振り返る想い〜記憶の中のあなたを〜
九月も半ばを過ぎたというのに、午後の街にはまだ夏の名残が濃く残っていた。
ビルの谷間へ斜めに差し込む陽射しは白く、舗道からは昼の熱がゆらゆらと立ち上っている。大通りを行き交う車が生ぬるい風を押し出すたび、排気ガスと焼けたアスファルトに、どこかの店から流れてくる甘い焼き菓子の香りが混じった。
柊要は、駅から続く人の流れに紛れて歩いていた。
墨を流したような黒髪はボブに整えられ、歩くたび毛先が頬へ触れる。白いブラウスに黒い細身のパンツという飾り気のない服装は、細い身体と端正な顔立ちによく似合っていたが、行き交う人々の表情が目まぐるしく変わる中で、彼女の顔だけは時間から切り離されたように静かだった。
不機嫌でも楽しくないわけでもない。要は幼い頃から、内側に生まれた感情を顔へ出すことが得意ではなかった。そのせいか、整った顔立ちも相まって、何度か人形のようだと言われたことがある。
褒め言葉も含まれていたのだろうが、要は気に留めず、鏡に映る自分を見て、確かにそう見えることもあるだろうと思う程度だった。
そんな要の視線が、通りの向こうで止まった。
雑貨店の軒先で、二人の若い女性が買ったばかりらしい紙袋を覗き込んでいる。淡い黄色のワンピースを着た女性が小さな箱を取り出すと、隣の長い髪の女性は驚いたように眉を上げ、すぐに口元を崩した。
車の音に遮られて声は聞こえなかったが、長い髪の女性は身体を折るように笑いながら相手の肩を叩いた。叩かれた女性は一度むっと唇を尖らせたものの、すぐに耐えきれなくなったように笑い出す。二人は髪を揺らし、目尻を細め、口元を隠そうとした指の隙間から白い歯を覗かせた。最後には目元の涙を拭いながら、それでもまだ肩を震わせていた。
要の歩調が緩んだところで信号が変わり、人の流れが動き始めた。彼女たちが雑貨店の中へ消えるまで視線を追い、見えなくなってからようやく前を向く。
スマートフォンもスケッチ帳も取り出さず、要は先ほどの光景を記憶へ残した。
顔立ちや髪の長さ、服の細部はいずれ曖昧になるだろう。それでよかった。覚えておきたいのは顔そのものではなく、驚きが笑いへ変わった一瞬や、怒ったふりをしていた口元が緩んだ瞬間――人の内側にあるものが、ほんの一瞬だけ表へ零れ落ちる、そのときだった。
*
要のアトリエは、住宅街に建つ古いマンションの一室にあった。
外壁には雨の跡が残り、三階へ続く階段の手すりはところどころ塗装が剥げている。外の熱気を背負ったまま扉を開けると、乾性油や絵具、木製のキャンバス枠と古い紙の匂いが混じった空気に包まれた。
北向きの窓から入る光は柔らかく、壁際には女性を描いたキャンバスが大小さまざまに立てかけられている。本を読む者、風の中で髪を押さえる者、遠くを見つめる者、誰かと楽しそうに笑う者。どの人物も、それぞれの時間を過ごしているようだった。
要が窓を少し開けると、風が汗を冷まし、遠くから子供たちの声と夕食の支度らしい炒め玉ねぎの匂いが流れてきた。
棚から小さなキャンバスを取り出してイーゼルへ載せ、要は先ほど街で見た女性を思い浮かべた。顔はすでに曖昧になり始めていたが、驚きから笑いへ変わった瞬間だけは鮮明に残っている。
絵具を薄く溶き、使い込んだ筆を握って白い面へ色を置く。輪郭を作り、頬や目元を整えていくうち、午後の光は夕方の色へ変わり、窓の外は群青色に沈んだ。
要は笑ったときの皺まで描き込んだところで手を止め、細部を足しすぎた部分を布で拭った。
顔を写したいわけではなかった。
残したいのは、あの瞬間だった。
キャンバスには、今日見た女性とは少し違う顔の女がいた。それでも目元には驚きの名残があり、口元には無防備な笑いが広がっている。
夜の窓に映った要の顔は、昼間からほとんど変わらず静かだった。
キャンバスの中の女とは、まるで正反対だった。
*
