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地上の惨状を克明に映し出していたモニターは、ロケットからのオンボード映像に切り替えられた。
だが、管制室にいる誰もが、脳裏に焼き付いた先ほどの光景を忘れることはできなかった。
技術者たちの汗と誇りの結晶である最新鋭の発射台が、自らが送り出したロケットの奔流に耐えきれず、溶け落ちていく光景。
鋼鉄製のフレームが呻きを上げ、耐熱コンクリートが絶叫するように爆ぜ飛ぶ、あの数秒間。
それは、このミッションが背負う異常なまでのリスク、そして、その代償として凄まじい推進力を手に入れたことの、動かぬ証拠でもあった。
もはや、後戻りはできない。
自らを焼き尽くして、彼らは今、荒れ狂う宇宙の大海原へと船出したのだ。
「成功させるぞ……」
誰かが、搾り出すように呟いた。
それは祈りであり、自らに課した誓いでもあった。
その声に、他の誰もが心の中で固く頷く。
感傷も、後悔も、今は許されない。
彼らの希望の全ては、漆黒の宇宙を切り裂いて駆け上がる、あの孤独な光点に託されていた。
メインスクリーンには、ロケットの機体側面に取り付けられたカメラが捉える、映像が映し出されている。
凄まじいエンジン音の残響ともいえる振動で、画面全体が小刻みに震えている。
その向こうに、急速に遠ざかっていく地上の夜景が、まるで神が黒いビロードの上に宝石を無数に散りばめたかのように、雄大に広がっていた。
一つ一つの光が、命の営みそのものに見えた。
T+02:05。
「SRB-3、第一ペア、分離」
「第二ペア、分離」
フライトディレクターの冷静なコールが、緊張した室内に響き渡る。
その直後、スクリーンの中で、ロケットの胴体から二本の巨大な固体燃料ブースターが、火花を散らしながら切り離されるのが見えた。
分離ボルトが炸裂する一瞬の閃光が走り、ブースターは慣性の法則に従って、しばし機体と並走する。
しかし、すぐに希薄な上層大気の抵抗と地球の重力に捕まり、あっという間に後方へと脱落していく。
続いて残りの二本も、わずかな時間差で分離され、役目を終えた彼らは海上に向けて落ちていく。
やがて、ブースターは最後の命を燃やすかのように赤い火の粉を美しく散らしながら、生まれ故郷である地球の闇の中へと、静かに吸い込まれていった。
それはまるで、満場の拍手の中、幕が下りたあと、そっと舞台袖に消えていく、誇り高き名脇役のようだった。
ブースターの重量を脱ぎ捨て、身軽になった機体は、暴力的なまでのG(重力加速度)を唯一の乗員――アーベル――に叩きつけながら、更なる加速を再開する。
「翔太さん、これを見て」
隣に立つ涼子が、その声にわずかな興奮を滲ませながら、手元のサブモニターを指し示した。
そこには、アーベルから直接送られてくる各種データが、リアルタイムでグラフや数値となって表示されていた。
凄まじい速度、激しい振動、そして外部の急激な気圧低下。
人間であれば、とっくに意識を刈り取られ、肉体が限界を超えて悲鳴を上げているはずの過酷な環境。
しかし、アーベルの状態を示す項目は、その荒れ狂う外部環境が嘘であるかのように、完璧な水平線を保っていた。
その驚異的な事実に、翔太は安堵しつつも、改めてアーベルという存在の底知れない異質さを感じずにはいられなかった。
T+03:48。
「衛星フェアリング、分離」
次のコールが、管制室の空気を再び引き締めた。
ロケットの先端部、大気圏内での空力加熱や衝撃から積荷であるHTV-Y改を守っていた巨大なカバーが、音もなく二枚貝の殻が開くように、左右にパージされる。
それは、この旅における、一つの神聖な儀式だった。
大気の海から、真空の宇宙へ。
それはまるで守られるべき蛹が蝶へと羽化するように、変貌を遂げた。
カメラの映像が、切り替わる。
それまでフェアリングの白い内壁しか映していなかったカメラの視野が、突如として無限の闇と光に満たされた。
そこには、息を呑むほどに美しく、荘厳な光景が広がっていた。
眼下には、緩やかなカーブを描く巨大な天体――地球。
その水平線は、どこまでも続く深い海の藍色と、渦を巻く純白の雲に彩られ、生命の輝きそのものを放っている。
映り込む大地は、太陽の光を受け、紺碧の海と、神が指でなぞったかのような繊細な渦を巻く白い雲に彩られている。
