第1話:青いサイリウムの墓標
「推しが返り血を浴びながら笑った日、世界は歓声で埋め尽くされた。」
チカチカと明滅する安物の照明が、私の輪郭を曖昧に溶かしていく。汗で肌に張り付くポリエステルの衣装が冷たい。フロアにいるのは七人。そのうち、私を目当てに来てくれたのは、たぶん二人。それでもステージに立てば、私は藍原詩凪になる。誰も知らない、誰にも求められない、掃き溜めみたいな地下アイドルだ。
「しなちゃーん! 今日も可愛いよー!」
最前列で青いサイリウムを振る二人が、お手本通りのMIXを叫ぶ。その後ろでは、他のグループ目当ての男たちがスマホをいじったり、仲間と退屈そうに喋ったりしている。空虚だ。彼らの声援は、広すぎる暗闇に吸い込まれて消えていく。まるで、水底から見上げる水面のように、本当の喝采は遠い。
それでも、歌う。踊る。笑う。
息が切れ、心臓が悲鳴をあげる。ふと、脳裏に団地の狭い部屋と怒鳴る母親の顔がよぎる。私は、笑顔の仮面を剝がさない。ここで歌うことだけが、私が私でいられる唯一の証明だから。
「はい、お疲れさん。今日のギャラ、交通費込みで二千円ね」
ライブ後、汗も拭かずに事務所の仮眠室に戻ると、プロデューサーの男が気怠げに数枚の紙幣を投げ渡した。衣装代、レッスン代、その他もろもろの名目で天引きされた後の、私の価値。時給に換算したら、コンビニの深夜バイトの方がよほどマシだ。
「……ありがとうございます」
「あ、そうそう。来月の箱代、倍になるから。もっとチケット売るか、物販で稼がないと赤字分は詩凪ちゃんの負担になるからね。よろしく」
よろしく、じゃない。
喉まで出かかった言葉を飲み込んで、私は深く頭を下げた。壁の鏡に映る自分は、安物のティアラが傾いた、みすぼらしいお姫様ごっこだった。悔しさで滲む視界を、乱暴に手の甲で拭う。
午前3時。コンビニのバイトが終わる。
廃棄の弁当をビニール袋に詰め、自動ドアを抜けると、ひやりとした夜気が火照った頬を撫でた。今日はライブとバイトのダブルヘッダー。疲労で足が鉛のように重い。私が寝床にしているネットカフェまでは、ここから歩いて20分。
「あ、詩凪ちゃんじゃん! お疲れー!」
聞き覚えのある、少し湿った声に呼び止められた。振り返ると、今日のライブにも来ていた男が二人、薄ら笑いを浮かべて立っていた。最前でサイリウムを振ってくれていたうちの一人だ。
「あ…どうも。今日もありがとうございました」
「いやー、今日のライブも最高だったよ! 俺たち、詩凪ちゃんのことマジで応援してっからさ」
差し出された缶コーヒーを、断れずに受け取る。ファンは大切にしないと。プロデューサーにいつも言われていることだ。
だが、彼らの目はステージを見つめるそれとは違っていた。品定めするような、粘ついた視線が全身を這う。
「この後、時間ある? ちょっと飲みながらさ、今後の活動のこととか語り合おうよ」
「すみません、明日も朝早いので……」
「いいじゃん、少しくらい! 俺たち、こんなに応援してんのに?」
ぐい、と腕を掴まれた。アルコールの匂いが鼻をつく。まずい。逃げないと。
私が抵抗しようとした瞬間、もう一人の男が背後に回り込み、私の身体を軽々と路地裏へと引きずり込んだ。
ガシャン、と空き缶が転がる音。湿ったゴミの悪臭。
壁に背中を打ち付けられ、逃げ場を失う。男たちの下卑た笑い声が、コンクリートの壁に反響した。
「詩凪ちゃんさあ、もっとファンのこと大事にしなきゃダメだよ」
「そうだぜ。俺たちがいるから、ステージに立てるんじゃん?」
恐怖で声が出ない。掴まれた腕が軋むように痛い。青いサイリウムの光が、網膜の裏で悪夢のようにちらついた。あれは私を照らす希望の光じゃなかった。私を捕らえる檻の格子だったんだ。
ああ、もう、どうでもいいか。
心が、ぷつりと糸の切れる音を立てた。
その時だった。
コツン。
路地裏の入り口に、誰かが立っていた。
月光を背負い、そのシルエットだけが浮かび上がる。私と同じくらいの歳の、黒髪をポニーテールにした女。Tシャツにジーンズというラフな格好なのに、その佇まいは異質だった。まるで、この世の全ての音を吸い込んでしまったかのような、絶対的な静寂を纏っている。
「あ? なんだテメェ」
男の一人が、女を威嚇する。
女は何も答えない。ただ、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。その無感情な瞳が、私を――ううん、私を掴んでいる男の腕を、捉えた。
「邪魔すんなら、お前も――」
男の言葉は、最後まで続かなかった。
女の身体がブレたかと思うと、男の肘がありえない角度に曲がっていた。鈍い音と、短い悲鳴。続けざまに放たれた蹴りが、もう一人の男の鳩尾を正確に捉え、巨体がくの字に折れ曲がる。
舞うように、流れるように。
それは暴力というにはあまりに美しく、舞踊というにはあまりに残酷な動きだった。フェンシングの剣閃を思わせる、鋭く、無駄のない一撃。
あっという間に地面に転がった男たちを見下ろし、女はゆっくりと私の方へ向き直った。
その頬に、一筋、赤い血が飛び散っている。
女――篠森凛火は、何も言わない。
ただ、その黒い瞳で、怯える私をじっと見つめている。
月明かりの下、凛火の圧倒的な強さと、私の惨めな無力さが、残酷なほど鮮やかに対比されていた。
この人は、何?
なぜ、私を助けたの?
静寂の中、凛火の唇が、わずかに動いた気がした。
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