7-9
千葉県の一角。
翔太の祖父が遺した古い家屋は、闇に包まれていた。
その母屋から少し離れた裏山の地下深くには、現代的な居住空間が広がっていた。
アーベルが作り出した外界から隔絶された地下シェルターだ。
翔太と黒い子猫の姿をした宇宙船のコアであるアーベルが微睡んでいた。
時刻は午後十時を回ったところ。
翔太は風呂上がりで、Tシャツとスウェットパンツという気楽な格好でリビングのソファに深く身を沈めていた。
一緒に暮らしている涼子は翔太と入れ替わりで風呂へ入っている。
手には冷えた麦茶のグラス。
壁掛けの大型モニターには、ローカル局の深夜ニュース番組が流れている。
ゲートウェイでの事故について、昼に見た全国のトップニュースとして大々的に報じられた内容と同じ、断片的な情報が流れていた。
どうやら救出について、各機関が会議しているらしい。
「ふう……」
一日の終わりを告げる、安堵のため息。
床に置かれたビーズクッションの上では、アーベルが小さな丸い塊となって眠っている。
金属質な光沢を帯びた黒い毛並みが、間接照明の柔らかな光を吸い込んで、時折きらりと反射する。
その翡翠色の瞳は固く閉じられ、か細い寝息のような音が聞こえていた。
この穏やかな時間が、最近の翔太にとっては日常だった。
その静寂を、けたたましい電子音が引き裂いた。
ソファの脇に置かれた翔太のスマートフォンが、激しく振動しながら着信を告げている。
画面に表示された名前は「崎島健吾」。
サキシマ重工の社長、その人からだった。
「こんな時間に崎島社長から?」
翔太は思わず眉をひそめた。
サキシマ重工の社員ではない自分が、崎島社長と直接連絡を取り合うことは減っていた。
サキシマロケット3号機に関わった縁、何よりも、アーベルという特異な存在を崎島社長が知って以来、社長はアーベルの正体を優れた技術者と思っており、アーベルと直接やり取りをしているはずであった。
こんな夜更けに自分へ電話があるなど、尋常ではない。
胸騒ぎを覚えながら、翔太は通話ボタンを押した。
「もしもし、高橋です」
『翔太君か! 夜分に連絡して、申し訳ない! 緊急事態だ!』
スピーカーから飛び込んできた崎島社長の声は、鋼を叩くような硬さと、抑えきれない焦燥を含んでいた。
その声だけで、画面の向こうで起きているであろう
異常事態の深刻さが翔太に伝わってくる。
「社長、どうかなさったんですか? 」
『ニュースは見ているかね、月だ! 月のゲートウェイで、未曾有の大事故が発生した! つい先ほどまで国際緊急会議が開かれていたが……結論から言えば、救出は絶望的だ。各国とも、事実上、匙を投げた』
崎島社長の言葉は、簡潔でありながら、衝撃を翔太に与えた。
ニュースでやっていた会議では救出が絶望的と結論が出てしまったらしい。
「そんな……ゲートウェイには、あのミナさんたちが乗ってる……」
翔太の脳裏に、テレビで幾度となく見たJAXAの宇宙飛行士、ミナ・サトウの快活な笑顔が浮かんだ。
『そうだ。クルー4名の命が、今、風前の灯火なんだ。そして……恥を忍んで頼む。翔太君、アーベル君、君達の力と知識が必要なんだ。あの時のように……!』
“あの時”。
崎島社長が翔太達の……いや、アーベルの持つ、その計り知れない能力を知るきっかけとなったサキシマロケット3号機の製造と打ち上げ。
『HTV-Yだ。次世代補給機を、緊急救出用に改造して月へ送りたい。だが、課題が山積している。まず、サキシマ3号機では、月軌道までに必要な推力が足りない。そして、HTV-Y本体も、月周辺に無数に飛散している高エネルギーデブリを回避し、損傷したゲートウェイに安全にドッキングできるような能力は、今のままでは皆無だ』
崎島社長は、立て板に水のごとく技術的な問題点を並べ立てる。
だが、その声の奥には、諦めとは異なる、最後の可能性に賭ける者の熱が籠っていた。
翔太は一瞬、言葉を失った。
脳裏に、HPRエンジンの複雑な設計図が明滅する。
ふと思う。
もしサキシマロケットの往還能力に使われる全ての燃料を月に向かうことに使えば。
(HPRエンジンなら月にいけるかもしれない。いや、デブリ回避、自律ドッキング……どれもこれも、現代の技術じゃ……でも、もしアーベルの知識が加われば……)
電話の向こうで、崎島社長が息を整えるのが分かった。
『詳細は追って伝える。まずは……アーベル君に相談してくれ。彼女が首を縦に振らなければ、この話は始まらん』
「……分かりました。すぐにアーベルと話をしてみます」
翔太は、重い声で答えるのが精一杯だった。
通話を終えた翔太は、スマートフォンの画面を呆然と見つめた。
数分前までのやっと落ち着いた日常が、まるで嘘のように遠ざかっていく。
彼はゆっくりと立ち上がり、眠っているアーベルのそばに屈み込んだ。
「アーベル……起きてくれ。大変なことになった」
翔太の声に、アーベルは億劫そうに翡翠色の瞳を開けた。
寝ぼけ眼で俺を見上げ、小さく「にゃあ」と鳴く。その仕草は、どこからどう見ても普通の愛らしい子猫だ。
