7-11
終末の光の伝道師、日村に促されるまま、近藤は重い足取りで雑居ビルの奥へと進んだ。
エレベーターが開き、そこからさらに奥まった場所にその部屋はあった。
古びた鉄製のドアには何のプレートもかかっていない。日村が慣れた手つきでドアを開けると、むわりとした人の熱気と共に、先ほど公園の炊き出しの際には感じなかった、何か甘く、しかしどこか人工的な、嗅ぎ慣れないお香のような匂いが近藤の鼻腔を刺激した。
部屋は、雑居ビルの一室とは思えないほど広々としていた。
大学の講義室を彷彿とさせる空間で、前方にはやや高い壇上が設けられ、そこに向けて扇状に何列もの椅子が整然と並べられている。
すでに多くの人々が集まっており、ざっと見渡しただけでも三十人は超えているだろうか。
学生風の若い男女、どこにでもいそうな主婦、そして近藤のように、人生の荒波に揉まれたような影を背負った中年の男たちの姿も散見された。
誰もが、どこか虚ろな、あるいは何かに縋るような眼差しをしていた。
近藤は最後列の隅の席に、腰を下ろした。
周囲の人間も、互いに言葉を交わす者はほとんどいない。
ただ、重苦しい沈黙と、微かに漂う甘い香りが、異様な緊張感を醸し出していた。
やがて、全ての椅子が埋まったのを見計らったかのように、日村が静かに壇上へと上がった。
彼の背後には白いスクリーンが下ろされており、そこにプロジェクターから幾何学模様とも生物の細胞分裂のようにも見える複雑な図形が、明滅しながら万華鏡のように変化していく様が映し出された。
それはどこか催眠的な効果を狙っているかのようで、近藤は見ているうちに軽い眩暈に似た感覚を覚えた。
例の甘いお香の匂いが、先ほどよりも濃くなった気がする。
日村はマイクを使わず、しかし講堂の隅々まで届く、よく通る声で語り始めた。
その声は穏やかだが、聞く者の心の隙間に入り込むような、不思議な浸透力を持っていた。
「ようこそ、皆さん。ここにお集まりいただいたということは、皆さんは日頃から、ご自身の置かれた状況、あるいはこの社会に対して、何らかの不満や疑問を抱えていらっしゃるはずです。一生懸命勉強しているのに、望むような成績が得られない。真面目に仕事に取り組んでいるのに、給料は一向に上がらない。正当な評価を受けられず、社会的地位を得られない……」
日村の言葉は、まるで近藤自身の胸の内を言い当てているかのようだった。
かつて課長として部下を率いていた日々。
それなりの自負とプライドがあった。
しかし、全てを奪われ、社会から蹴落とされた今、あの頃の自分は幻だったのではないかとさえ思う。
「……例えば、そちらの貴方」
日村は、前列に座る若い男性を指差した。
「ご自身の生活でのご不満、差し支えなければお聞かせいただけますか?」
指名された男性は、少し怯えたような表情を浮かべながらも、ぽつりぽつりと語り始めた。
「僕は、ずっと一流大学を目指して勉強してきました。でも、何度挑戦しても合格できなくて……親にも、友人にも合わせる顔がありませんでした」
彼の声は次第に震えを帯び、最後は嗚咽に近いものになった。
日村は、その男性に慈しむような視線を向け、深く頷いた。
「辛かったでしょう。ええ、よく分かります」
それを皮切りに、堰を切ったように他の参加者たちも自らの不満や苦しみを吐露し始めた。
「夫が家庭を顧みず、私と子供たちはまるで存在しないかのように扱われています……」と涙ながらに訴える主婦。
「会社で謂れのない濡れ衣を着せられ、退職に追い込まれました。もう、どこにも私の居場所なんてないんです」と怒りを滲ませる中年の男。
中には、「何度も死のうと考えました。でも、死ぬ勇気さえ持てなくて……」と、か細い声で告白する若い女性もいた。
近藤は、彼らの言葉を聞きながら、他人の不幸を聞き、奇妙な安堵感を感じていた。
しかし、それと同時に作為的とも思えるほどの、この場所に集められた人々の抱える闇の深さに、改めて戦慄を覚えていた。
ここにいる人々は、根深い絶望の中にいるのかもしれない。
一人、また一人と不満が語られるうちに、会場の雰囲気は徐々に熱を帯びていった。
誰かの悲痛な叫びに、別の誰かが「分かる」「私も同じよ」と同意の声を上げる。
最初は個々の点だった不満が線で結ばれ、やがて面となり、会場全体を覆う巨大な共感とでも言うべき奇妙な一体感が生まれつつあった。
それは、負の感情を共有することで生まれる、歪んだ絆のようにも見えた。
甘いお香の匂いは、いつしか部屋中に充満し、人々の興奮をさらに煽っているかのようだ。
そして、その興奮が最高潮に達した瞬間、日村が両手を大きく打ち鳴らした。
パンッ!
