く人は心なしか忙しなく足を運んでいた。

神田は亀井町にある将棋長屋に住む振り売りの喜市と浪人の清次郎、そして化け狸の侘助もその雰囲気に追い立てられるかのようにして過ごしていた。


「吉婆め、畳をはがすまで何度でも来るつもりだな」

忌々しそうに眉をひそめながら、大儀そうに屏風や行李を通りへと出す。

脇では侘助がその胴回りよりも太そうな火鉢を持ち上げ、よろめきながら上がり框を降りて運ぶ。すると、向かいの長屋ではたきをかけていた清次郎が慌ててその火鉢を取り上げた。

「重かったろうに。偉いなあ。それで侘助が文句一つなく働くのに、喜市はまだ口が減らないか。そりゃあお吉さんも追い立てに来たくなるだろう」

笑いながら清次郎は、立てかけてある畳の横に火鉢を置き、首にかけていた手ぬぐいで額の汗をぬぐった。

長屋を抜けた大通りからは、この時期になると来る「節季候せきぞろ」と呼ばれる芸人が鳴らす太鼓と笛の三味線の音が乾いた音をさせながら響いていた。長屋の子供たちが音に釣られて通りへ駆け出すのを、侘助が目の端で追う。

「いってきな侘助。うちの大家はけちんぼだから暫くああやって鳴らしてるはずだぜ」

残りの畳を担ぎ出しながら喜市は通りのほうへと顎をしゃくる。侘助は小さく二度首を縦に振ると、はじかれるように掛けていった。

「けちだと、鳴らしてくれるのか」

水がめから柄杓で水をすくうと、畳を下ろして袖で汗をぬぐう喜市にそれを差し出しながら、清次郎は首を傾げる。喜市はそれを一口飲むと大きく息を吐いた。

「あいつらは物乞いさ。銭をやればさわがねえでいてやるよということだよ」

感心して頷く清次郎を余所に、口の脇に残る水滴を舌で拾うと喜市は再び残りの畳を取りに部屋へと入る。

ほこりの立った部屋にはまだまだ畳も行李も掻い巻きも残っていたが、去年よりも目に見えて増えているその荷物たちに、思わず口許がほころんだ。

「いつぶりだろうなあ」

ふと呟いて、腰に差していた煙管に手をやった。雁首も吸い口も鈍く光るその煙管は随分と使い込まれた物だと言うことが一目でわかるが、銀で出来た振り売りには似合わぬ上等なものだった。


「喜市」

呼ばれてはっと気を戻し振り返ると、空豆のような顔を真っ赤にした大家が手ぬぐいで頬をぬぐいながらたっていた。案の定、まだ節季候は表で騒がしく歌っている。

「大丈夫だよ、言われなくてもちゃあんと掃除くらいすらあ」

喜市は放ってあったはたきを拾い上げると、乱暴に振り回し始めた。舞い上がった埃が空豆頭にも降りかかり、大家は慌てて手ぬぐいをぶん回す。

「そうじゃねえよ喜市。お前さんに使いを頼みたいんだよ。」

咳払いをしながら大家は眉をひそめる。見れば手には小さな麻袋を持ち、それを喜市に差し出していた。

「なんだよ、そのくらい自分で持っていきゃあいいじゃねえかよ。こちとら煤払いに忙しいんだ。吉婆だって俺がちゃあんとやってるか見張ってるんだよ」

口を尖らせながら言えば、負けじと大家も口を尖らす。清次郎はというと、舞っている埃を吸わぬように手ぬぐいを口の周りに巻きつけ、二人を交互に眺めていた。

「頼むよ」

「やだね」

喜市は振り向きもしないので、大家は益々口を尖らせる。

「ならば、俺がいこうか」

たまらなくなったのか手ぬぐいのせいでくぐもった声になりながら、清次郎が口を挟むので、喜市は思わず振り返り眉をひそめ、その野党のように隠された顔に向かって首を横に振った。


「そうだそうだ、清次郎殿。お侍に行かせるわけにはいかねえよ。何より見た目が悪いや。」

大家も、とんでもないとばかりに手を横に振り、益々喜市のほうへとその麻袋を突きつける。

「だから何で俺なんでい」

とっさに大家に向き直って文句が口を突く。

「留吉は屋根直してるし、源さんは臼借りに行ってくれてるしよ。お前くらいしかいないんだよ、力が余ってそうなのはよ」

元々八の字の眉毛をますます下げて、大家は麻袋を振ってせっつく様にちゃりちゃりと鳴らすが、その言葉の意味がわからずに、喜市と清次郎は揃って首を傾げる。

話の通じない二人にもどかしげに、空いた手を上下させて何か説明をしようとしたが、上手く言葉が出てこないのか「ほら、ほら」と言うばかりで一向に二人の首の傾きは直らなかった。


「もう、あれだよ。門松買って岸本の先生の所に届けて欲しいんだよ」

忌々しそうに足をどん、と一度音を立てて地面に下ろすと、清次郎は曇った顔を晴らして頷いた。

「もう年の市が始まってるだろう、そこで買って届けとくんなよ。な。」

開いた片手で拝まれたが、この寒い中この亀井町から本所まで行くのは随分とくたびれることなものだから、喜市はばつが悪い顔をしながらも返事を渋っていた。

見かねて清次郎が「行ってやれ」と言おうとした時だった。

「俺も行きたい」

いきなり喜市の着物の裾を引っ張った主は、侘助だった。その言葉に大家もつぶっていた目を見開き、とたんににこにことさせる。節季候はいつのまにかどこかへ行ってしまったようだった。

「そうだろう、ぼんも行きたいだろう。いいぞう、市は賑やかでな。そうだ、そうれ、これで何ぞ菓子でも買ってもらうといい」

ここぞとばかりに大家はまくし立て、懐から出した銭を侘助の小さな手にねじ込むと、ついでに麻袋も預けてしまった。文句を言おうと口を開きかけた喜市の視界に、銭を握り締めながら珍しく目を輝かせる侘助が入り、大家はついに満面の笑みのまま「頼むぞ」と言葉を残して去ってしまった。


「後は俺が片付けておくよ。のんびり行ってくるといいさ」

哀れに思ったのか、清次郎は喜市のはたきを取り上げると、いそいそと掃除を再会した

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