そして、その惑星を包み込むように、言葉では表現できないほど薄く、壊れそうなほどに繊細な青色の光の層――大気圏が、絶対的な黒の宇宙との境界線を引いていた。
それはまるで、奇跡の揺りかごを守る、最後のヴェールのように見えた。
剥き出しにされたHTV-Y改の黄金色の断熱材が、容赦なく照りつける太陽の光を浴びて、神々しいまでに輝いている。
そのあまりに完璧な光景に、管制室のあちこちから、抑えた感嘆の声が漏れた。
何度見ても、宇宙から見た母なる星の姿は、人の心の最も原始的な部分を揺さぶる、抗いがたい力を持っている。
『映像、受信しました。地球は美しい星ですね』
その時、翔太たちのARデバイスに、アーベルからの落ち着いた声が届いた。
だが、翔太にはその言葉の中に微かな「感動」のようなものが含まれているように感じられた。
T+10:42。
「第一段エンジン、燃焼終了」
「第一段、第二段エンジン分離」
それまで機体を猛然と押し上げてきたメインエンジンが、その役目を終えた。
凄まじいGが嘘のように消え、一瞬の完全な静寂と、浮き上がるような無重力状態が訪れる。
メインスクリーンの中では、巨大な第一段ロケットが静かに分離され、ブースターと同じように、地球へと落ちていく。
本来であれば、地上へと垂直に着陸し、再利用されるはずだったその白亜の機体。
しかし、今回のミッションでは、月へ向かうための最後のひと押しを得るために、帰還に必要な燃料の一滴までをも、その上昇エネルギーへと変換していた。
もはや自らの姿勢を制御する力も残っておらず、ただ地球の引力に引かれるまま、弾道軌道の頂点を越えて堕ちていく。
やがて、それは大気圏という名の分厚い壁にその身を投じ、断熱圧縮によって真紅に燃え上がるだろう。
そして、夜空のどこかで、誰にも知られることのない一筋の流星となって、その輝かしい生涯を終えるのだ。
地上から打ち上げられた巨大な槍は、その穂先だけを宇宙に残し、自らの体を誇り高く切り捨てていくのだ。
T+10:50。
「第二段エンジン、第一回燃焼開始」
わずか8秒の静寂の後、再び機体の背中が強く押された。
今度は、真空の宇宙空間に最適化された第二段エンジンの燃焼だ。
大気のない宇宙空間では地上のような轟音はない。
ただ、神の指が背中を押し続けるかのように、静かに、しかし力強く、機体はさらに速度を上げていく。
地球周回軌道、いわゆるパーキング軌道に乗せるための、最後の精密な加速だった。
T+12:05。
「第二段エンジン、第一回燃焼終了」
「機体は予定軌道を通過中。第一パーキング軌道へ、正常に投入されました」
アナウンスと共に、張り詰めていた管制室が、安堵と興奮の入り混じった拍手に包まれた。
第一関門突破だ。
ロケットは今や、地球の引力に捕らえられながらも、決して落ちることのない絶妙な速度を手に入れていた。
スクリーンに映る青い地球が、ゆっくりと、雄大に流れていく。
「やった……!」
若い技術者の一人が叫んだ。
翔太も、隣の涼子と視線を交わす。
だが、崎島社長は腕を組んだまま、微動だにしない。
彼の視線は、メインスクリーンではなく、宇宙天気情報を表示しているモニターの一点に、釘付けになっていた。
そこには、先ほど発生した太陽フレアによって放出された、高エネルギープロトン(高エネルギーに加速された陽子)の波が、地球圏に向かって津波のように押し寄せてくる予測図が、禍々しい赤と黄色で表示されていた。
「――宇宙天気担当より報告! 第一波の到達まで、予測通り、あと約40分! CMEの到来は、現在も解析中ですが、最悪の場合、月遷移軌道上で遭遇する可能性があります!」
拍手を打ち消すような、冷水を浴びせる緊張をはらんだ報告。
そうだ、まだ何も終わっていない。
本当の戦いは、これからなのだ。
この穏やかなパーキング軌道での飛行は、太陽が放った嵐の前の、束の間の静けさに過ぎない。
T+25:05。
「第二段エンジン、第二回燃焼開始」
地球を約半周し、最も効率よく月へと向かうことができる絶好のポイントに到達した。
再び第二段エンジンに、青白い炎が灯された。
今度の燃焼は、地球の重力という最後の軛を振り切るための、決別の加速。
目標は月遷移軌道――トランス・ルナ・インジェクションだ。
機体は、地球という青い揺りかごを永遠に離れ、広大な宇宙の海へと、本格的に漕ぎ出していく。
その先には、救助を待つ人間と、未知の脅威、そして太陽が放った嵐が待ち受けている。