乾いた音が響き渡ると、それまでの喧騒が嘘のように、一瞬の静寂が会場を支配した。
人々は、水を打ったように静まり返り、固唾を飲んで日村の次の言葉を待っている。
日村は、満足そうに一同を見渡し、そしてゆっくりと口を開いた。
「皆さんの苦しみ、悲しみ、怒り……痛いほど伝わってきました。しかし、それは決してあなた方が劣っているからではありません。むしろ逆です」
彼の声には、先ほどまでの共感とは質の異なる、確信に満ちた力が込められていた。
「貴方方にはまだ未開発の、いえ、意図的に隠されてきた偉大な力があるのです。その力を正しく引き出すことさえできれば、現状を打破し、真の自分として輝かしい人生を歩むことができるのです」
壇上の日村の背後、スクリーンに映し出される図形が、より複雑で神秘的なパターンへと変化した。
それは古代遺跡の壁画のようでもあり、宇宙の星雲のようでもあった。
「科学では解明されていない驚異の世界がある。この世界には、我々の常識を遥かに超えた法則が存在するのです。ここでその真理を学べば、分かります。あなたが人生で謎に思っているすべてのことが、なぜそうなっているのか、その根源が分かるのですよ。知りたいとは思いませんか?」
日村の言葉は、まるで甘美な毒のように、人々の心に染み込んでいく。
近藤もまた、その言葉に抗いがたい魅力を感じ始めていた。
飢えと寒さ、そして存在を証明するものを何一つ持たない今の自分。
もし、本当に「隠された力」があるのなら……。
「では、なぜ、あなた方のその素晴らしい能力は抑えられているのか? それは、この地球が、すでに“奴ら”の手に落ち、支配され、巧妙に管理されているからなのです」
会場が一瞬、ざわついた。近藤の背筋に、冷たいものが走る。
“奴ら”?
その言葉は、先日までの平穏な日常では、決して聞くことのなかった響きを持っていた。
「“奴ら”って…一体何なんですか?」
会場の一人、比較的若い男性がおそるおそる尋ねた。
日村は、その質問を待っていたかのように、鋭い眼光を放った。
「地球外知的生命体です」
その言葉が発せられた瞬間、会場のざわめきは一層大きくなった。
信じられないという表情、恐怖に引き攣る顔、そして中には、何かを期待するように目を輝かせる者もいた。
近藤は、思考が追いつかないのを感じていた。
地球外知的生命体? まるでSF映画の話だ。
しかし、日村の口から語られるそれは奇妙なリアリティを帯びて聞こえた。
「“奴ら”は、我々地球人類の進化、覚醒を極度に恐れています。そして、有史以来、様々な手段で我々の進化を妨害し、その能力を抑圧し続けてきました。歴史上の大きな争いや、不可解な事件の背後には、常に“奴ら”の影があったのです。我々は、それに対抗するため、そして奪われた我々の権利を取り戻すため、強い意志と、隠された力を持つ可能性のある人々を集めているのです」
日村の言葉は壮大で、荒唐無稽とも言える内容だった。
しかし、極限状況に置かれ、社会から疎外された人々にとっては、自分たちの不遇を説明し、かつ特別な使命感を与えてくれる物語として、魅力的に響いたのかもしれない。
近藤自身、横浜の倉庫街で見たあの巨大な機械蜘蛛の姿を思い出していた。
あれは一体何だったのか?
“奴ら”と関係があるのだろうか?
