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「……さて、と。」
翔太はダイニングテーブルの椅子に腰掛け、スマホを手に持ったまま深く息を吐いた。
薄暗い部屋の中、蛍光灯の白い光が机に反射し、窓の外からは虫の声が微かに響いている。
テーブルの上には冷めたお茶の入った湯呑みと、アーベルのコアが静かに光を放ちながら置かれている。
スマホの画面には『南川涼子』の名前が表示され、指がその上に止まったまま動かない。
南川涼子――かつての職場の同僚であり、後輩。
研究所で一緒に実験データをまとめたり、無理難題を押しつけてくる上司に二人で愚痴をこぼしたりした仲だ。
仕事では何度も助けられ、助けた。
彼女の鋭い観察眼と手際の良さに救われたことも多い。
しかし、退職してからのこの2ヶ月余り、彼女との接点は完全に途絶えていた。
LINEの履歴も最後の挨拶で止まり、彼女がどうしているのかさえ知らない。
(連絡して、変に思われないか……?)
一瞬、ためらいが胸をよぎる。
退職してからおおよそ2ヶ月、突然助けを求めるなんて少し情けない気がした。
しかも、その内容も問題だ。
アーベルの存在や宇宙船のコアといった話は、涼子にしてみれば荒唐無稽な冗談にしか聞こえないだろう。
だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
アーベルを復旧させるためには、どうしても貴金属を含む合金の廃材の確保が必要だ。
翔太は目を閉じ、意を決して通話ボタンを押した。
コール音が数回鳴る。
トーンが響くたびに、心臓が少しずつ速く鼓動した。
「もしもし?」と聞こえるのを待つ間、頭の中で言い訳を組み立てる。
「突然で悪いけど」「個人的なプロジェクトで」――どう切り出そうか迷っていると、電話の向こうから声が響いた。
「……はい、もしもし?」
涼子の声だ。
変わらない、どこか軽やかで明るい響き。
研究所で彼女が実験器具を手に持つ姿や、白衣の袖をまくってノートにデータを書き込む姿が脳裏に浮かんだ。
「もしもし、高橋、高橋翔太だけど、今電話大丈夫?」
名乗ると、電話の向こうで一瞬の沈黙があった。
息を呑むような間が空き、翔太の胸に小さな緊張が走る。
「えっ、翔太先輩!? 久しぶりじゃないですか!」
驚きと喜びが入り混じった声が弾け、電話越しに彼女の笑顔が浮かぶようだった。
予想外の明るさに、翔太は思わず口元をほころばせた。
「突然連絡して悪いな。それにまだ2ヶ月ちょっとしか経ってないだろ。夏も終わってないし……それでな、早速で悪いけど、ちょっと相談したいことがあってさ。」
少し照れ隠しに早口で言うと、涼子が興味津々に返してきた。
「え、なんですか? 仕事関係?」
「いや、仕事っていうか……ちょっと研究用の素材を探しててな。」
「研究用の素材?」
涼子の声にわずかな疑問が混じり、翔太は言葉を選びながら続けた。
「職場で使われてた合金の廃材とか、譲ってもらうことは可能だろうか?」
「うーん……どうだろ。最近、研究室も整理が進んでるから、あんまり残ってないかも……」
涼子は考え込むように少し黙り、電話の向こうでペンをカチカチ鳴らす音が聞こえた気がした。
彼女の癖だ。
実験中にアイデアを整理する時によくやっていた。
そして、少し間を置いて言葉が続く。
「でも、確か、規格外品が出ちゃってロット単位で廃棄になっちゃったやつがあったはず……それなら廃棄処分としてこっそり渡せるかもですけど、何に使うんです?」
「まあ、ちょっとした個人的なプロジェクトってやつだよ。」
曖昧に濁すと、涼子の声にからかうような響きが混じった。
「ふーん……なんだか、怪しいですね。」
電話越しに、彼女がニヤリと笑う顔が浮かぶようだった。
翔太は苦笑しながら反論する。
「怪しくないって。」
「でも、いきなり『廃材くれ』って言われても、ちょっと不自然じゃないですか?」
確かに、言われてみればもっともだ。
普通、個人がそんな素材を欲しがること自体、不自然極まりない。
何かもっとらしい理由をつけるべきだったかと頭を巡らせていると、涼子が楽しげに提案してきた。
「まあいいですよ。でも、その代わりに食事でもどうですか? 久しぶりに会いたいですし。」
「……食事?」
予想外の申し出に、翔太は一瞬言葉を失った。
涼子とは職場で仲が良かったが、プライベートで食事をするほどの関係ではなかったはずだ。
仕事終わりに軽く飲みに行く程度ならあったが、それもグループでの話。
退職してから連絡すら取っていなかったのに、彼女の方から誘ってくるとは予想外だった。
「どうせなら、直接話したほうが早いと思いますし…あとは社内で話せないような愚痴を聞いて欲しいってのもあります。」
涼子の軽快な声が続き、彼女らしい提案に翔太は納得した。
「なるほどな……じゃあ、明後日あたりどうだ?」
「明後日? いいですよ。お店はお任せしても良いですか?」
「オッケー、店は決めておくよ。また連絡する。じゃあ、またな。」
「はい、楽しみにしてます!」
涼子の声が弾むように響き、電話が切れた。
翔太はスマホをじっと見つめ、意外な展開に思わず苦笑が漏れた。
「まさか、食事の約束まで取り付けることになるとはな……」
スマホをテーブルに置き、椅子の背もたれに凭れて天井を見上げた。
その時、スマホの画面に黒い文字が浮かび上がった。
『交渉は順調のようですね』
アーベルだった。
翔太は溜息をつきながら、スマホを手に持つ。
「お前な……いちいち反応するなよ。」
『私は交渉の成功を希望しています』
すると、スマホの画面が勝手に切り替わり、駅前のレストランのホームページが表示された。
落ち着いた雰囲気のレストランで、コース料理の写真が並んでいる。
アーベルの提案らしい。
しっかりとしたメニューが揃い、雰囲気も悪くない。だが、少しばかり出費が嵩む。
翔太は目を細めて画面をスクロールし、「まったく……」と呟きながら予約ボタンを押した。
涼子に店の名前と時間をLINEで送り、スマホをポケットにしまった。
ソファに体を預け、頭を整理する。
涼子にどこまで打ち明けるか、廃材をどうやって受け取るか、アーベルの存在を隠すかどうか――考えるべきことが山積みだ。
窓の外を見れば、夜の静寂が辺りを包み込んでいた。
月明かりが薄く照らし、アーベルのコアが放つ淡い光と交錯する。
翔太は目を閉じ、明後日の再会を想像しながら、胸に湧く期待と緊張を静かに抑えた。