太田進也の画廊は、大通りから一本外れた古い商店街の一角にあった。
古びたシャッターの並ぶ通りに、改装された喫茶店や雑貨店が点在している。画廊もその一角にあり、白い外壁には細かなひびが走り、入口脇には店名を刻んだ真鍮のプレートが掲げられていた。
要が扉を押すと、頭上のベルが鳴り、奥の机で書類を読んでいた太田進也が顔を上げた。
「いらっしゃい。……って、要ちゃんか」
四十五歳の進也は、薄い灰色のジャケットを羽織っているもののネクタイはなく、シャツのボタンも開いていた。要の抱えた包みに気づくと、眠そうだった目に光が戻る。
「新しいの?」
「はい」
「また女の人?」
「はい」
進也は笑いながら立ち上がった。
「相変わらずだねえ」
要が包みを台へ置いて布を外すと、昼間に見た女性たちの笑いから生まれた絵が現れた。進也は少し離れて全体を眺め、近づいて絵具の重なりを確かめる。
「いいね。楽しそうだ」
「そうですか」
「うん。要ちゃん本人より、よっぽど表情豊かだね」
「そうですね」
「そこは否定しないんだ」
進也が笑いながら絵を壁へ掛けると、画廊の白い壁に午後の光が細長く伸びた。
「ああ、そうだ。要ちゃんに一件、仕事があるんだけど」
「肖像画ですか」
「まあ、そうとも言えるし、少し違うかな。奥さんを描いてほしいって人がいるんだよ」
「写真からなら、ほかの人の方が上手です」
進也は絵の傾きを直しながら続けた。
「描いて欲しいのは、亡くなった奥さんなんだけどね。本人が覚えている奥さんを描いてほしいんだって。話、聞いてみる?」
「聞くだけなら」
「うん。それでいいよ」
*
依頼人が画廊を訪れたのは、その三日後の午後だった。
五十代半ばほどの男で、濃紺のジャケットに灰色のスラックス、磨かれた革靴という落ち着いた身なりをしていた。だが、椅子へ腰を下ろした両手は、何かを押さえ込むように固く組まれている。
男は使い込まれた革鞄から、厚手の封筒と紺色の古いアルバムを取り出した。
「妻の写真です。若い頃のものも何枚か持ってきました」
要がすぐに手を伸ばさないでいると、男の指が封筒の上で止まった。
「写真は、あとで見せてください」
「あとで、ですか?」
「はい。先に奥様のことを聞きたいです」
男が進也を見ると、進也はいつもの気の抜けた調子で笑った。
「この人、こういう描き方をするんですよ。まあ、付き合ってやってください」
男は少し指の力を緩めた。
「何を話せばいいんでしょう」
「どんな人でしたか」
男は午後の光が差すテーブルへ視線を落とした。
「どんな人……ですか。二十八年も一緒にいましたが、いざ聞かれると…….」
口元には微かな笑みが浮かんだが、目の奥には寂しさが残っていた。
「よく怒る人でしたか」
「怒りましたよ。特に私には。脱いだ服はその辺に置くし、食べたものも放っておく。何度言われても直らなくて、そのたびに怒られてました」
「本気で?」
「本気のときもあったでしょうね。でも、私が慌てて片付け始めると、途中から呆れて、結局あいつがやってしまうんです」
話すうちに男の声は柔らかくなり、要が尋ねるたび、妻の記憶が次々に引き出されていった。
妻は甘いものが好きで、近所の洋菓子店のシュークリームを気に入っていた。夫が仕事帰りに買って帰ると、どれほど腹を立てていても少し機嫌が直ったという。
暑さが苦手で、夏は髪をまとめて首にタオルを掛け、料理は上手なのに、いくつものことを同時にしようとして魚を焦がすことがあった。
旅行では予定を詰め込みたがる夫に文句を言いながら、翌朝は誰より早く起き、映画を見ればすぐ泣くのに、人前で泣いたことを指摘されると怒った。
いつしか男は、要の問いを待たずに話すようになっていた。妻が亡くなったことを忘れたわけではない。それでもその時間だけは、家へ帰れば今もそこにいる人のことを話しているようだった。
