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T-08:00
「打ち上げ8分前。現在各系統ともロケット打ち上げの最終作業を完了しました。また、警戒区域内の安全は確認されています」
スピーカーからのアナウンスが、カウントダウンの電子音に重なるように響く。
先ほどの太陽フレアを巡る激論が嘘のように、今はただ、目前に迫った巨大な事業を成功させるという一つの目的だけが、室内を支配していた。
「420」
電子音が無慈悲に時を告げる。
「安全系、準備完了」
「射場系、準備完了」
司令官が、各セクションからの報告を冷静に読み上げていく。
その声が合図であるかのように、射場全体に、低く長く響く警報サイレンが鳴り渡った。
その音は、管制室の厚い防音ガラスを隔てていてもなお、腹の底に響くような圧力を伴って伝わってきた。
緊張が、物理的な質量を持ったかのように、室内の空気をさらに重くする。
「360」
「打ち上げ6分前です。現在射場の天候は晴れ。気温は摂氏8度、南南西の風、風速毎秒4.5メートル。打ち上げに支障ありません」
「衛星系、準備完了」
空は、皮肉なほどに澄み渡っていた。
無数の星が瞬き、その中に今から飛び立とうとしているのだ。
T-05:00
秒単位でのコールが始まり、時の流れが体感的に加速していく。
「300」
そのコールと共に、射場の基部から凄まじい量の白い蒸気が勢いよく噴出し始めた。
最後に極低温の液体水素と液体酸素を燃料タンクに送り込み、圧力をかけるための配管を最終冷却する際に発生する蒸気だ。
その量は見る見るうちに増え、白い霧となって、まるで生き物のように射場を滑っていく。
やがて、サキシマロケット3号機改の巨体は純白の霧に包まれ、その輪郭が幻のように揺らめいて見えた。
翔太は管制室の窓からその幻想的な光景を見つめ、心臓が早鐘を打つのを感じていた。
あの霧の向こうに、アーベルがいる。
たった一人で、これから月へ、そして太陽の嵐の中へと旅立つのだ。
T-03:00
「自動カウントダウンシーケンス、開始」
「2段液体水素タンク、地上与圧開始」
「1段液体水素タンク、地上与圧開始。打ち上げ3分前です」
アナウンスと共に、機体の電源が地上からの供給を断ち、完全に内部電源へと切り替えられた。
ロケットが、自らの力で生命活動を開始した瞬間だった。
機体内部の燃料タンクには、打ち上げに備えて凄まじい圧力がかけられていく。
それは、巨人が決戦の前に深呼吸をするかのようだった。
電子音が冷徹に秒を刻み、技術者たちはその一音一音に全神経を集中させる。
「120」
「115、114、113……」
「2段液体酸素タンク、地上与圧開始」
「1段液体酸素タンク、地上与圧開始」
管制室の空気がさらに重くなり、誰もが息を殺していた。
キーボードを叩く音も、話し声も、咳払い一つ聞こえない。
聞こえるのは、電子音と、アナウンスと、自分の心臓の音だけだった。
T-01:00
「打ち上げ1分前です」
「トーチ、点火」
「フレームディフレクター、冷却開始」
司令官の声に合わせ、地上支援装置から大量の冷却水が、まるでダムの放水のように轟音と共に噴出し、白い水柱となって立ち上った。
発射台の真下にある巨大な炎道を、これから襲うであろう灼熱から守るための準備だ。
T-00:30
「ウォーターカーテン散水開始」
発射台の根本を、今度は滝のような水が包み込む。
ロケット本体を、轟音による音響振動から守るための水の壁だ。
T-00:20
「フライトモード、オン」
ロケットの頭脳が、完全に自律飛行モードへと移行した。
もう人間の手は介在しない。
あとは、アーベルとロケット自身を信じるだけだ。
翔太の心臓は叫び続け、耳鳴りがするほどだった。
隣の崎島は、微動だにせずスクリーンを睨みつけている。
その横顔は、能面のようだった。
T-00:10
「全システム、発射シーケンス完了」
管制室に、一瞬だけ完全な静寂が訪れた。
それは深海に沈んでいくような、張り詰めた静けさだった。
「メインエンジン、スタート」
「SRB-3、点火」
その声が、静寂を破った。
管制室の全員が一斉に息を呑んだ。
世界から音が消えたように感じた。
次の瞬間、メインスクリーンの映像の中で、発射台の真下で眩いばかりの光が爆ぜた。
点火されたのは計画通り、中央のメインエンジンと、それを取り囲む四基の補助ブースター。
T-00:00
「リフトオフ!」
轟音が天地を裂いた。
遅れて管制室まで届いたその音は、もはや音というよりは純粋な暴力的なまでの衝撃波だった。
分厚い強化ガラスがビリビリと悲鳴を上げ、床が、壁が、内臓が、魂が震える。
巨大な火柱が地面を穿ち、白い蒸気とオレンジ色の炎が爆発的に吹き出した。
機体の下から螺旋状の焔が立ち昇る。
合計五基のエンジンから吐き出されるその焔は、以前の打ち上げよりも明らかに強力で、複雑な模様を描き出しながら、巨大なショックダイヤモンドを形成していた。
その青白い輝きは、地球上のどんな宝石よりも美しく、そして恐ろしかった。
夜の闇を真昼のように照らし出し、自らが作り出した噴煙の雲を突き破って、純白の機体は、一点の迷いもなく天を目指す。
ゆっくりと、しかし圧倒的な力強さで、巨体は重力という地球の軛を振りほどいていく。
誰もが、空へと駆け上がっていくその光の軌跡に魅入られていた。
その時、射場管制を担当する管制官からの報告が、ポツリと、しかしはっきりとスピーカーから溢れた。
「射場の冷却系統が追いついていません……ああ、嘘だろ……フレームディフレクターが……」
モニターの隅に映し出された射場のライブ映像。
水蒸気による白煙が風に流されたその隙間から、信じがたい光景が見えた。
発射台の底部が、エンジンの排熱に耐えきれず、鮮やかな赤色に発光し、まるで飴のように溶けて崩れていく様子が映っていた。
数千度の灼熱に炙られ、特殊な耐熱合金で覆われていたはずのフレームディフレクターが溶け落ち、その下の防火シールドも紙のように剥がれ落ちていく。
むき出しになったコンクリートの構造体が、次々と爆ぜ飛んでいた。
「……射場、大破を確認。再使用は……不可能です……」
管制官の悲しげな呟き。
打ち上げのために、莫大な費用をかけて建設された最新鋭の発射台が、わずか数秒で鉄屑と化したのだ。
それは、このミッションが、文字通り「後戻りのできない片道切符」であることを象徴していた。
だが、そんな地上の惨状をあざ笑うかのように、サキシマロケット3号機改は、もはや一つの輝く星となって、雲の切れ間を抜け、漆黒の夜空に一筋の力強い光跡を描いていた。
その光が、太陽の嵐が待ち受ける宙の海へと向かう、小さな方舟の航跡であることを、管制室にいる誰もが知っていた。