「どうされましたか? 翔太さん。そんなに険しい顔をして?」
その口から発せられる言葉は、しかし、猫のものではなかった。
冷静で、どこか女性っぽさも感じさせる、それでいて不思議な響きを持つ声。
翔太は、崎島社長から聞いた話を、できるだけ分かりやすくアーベルに伝えた。
月のゲートウェイで起きた大事故。
4人の宇宙飛行士の命が危険に晒されていること。そして、彼らを救うために、自分達の力が必要とされていること。
アーベルは、時折耳をぴくりと動かすだけで、特に興味を示した様子もなく、黙って話を聞いていた。
毛繕いを始めそうな雰囲気すら漂わせている。
「……というわけなんだ。崎島社長は、サキシマロケット3号機と、お前の設計能力があれば、なんとかなるかもしれないって……」
翔太が言い終えると、アーベルは鼻を鳴らして答えた。
「HPRエンジンを搭載したサキシマロケットに固体燃料ブースターを取り付ければ、月への到達は可能です。ですが、肝心のHTV-Yが脆弱すぎます。そのままでは新たなデブリが一つ出来上がるだけです」
手厳しい評価だ。
だが、その通りなのだから反論もできない。
「それでも……何とかできないか? 人の命が掛かっているんだ」
翔太が食い下がると、アーベルは何処か興味なさそうに大きなあくびをした。
その無関心な態度に、翔太は少し苛立ちと無力感を覚える。
その時、ふと、崎島社長が電話の最後に付け加えた言葉を思い出した。
「そうだ、アーベル! 社長が言ってたんだが、ゲートウェイの周りに飛んでいるデブリに、ものすごく純度の高いアルミニウム片が大量に混じってるらしい。自然界じゃ考えられないほどの純度だって。それと、月に衝突したモノは既存の観測されていた彗星やデブリとは異なる何か正体不明のデカい物体らしい、もしかしたら君に何か関わりがあるものかもしれないぞ」
その言葉を口にした瞬間、アーベルの空気が変わったのをはっきりと感じた。
今までクッションに投げ出されるようにしていた体が、ぴんと緊張を帯びる。
そして、ゆっくりと見開かれた翡翠色の瞳。
その奥に、先ほどまでの無関心とは全く異なる、鋭く知的な光が灯った。
まるで、長年探し求めていた獲物を見つけた狩人のような、あるいは難解なパズルを解く鍵を見つけた学者のような、強烈な探求の光だった。
「そのアルミニウム……解析されたデータはありますか? 衝突したとされる物体の推定質量、衝突角度、観測されたエネルギー解放のパターン、また発生したとされる電磁波やニュートリノのデータも……可能な限り詳細な情報が必要です」
初めて聞く、アーベルの強い要求だった。
声のトーンは普段と変わらないが、そこには有無を言わせぬ響きがあった。
翔太は慌ててスマートフォンを手に取り、再び崎島社長に電話を繋いだ。
アーベルの質問をそのまま伝え、社長が各方面から集めてくる断片的な情報を、右から左へとアーベルに流していく。
専門用語が飛び交う情報の奔流を、アーベルは微動だにせず聞き入っていた。
その小さな頭脳の中で、科学者たちですら持て余すであろうデータが、恐るべき速度で処理され、解析されていく。
時折、翡翠色の瞳が細められ、金属質の毛並みが微かに波打つのが見えた。
数分間続いた情報のシャワーが止み電話を切ると、地下室は再び静寂に包まれた。
アーベルは、ゆっくりと瞬きをすると、静かに、しかし絶対的な確信を持って告げた。
「間違いありません。飛来物、そして月面から舞い上がったデブリとして観測されたアルミニウム、それは自然物ではありません」
翔太はゴクリと唾を飲んだ。
「どういうことだ……? じゃあ、月にぶつかったっていうのは……」
「月に衝突したのは、私の文明の船……いえ、恐らく私のような惑星開拓船に随伴する護衛の無人戦艦の可能性が高いです。それとは別に月の人工的とも思われるアルミニウム層。これは私のようなコアが長い時間をかけて作り出した送信鏡の可能性があります」
アーベルは立ち上がり、しなやかな動きで翔太の足元に歩み寄ると、じっと俺の顔を見上げた。
その小さな体から発せられるプレッシャーは、尋常なものではなかった。
「翔太さん。私は、この救出計画に協力します」
「本当か、アーベル!」
翔太の声がうわずる。
暗闇の中に、一条の光が差し込んだようだった。
「ええ。ですが、誤解しないでください。私と貴方は銀河連盟の憲章上、不必要に地球の人間に手を貸すことは非常に危ういのです」
「ですが、地球とは異なる文明の可能性……もしかしたら私の船体に関わるかもしれないモノ。私は……月面に衝突した飛来物と、その破片を調査しなければなりません」
アーベルは一呼吸おき、言葉を紡いだ。
「一つ条件があります」
アーベルの瞳が瞬く。
「私の、この子猫の身体を月面までHTV-Yで送り込むことです」
「それが、私の協力する唯一の条件です」
アーベルはきっぱりと言い放った。
「HTV-Yに、私を乗せて月まで送り届けること。それが実行されるのなら、サキシマロケットとHTV-Yの改造に手を貸します」
翔太は呆然とアーベルを見つめた。
アーベルが月へ?