「今日は、皆さんにその一端をお見せするために、特別に我々の偉大なる協力者であり、覚醒された使徒の一人である、ヨハンナさんに来て頂いています」
日村がそう言うと、壇上の照明が一部落とされ、隅の暗がりからゆらりと一人の人影が現れた。
その人物は、フードのついた深紅のローブを深く被り、顔の表情は全く窺い知ることができない。
まるで中世の魔術師か、あるいはどこかの秘密結社の儀式に現れる神官のようだ。
小柄だが、その立ち姿には張り詰めたような緊張感と、不可侵の威厳が漂っていた。
ヨハンナと名乗ったその女性は、日村と一言二言、低い声で言葉を交わした後、静かに壇上の中央へと進み出た。
照明がさらに絞られ、スポットライトがヨハンナただ一人を照らし出す。
周囲のざわめきが嘘のように消え、講堂は再び水を打ったような静寂に包まれた。
近藤を含め、全員の視線が、フードの女性の一挙手一投足に注がれる。
彼女の伸びた背筋は、内なる強大な集中力を物語っているかのようだった。
ヨハンナがゆっくりと両腕を広げる。
その動作は、まるで古の儀式を執り行うかのように荘厳だった。
深紅のローブの袖が、ふわりと大きく空間に広がった。
次の瞬間、近藤は息を呑んだ。
ローブの袖の内側、その暗がりから、まるで意志を持っているかのように、無数の銀色の煌めきが飛び出してきたのだ。
それは、何本もの鋭利なナイフだった。
ナイフの群れは、物理法則を完全に無視しているかのように、重力を感じさせずに壇上の空間を縦横無尽に飛び交い始めた。
銀色の切っ先は、スポットライトのわずかな光を捉えてきらきらと反射し、幻想的で美しい光の軌跡を描き出す。
金属同士が触れ合う音は一切しない。
ただ無音で宙を舞うナイフの群れは、時に優雅に、時に猛烈な速さで、複雑なパターンを描きながら舞い踊る。
それはまるで、彼女の手足の延長であるかのようだった。
ヨハンナ自身は、微動だにせず、ただ両腕を広げたまま、その超常的な光景を静かに見つめている。
彼女の周囲には、目にも止まらぬ速さでナイフが乱舞し、その切っ先が描く光の線は、まるで夜空に瞬く星々が凝縮された小宇宙のようだった。
近藤は、目の前で起きている現象が信じられなかった。
手品やイリュージョンなどという陳腐な言葉では到底説明できない。
これは、明らかに人知を超えた何かだ。
講堂全体が、現実と幻想の狭間にあるかのような、とてつもない緊張感と、一種の神聖な美しさに包まれていく。
誰かが、かすれた声でぽつりと呟いた。
「これって……サイコキネシス……? 超能力ってことなのか……?」
その呟きは、近藤を含む多くの者の心の声を代弁していた。
ヨハンナが織りなすナイフの舞いは、言葉を失った観衆の目を釘付けにし、彼らの心に、畏怖と驚嘆を深く刻み込んでいった。
やがて、ナイフの動きが徐々に緩やかになり、最後には全てがローブの内に吸い込まれるようにして消え去った。
ヨハンナは静かに一礼すると、再び壇上の隅へと姿を消した。
残されたのは、圧倒的な静寂と、呆然とした表情で彼女が消えた方向を見つめる人々だけだった。
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しばらくの沈黙の後、日村が再び前に進み出た。
彼の顔には、満足そうな笑みが浮かんでいる。
「ご覧いただけましたでしょうか。これが、我々が語る“隠された力”の一端です。“奴ら”が最も恐れる、人間の内に秘められた可能性です」
「四次元へ干渉し、三次元の事象に影響を与える……超能力、いや、魔法といってもよいでしょう」
彼の声は、先ほどよりも一層力強さを増していた。
「我々には……いや、ここにいる皆さん一人一人には、このような力が、あるいはそれ以上の力が眠っているのです。その力を解放し、我々と共に“奴ら”の支配から地球を取り戻し、真の自由と平和を勝ち取るために戦いませんか?」
日村は両手を広げ、会場全体に呼びかける。
その姿は、まるで救世主のようだった。
「この後、別室にて、皆さんの内に眠る力を覚醒させるための最初の儀式を行います。もし、それを受け、我々と共に歩むことを決意された方がいらっしゃれば、あちらの部屋へお進みください」