要はその変化を見ながら、まだ見ていない写真の向こうに、一人の女性の姿を作っていった。
やがて話が途切れ、男がアルバムへ目を落としたところで、要は尋ねた。
「奥様を思い出したとき、一番最初に浮かぶのは何ですか」
男の笑みが消え、組んでいた指がほどけた。
「……台所です。二十年くらい前だったと思います。夏でした」
男の目は、もう要を見ていなかった。
「仕事が珍しく早く終わって、まだ外が明るいうちに帰ったんです。玄関を開けたら夕飯を作っている匂いがしてました。何だったかは覚えていません。ただ、暑い日で、家の中までむっとしていたことは覚えています」
男は一度息を吐いた。
「ただいま、と言ったら、台所から妻が振り返ったんです。たぶん、何か作っている途中だったんでしょうね」
言葉が途切れた。
進也も要も口を挟まず、男が記憶から戻るのを待った。
「それだけなんです。旅行へ行ったことも、子供が生まれた日のことも覚えているのに、妻を思い出すと、なぜかその日のことが最初に出てくる。特別な日でもないし、そのあと何を食べたのかも覚えていないのに……妻が振り返ったところだけは、今でも残っているんです」
男は要へ視線を戻した。
「その頃の妻を、描いてもらえませんか」
要は初めて封筒へ手を伸ばした。
「写真を見せてください」
男は静かに頷いた。
*
封筒とアルバムには、一人の女性の時間が写真の一枚一枚に切り取られていた。
若い頃には海風に髪を乱されながら砂浜に立ち、結婚した頃には慣れない正装で夫の隣に座っている。その後には家や旅行先、公園、食卓で撮られた写真が続き、やがて子供を抱く姿も増えていった。
要は一枚ずつ手に取った。
年月を経た写真の角は丸く擦れている。何度もアルバムを開き、妻を見返してきた時間まで染み込んでいるようだった。
話を聞く前なら、写真の中の女性は要にとってただの知らない人だっただろう。だが今は、男の言葉がその姿に重なっていた。
暑さを嫌い、夏には髪をまとめて首へタオルを掛ける。夫が服を脱ぎ散らかせば腹を立て、魚を焦がし、シュークリームを買って帰れば機嫌を直す。映画を見れば人知れず涙を拭う。
要の指が、三十代半ば頃と思われる一枚の上で止まった。
「この頃ですか」
男が身を乗り出した。
「ええ。たぶん、この少し後くらいですね」
要は写真を封筒へ戻した。
「描いてみます」
男は深く頭を下げた。
*
翌朝、要は大きめのキャンバスをイーゼルへ載せ、制作を始めた。
脇の机には預かった写真と、聞き取った家の様子や男の言葉を書き留めた紙を広げてある。
二十年ほど前の夏の夕方、料理をしていた妻が、いつもより早く帰った夫の声を聞いて振り返る。
構図はすぐに決まった。女性の身体は台所へ残し、上半身だけを玄関側へ捻らせる。片手には料理の途中だと分かるものを持たせ、視線を帰ってきた夫へ向ける。
要は写真を確認しながら、頬の丸みや鼻筋、顎から首へ続く線、髪の流れや肩の位置を決めていった。
朝の光が昼を経て午後の黄色へ変わっても、要は筆を動かし続けた。作業は翌日も、その次の日も続いた。
女性の姿は完成へ近づき、台所には夏の夕方の光が差し込み、食卓には夕食前の皿が並んだ。写真を参考にした顔には、確かに妻の面影がある。
それでも、要の筆は何度も目元で止まった。
頬や口元、眉の角度を直しても、キャンバスの中に探している女性は現れない。夕方には絵具の匂いが部屋に満ち、描いたばかりの頬を布で拭っては、また色を置いた。
夜になり、窓の外に住宅の明かりが浮かぶ頃、要は椅子へ腰を下ろしてキャンバスを眺めた。
そこには写真によく似た女性が、夏の台所で料理の途中にこちらを向いている。
けれど、その視線の先には誰もいなかった。
夫が帰ってきたから振り返ったのではなく、画家に指示されてその姿勢を取っているだけの女に見える。
要は筆を洗い、その日は制作を終えた。
*
翌朝、要は目的地を決めずに街へ出た。
