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T+40:10。
地球を半周する第一パーキング軌道上での短い休息は、終わりを告げた。
月へと向かうための最終加速、第二段エンジンの長秒時燃焼が完了した。
機体は純粋な慣性飛行へとその身を委ねていた。
重力の軛から解き放たれ、ただ宇宙の法則だけが支配する静寂の海へ。
サキシマ重工の管制室を支配していた、息も詰まるほどの緊張が、ほんのわずかに弛緩する。
何人かのオペレーターが固く握りしめていた拳をそっと開き、浅く息をついた。
背もたれに深く身を預け、乾いた喉を潤す者もいる。
だが、その弛緩は、張り詰めた弦がほんの一瞬、震えを止めたに過ぎなかった。
フライトディレクターの鋭い眼光は、メインスクリーンの一点に縫い付けられたままだ。本当の精密作業は、ここから始まるのだから。
「第二段エンジン、第三回燃焼開始」
フライトディレクターのコールが、再び室内の空気をガラスのように研ぎ澄ませていく。
オペレーターたちの指が、祈るようにコンソールの上に置かれた。
「第二段エンジン、第三回燃焼は正常、制御系、飛行経路も正常です。ロケットは順調に飛行を続けています」
その言葉が発せられた瞬間、再び管制室は音のない世界になった。
いや、空調の低い唸りや、隣席の同僚のかすかな息遣いは聞こえているはずなのに、意識がそれらを完全に遮断していた。
すべての感覚は、メインスクリーンに映し出されるHTV-Y改から送られてくるテレメトリデータ、その一点に集中していた。
今度の燃焼は、これまでのような荒々しい力で機体をねじ伏せる暴力的な加速ではない。
月遷移軌道――地球と月の引力が絶妙に釣り合う、目には見えない宇宙のハイウェイ。
その入り口へと、寸分の狂いもなく機体を導くための、繊細な、あまりにも繊細な最終調整バーンだ。
外科医が顕微鏡下で神経を繋ぎ合わせるような、あるいは熟練の刀匠が刃先に最後の焼き入れを行うような、神業的な精度が要求される。
真空の宇宙空間では、燃焼の轟音は響かない。
オンボードカメラの映像にも、劇的な変化は見られない。
ただ、HTV-Y改から光速で送られてくるテレメトリデータだけが、第二段エンジンが最後の命を、その一滴の燃料すら惜しむかのように、細く長く燃やしていることを静かに示していた。
画面に大きく表示された速度計の数字が、まるで精密な職人がマイクロ単位の研磨加工を行うように、ゆっくりと、しかし着実に目標値へと近づいていく。
秒速18.9キロメートル。
その数字の小数点以下第三位、第四位が、まるで生き物のように蠢きながら、定められたゴールへと吸い寄せられていく。
エンジンの燃焼圧、ターボポンプの回転数、ノズルのジンバル角度。
すべてのパラメータが、完璧なハーモニーを奏でながら、この繊細なバレエを踊りきろうとしていた。
それは、8時間後に月周回ステーション「ゲートウェイ」で、この黄金の船を待ちわびるクルーたちの命運に直結する作業だった。
そして、このミッションの成否そのものを決定づける、運命の数秒間だった。
誰もが固唾を飲んでいた。
瞬きすら忘れ、呼吸さえも止めて、完璧な軌道計算が、冷徹な物理法則が支配する宇宙で、現実のものとなる奇跡の瞬間を待っていた。
やがて、速度計の数字が、目標値と寸分違わず重なった、その刹那。
「第二段エンジン、第三回燃焼終了」
それと寸分違わぬタイミングで、テレメトリのグラフが燃焼停止を示し、速度計の数字が、まるで永遠にそこに刻み込まれたかのように、ピタリと静止した。
コールと同時に、第二段エンジンはその役目を完全に終えた。
帰還用の燃料はおろか、自らの姿勢を制御するための推進剤すら、最後の一滴までHTV-Y改を未来へと送り届けるために捧げ尽くしていた。
それは、壮絶な自己犠牲だった。自らの死と引き換えに、新たな命を宇宙へと解き放ったのだ。
T+50:45。
燃焼終了から、わずか十秒後。
管制室は、先ほどとは質の違う、水を打ったような静寂に包まれていた。
それは、荘厳な儀式の始まりを待つ静けさだった。
メインスクリーンの中央に、デジタルクロックが赤く点灯し、無慈悲なカウントダウンを開始していた。
「HTV-Y改、自動分離シーケンスへ移行」
ナビゲーション担当の声が、かすかに震えている。
もはや地上から介入する術はない。
すべては、機体に搭載されたオンボードコンピュータの判断に委ねられている。
幾度となくシミュレーションを繰り返してきた自動シーケンス。
だが、現実の宇宙は、シミュレーション通りに動くとは限らない。
誰もが、祈るような気持ちでスクリーンを見つめていた。
「5…… 4…… 3……」
管制室の全員が、心の中でカウントを共にしていた。
「2…… 1…… 0……」
カウントがゼロになった瞬間、メインスクリーンに大きく「SEPARATION SEQUENCE INITIATED」の文字が緑色に輝いた。
機体が、最終燃焼の成功と軌道の安定を確認し、自らの判断で分離シーケンスを実行したのだ。




