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スクリーンに大写しになったオンボード映像の中で、変化が起きた。
これまでHTV-Y改を、まるで慈しむように優しく抱きかかえていた最後のクランプが、音もなく、ゆっくりと花開くように開いていく。
そして、内蔵されたスプリングが、ごくわずかな力でHTV-Y改の背中をそっと押した。
母親が、初めての一歩を踏み出す赤子の背中を、不安と期待を込めてそっと押すように。
それは、暴力的な「分離」ではなく、優しさに満ちた「船出」だった。
ゆっくりと、本当にゆっくりと、時間の流れが粘性を帯びたかのように、黄金色の多層断熱材(MLI)に包まれたHTV-Y改は、ロケットから離れていく。
船体とロケットの間に、漆黒の宇宙が、一筋の線となって現れる。
その線が、徐々に太くなっていく。
やがて、完全に独立した一つの宇宙船となった。
その背後には、役目を終えた白亜の第二段ロケットが、静かに、そして急速に遠ざかっていく。
与えられた全ての力を出し切り、もはや自らの行き先を決めることもできない、抜け殻となった姿。
地球の青い光を浴びて、その機体は墓標のように白く輝いていた。
彼の運命は決まっている。
地球の引力に引かれ、やがては大気の壁にその身を投じ、一筋の流星となって燃え尽きるのだ。
自らが宇宙へと送り出した希望の光を見送ることなく。
そのあまりに荘厳で、どこか物悲しい別れの光景に、管制室の誰もが言葉を失い、見入っていた。
それは、技術の結晶である機械が織りなす、一つの詩だった。
どれほどの時間が経っただろうか。
その詩的な静寂を破ったのは、ナビゲーション担当の、安堵と、極度の集中から解放されたことによる微かな震えを帯びた声だった。
彼はヘッドセットを片手で押さえ、信じられないものを見るかのようにスクリーンと自分のコンソールを何度も見比べていた。
「HTV-Y改、分離成功。予定軌道への投入を確認。軌道誤差、コンマゼロイチパーセント未満です……完璧な投入です」
その報告が、張り詰めていた管制室の空気を静かに溶かしていった。
誰からともなく、深く長い安堵のため息が漏れる。
それは、やがて万雷の拍手へと変わっていったが、爆発的な歓喜というよりは、困難な外科手術を終えた執刀医チームのように、互いの労をねぎらう温かい響きがあった。
オペレーターたちは、固く握りしめていた拳を開き、あるいは天を仰いでそっと息をつく。
席を立って固い握手を交わし、無言で互いの肩を叩き合う者たち。
こらえきれずに目頭を押さえるベテランの顔には、厳しい緊張から解放された、父親のような穏やかな表情が浮かんでいた。
だが、誰もが理解していた。
これはゴールではない。
ゲートウェイで助けを待つ四人のクルーを救い出すための、長く険しい道のりの、確かな第一歩に過ぎないのだと。
「これで、ようやく第一関門突破ね」
隣に立つ涼子が、緊張から解き放たれ、わずかに頬を緩ませて翔太に言った。
その声には、確かな手応えと安堵が滲んでいる。
「ああ……なんとか、な」
翔太は、こみ上げる感情を抑えるように、深く、長く息を吐き出した。
まだ道は半ば。だが、最も重要な工程の一つを、完璧にやり遂げたのだ。
彼は涼子と視線を交わし、その差し出された手に、力強い握手を返した。
ふと、翔太は腕を組んだまま、拍手の輪から少し離れた場所に立つ、崎島社長に目を向けた。
クルーたちの中で、彼だけは微動だにせず、まるで時間の流れから一人だけ取り残されたかのように、静かに佇んでいた。
その鋭い視線は、メインスクリーンに映る孤独な黄金の光点――HTV-Y改――にじっと注がれている。
引き結ばれた口元は固いままだが、その目元に、ほんの一瞬、厳しい緊張が和らいだ気配がよぎった。
その時、翔太の視界の端で、ARデバイスの通信アイコンが静かに点滅した。
秘匿性の高い、量子通信回線での着信だ。
発信者は、アーベル。
HTV-Y改に乗り込んでいる、先史文明の宇宙船のコア。
『軌道投入、確認しました。素晴らしい仕事です。感謝します、皆さん』
その落ち着き払った合成音声は、管制室の熱狂とは対照的に、どこまでも静かで、平坦だった。
だが、その完璧に調整された声色の中に、翔太には確かに感じ取れるほどの、人間的な「安堵」のようなものが、微かなノイズのように含まれている気がした。
希望は今、確かに宇宙へと解き放たれたのだ。
しかし、管制室の視線は、すでにHTV-Y改の輝点から、その隣に表示されている別のモニターへと、鋭く注がれていた。
そこに映し出されているのは、リアルタイムで更新される宇宙天気情報のデータ。
太陽風の速度、プロトン密度、そして、数時間後に地球圏を襲うと予測される、巨大な太陽フレアの予測進路図。
その赤い警告表示が、管制室の歓喜の光とは対照的に、不気味な光を放っていた。
本当の戦いは、まだ始まったばかりだった。
黄金の船は、人類の希望を乗せて、静かな、しかし決して安全ではない宇宙の荒野へと、今まさに漕ぎ出したのだ。