薄雲の広がる空から柔らかな陽射しが落ち、風には夏の湿気と、季節の変わり目の乾いた匂いが混じっていた。
要は人の多い方へ向かった。
駅前では、買い物袋を提げた女性が信号を待っていた。青信号に気づくのが遅れ、隣の人に続いて慌てて歩き出す。
商店街では、玩具店の前から動かない男の子を母親が困ったように見ていた。眉を寄せながらも、子供が振り返るたび目元を柔らかくする。
広場では学生たちが紙カップを手に笑い、駅の階段ではスーツ姿の女性が電話を切って目頭を押さえていた。花屋の前では白髪の女性が鉢植えの葉を撫で、横断歩道の向こうでは知人を見つけた女性が大きく手を振っている。
要は歩きながら、それぞれの顔を見た。
楽しさも疲れも苛立ちも寂しさも、人の顔にはさまざまな感情が現れる。いつもの要なら足を止めて記憶に残したい表情ばかりだったが、どれもキャンバスの女性とは結びつかなかった。
昼を過ぎても歩き続けた要は、足の疲れを覚え、大通りを外れて静かな路地へ入った。そこで、古びた木製の扉と曇ったガラス窓を持つ小さな喫茶店を見つけた。
店内には琥珀色の照明と濃い木目の家具が見えた。歩き疲れた要は扉を押し、ベルの音とともに中へ入った。
*
店内は薄暗く、目が慣れると使い込まれたテーブルや椅子、壁際の古いコーヒーミルが浮かび上がった。焙煎した豆と古い木材の匂いに、焼いたパンの香りが重なっている。
奥の席へ腰を下ろすと、冷房の風が熱を持った首筋を冷ました。運ばれてきたコーヒーを飲み、窓の外へ目を向ける。人通りの少ない道を自転車や買い物帰りの人が通り、向かいの建物には西日が差していた。
店内へ視線を戻した要は、窓際の若い女性に気づいた。
二十代前半ほどで、淡いブラウスに長いスカートを合わせ、肩までの髪を片側だけ耳へ掛けている。テーブルには飲み物とスマートフォンが置かれ、向かいの椅子は空いていた。
誰かを待っているのだろう。要は一度目を離したが、コーヒーを半分飲む頃には再び女性を見ていた。
女性はスマートフォンを確認して伏せ、窓の外を歩く人を目で追い、時計を見てはまた画面へ手を伸ばした。待つ時間が長くなるにつれ、背筋は椅子へ沈み、指先がカップの取っ手を所在なさそうに回す。
入口のベルが鳴ると、女性は反射的に顔を上げた。だが、入ってきたのが年配の男女だと分かると、目元から期待が消え、肩の力が抜けた。
時間が経つにつれ、唇は固く結ばれ、眉間に皺が浮かんだ。スマートフォンを持ち上げては置き、時計を見る回数も増えていく。
もう一度ベルが鳴った。女性は顔を上げたものの、入ってきた人物を確認すると、すぐに視線をテーブルへ戻した。落胆することにも疲れたようだった。
それでも帰ろうとはしない。飲み物が冷め、窓から入る光が赤みを帯びても、女性は席を離れなかった。
やがて、入口のベルがもう一度鳴った。
今度はすぐに振り向かなかったが、一拍遅れて顔を上げ、入口へ視線を向ける。その瞬間、積み重なっていた苛立ちや疲れがほどけた。
眉間の皺が消え、目元が柔らかくなる。固く結ばれていた唇が開き、沈んでいた身体も前へ動いた。待っていた人物を見つけた嬉しさが、隠すより早く表情へ現れていた。
だが、その表情はすぐに消えた。長く待たされたことを思い出したのか、女性は口元を引き締め、眉を寄せて相手から顔を逸らした。
怒っているように見せながら、目元の安堵までは隠せていない。
待たされた苛立ちも、来てくれた嬉しさも本物なのだろう。その間には、来ないかもしれないという不安や、帰るべきか迷った時間もあったはずだ。
一つの感情だけではない。いくつもの感情が重なって、一人の人間の顔を作っている。
要は女性を見ながら、その向こうに別の場所を見ていた。
夏の夕方、熱の残る家で夕食を作る妻。夫のだらしなさに小言を言い、魚を焦がし、シュークリームで機嫌を直し、映画で涙をこぼす女性。