日村は、壇上の下手にある、もう一つのドアを指し示した。
そして、彼は一転して、冷ややかとも取れる表情で付け加えた。
「もちろん、疑念を抱かれる方、まだ信じられないという方を無理に引き止めることは致しません。お帰りになる方は、入ってこられたあちらの扉から、ご自由にお引き取りください」
日村は、近藤たちが最初に入ってきた、後方の扉を手で示した。
選択肢は二つ。
一つは、この荒唐無稽とも思える話を受け入れ、「儀式」に参加し、日村たちの仲間入りをすること。
もう一つは、この場を立ち去り、再びあの飢えと寒さ、そして何よりも孤独と無力感が支配する路上へと戻ること。
近藤の脳裏に、日村の耳元で揺れていた、あの不気味なピアスのシンボルが蘇る。
荒唐無稽だ。
そう頭では理解している。
しかし、ヨハンナが見せたあの超常現象は、紛れもない現実だった。
そして何よりも、今の近藤には、失うものが何もなかった。
あるのは、耐え難い空腹と、わずかなプライドの残骸だけだ。
衣食住の提供。
そして、もし本当に力が手に入るのなら。
近藤は、震える手で自分の汚れたパーカーを握りしめた。
周囲の人々も、それぞれに葛藤しているようだった。
ある者は決意を秘めた目で前方のドアを見つめ、ある者は不安そうに後方の出口に視線を送っている。
甘いお香の匂いが、まだ近藤の思考を鈍らせているかのようだった。
日村は、ただ静かに、彼らの決断を待っている。
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近藤は、ゆっくりと顔を上げた。
その視線の先には――壇上の下手にある、日村が指し示した、ドアがあった。
古びた、何の変哲もないドア。
しかし、今の近藤には、そのドアがまるで異世界への入り口のように見えた。
その向こうに何があるのか、想像もつかない。
日村の言う「儀式」。
それは一体何を意味するのか。
「隠された力」とは、本当に手に入るものなのか。
疑念は尽きない。
頭の片隅では、冷静な自分が警鐘を鳴らしている。
これは罠だ、と。カルト的な集団の常套手段だ、と。
しかし、それ以上に強く、近藤の心を揺さぶるのは、日村が提示した「可能性」だった。
ヨハンナが見せたあの現象は、紛れもない現実として近藤の網膜に焼き付いている。
そして、何よりも、今の自分には失うものが本当に何もなかった。
あるのは、この身一つと、ドブのような現実だけだ。
後方の出口に目をやれば、そこには見慣れた絶望が口を開けて待っている。
飢えと寒さ、孤独。そして、社会から忘れ去られた存在であるという無力感。
あの日常に、果たして戻る価値があるのだろうか?
近藤の脳裏に、横浜の倉庫街で遭遇した巨大な機械蜘蛛の不気味な姿がフラッシュバックする。
あれもまた、この世界のどこかに潜む「異常」の断片だったのではないか。
日村の語る「“奴ら”」という存在が、突如としてリアリティを帯びて迫ってくる。
甘いお香の匂いが、まだ鼻腔の奥にまとわりついている。
それが判断を鈍らせているのかもしれない。
だが、もうどうでもよかった。
もし、万が一、ほんのわずかでも可能性があるのなら。
この惨めな現状から抜け出し、再び何かを掴むことができるのなら。
たとえそれが、いばらの道であったとしても。
近藤は、固唾を飲んだ。
隣の席の主婦が、震える手を握りしめ、ゆっくりと前方のドアに向かって立ち上がるのが見えた。
その動きに引きずられるように、何人かが静かに席を立ち始める。
誰もが、それぞれの絶望と、わずかな希望を胸に、その一歩を踏み出そうとしていた。
日村は、壇上で静かにその光景を見守っている。
その表情は読み取れない。
近藤は、もう一度、強く汚れたパーカーの裾を握りしめた。
心の奥底で、かつてのプライドの残骸が、かすかな抵抗を見せる。
しかし、それも今の彼にとっては、あまりにも弱い囁きに過ぎなかった。
彼の視線は、ただ一点、前方のドアに注がれていた。
その奥にあるかもしれない、「力」と「変化」を渇望するように。