彼女は夫を待つためだけに立っていたのではない。いつも通り夕食を作っていたのだ。
そこへ、いつもより早く玄関が開き、聞き慣れた声が届く。
ただいま。
妻が振り返る。
その瞬間、要はようやく分かった。
*
アトリエへ戻ると、窓の外はすでに夜へ向かい、住宅の明かりが一つずつ灯っていた。
要は窓を開け、夜の風を入れてからキャンバスの前へ立った。
描きかけの女性は写真の面影を持ちながら台所に立っているが、視線の先には誰もいない。
要は写真を手に取り、依頼人の話を思い返した。
夫に怒り、片付けないことに呆れながら、結局は自分で片付ける。シュークリームで機嫌を直し、暑さを嫌いながら夕食を作り、ある夏の日、いつもより早く帰った夫の声を聞いた。
要は写真を戻し、筆を取った。
口元の不自然な形を消し、目尻の影を拭って薄い色を重ねる。今度の筆は迷わず動いた。
描いているのは、喫茶店で見た若い女性ではない。顔立ちも年齢も場所も違う。
それでも、待っていた誰かが現れたとき、心の奥にあるものが隠すより早く表情へ現れることだけは同じだった。
夜が深まる中、要は描き続けた。やがて目元へ最後の色を置き、筆を離す。
キャンバスの中で、女性が振り返っていた。
身体は台所へ向き、料理をしていた手も止まりきっていない。夏の夕方の光に照らされた目は、絵の外にいる誰かへ向けられていた。
そこに夫の姿はない。
それでも、確かにそこにいた。
*
数日後、完成した絵が進也の画廊へ運ばれたとき、依頼人の男は約束より早く来て、白い布を掛けられた絵を何度も見ていた。
「早かったですね」
進也が声を掛けると、男は困ったように笑った。
「家にいても落ち着かなくて」
要が頷くと、進也は絵を覆っていた布を取り払った。
午後の光の中に、二十年前の夏の夕方が現れた。
男は動かなかった。
絵の中では、若い頃の妻が料理の途中で振り返っている。男の目が絵へ吸い寄せられ、口元が動いたが、声は出なかった。
やがて男は立ち上がり、絵へ近づいて額縁へ手を伸ばした。指先が触れる寸前で手が止まり、小さく震える。
「……妻です」
ようやく零れた声は、ひどく小さかった。
「こんな顔だった。私が帰ると……こんな顔で見てたんです」
男は泣かなかった。ただ、もう一度手を伸ばし、額縁の端へそっと指を置いた。
その触れ方は、そこにいる人を驚かせないようにするものだった。
*
男が絵を持って帰ったあと、画廊には夕方の光が残り、絵のあった場所だけが広く見えた。
進也はその空間を眺めてから、要へ顔を向けた。
「苦労した?」
「少し」
「要ちゃんの『少し』は信用ならないんだよねえ」
「そうですか」
「そうですよ」
進也は笑い、先ほどまで絵があった場所へ目を戻した。
「まあ、いい絵だったよ」
「ありがとうございます」
「今日はずいぶん素直だね」
要がわずかに首を傾けると、進也は笑った。
「いや、何でもない」
画廊を出ると、昼の熱を失い始めた街を冷たい風が抜け、要の黒い髪を揺らした。飲食店に明かりが灯り、焼いた肉と醤油の香りが漂う中、仕事帰りの人々や学生たちが駅へ向かっている。
交差点の向こうでは、二人の若い女性が立ち話をしていた。一人が何かを言うと、もう一人の目が驚いたように大きくなり、次の瞬間には堪えきれず笑い出す。身体を折り、相手の腕へ手を置き、目尻の涙を指で拭っていた。
要の歩調が、ほんの少し緩んだ。
信号が青へ変わり、人々が横断歩道へ踏み出す。要もその流れに入り、冷たい風に髪を揺らしながら歩いていった。
その顔は、いつもと変わらず静かなままだった。
けれど、先ほど見た女性の表情は要の中に残っている。夜になれば再び白いキャンバスの前へ座り、街のどこかで生まれては消えていく一瞬を、自分の手で拾い上げるのだろう。
やがてそれは淡い色をまとい、一人の女性となって、キャンバスの中で静かに息を始める。