一体、彼女は何をするつもりなのか。
彼女の輝く翡翠色の瞳の奥に隠されている真意は翔太には分からなかった。
だが、薄っすらと感じ取れたのは彼女にとって、4人の人命は、謎を解き明かすためのついでに過ぎないのかもしれない、ということだった。
「……わかった」
翔太は、覚悟を決めて頷いた。
「社長に伝える。アーベルの条件も、何もかも」
アーベルは、小さく喉を鳴らした。
その音は、まるで遠い宇宙のどこかで、新たな歯車が静かに噛み合い始めた合図のようにも聞こえた。
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アーベルが紡ぎ出した言葉は、翔太の脳裏に鮮烈な光景を焼き付けた。
月に衝突した「護衛の無人戦艦」。
そして、それに呼応するように長大な時間をかけて築き上げられた「送信鏡」。
再び静寂が地下シェルターを支配する。
しかし、その静けさは、先ほどまでの穏やかな安堵のそれとは全く異なっていた。
まるで、嵐の前の静けさのように、得体のしれない重みをはらんでいる。
「アーベル……本当に、君は行くのか?」
翔太は、アーベルの小さな背中を見つめた。
子猫の姿をした宇宙船のコアは、まるで遠い星の光を見つめるかのように、翡翠色の瞳を空の一点に固定している。
「はい。私の文明が、このような形で存在を示した以上、無視するわけにはいきません。それに、量子通信が繋がらないのは非常に不自然です」
アーベルは静かに答えた。
「俺も使えるってやつか……通信を試みてみたのか?」
「ええ。微弱ながらも、衝突したとされる地点から、途絶えがちな量子通信の信号が放たれていました。それは、まさに私たちが使用していた形式のもの。しかし、その信号は、意味をなさないノイズの羅列で、まるで絶叫のようでした」
アーベルの声に、微かながらも感情の揺らぎが感じられた。
それは、普段の彼女からは想像もできないほどの、人間的な感情――痛み、あるいは深い悲しみのような響きだった。
「そのコアは、おそらく無線封鎖を行っていたのでしょう」
「無線封鎖……?」
「はい。外部からの通信を一切遮断し、自身の存在を隠蔽する、あるいは、周囲を敵と判断して一方的に拒絶する行為です。二千年前の我々が墜落するに至った原因不明の事態。その時に、彼らは私とは違う何らかの壊滅的な状況に遭遇した」
アーベルはゆっくりと瞬きをした。
その翡翠色の瞳には、二千年の時を超えた孤独と、絶望に囚われた同胞への深い理解が宿っているように見えた。
「彼らにとって、私が発する量子通信ですら、敵の探査行為と認識されているかもしれません」
翔太は息を呑んだ。
救いの手を差し伸べても、相手はそれを敵と誤認し、拒む。
まるで、深い傷を負った獣のように。
「月面に墜落したのは、その無線封鎖を行っている戦艦の残骸です。そして、月面の送信鏡は、その戦艦のコアが、かつての船体を呼び戻すために試行錯誤した……いえ、最後の希望を守るために起動したもの」
「しかし、その信号が、『暗黒森林理論』に基づいた最小限のデータ送信であり、座標を特定されにくくした情報であったがために、墜落という最悪の形で呼び寄せてしまったと私は推測しています」
アーベルは、まるで遠い過去の出来事を追体験しているかのように、静かに語った。
「月面の送信鏡は、きっと最後の瞬間まで、その戦艦からの応答を待ち望んでいたはず。しかし、ようやく起こった出来事が、墜落であったとしたら……」
アーベルは言葉を途中で切り、小さく頭を振った。
翔太は、この途方もないスケールの悲劇に、ただ立ち尽くすしかなかった。
ゲートウェイのクルーの命ももちろん重要だ。
しかし、この子猫の姿をした宇宙船のコアは、それとは全く別の次元で、二千年の時を超えた仲間を救うために動こうとしているのだ。
「私には、彼の元へ行き、彼を無線封鎖から解放し、そして……彼が何を見て、何が起こったのか、知る義務があります」
アーベルの翡翠色の瞳が、再び強い光を宿した。
その光は、探究心だけでなく、深い使命感に燃えているように見えた。
翔太は、その小さな体の中に、異なる宇宙の矜持と、途方もない時間の流れの重みが詰まっていることを改めて実感した。
この救出計画は、単にゲートウェイのクルーを助けるだけでなく、二千年前の悲劇の謎を解くものになるのだ。
「翔太さん。まずは仮眠をとってください。このプロジェクトは、これまでのどのような計画よりも、困難を極めることになるでしょう」
アーベルは翔太を見上げ、その声に揺るぎない覚悟を込めた。
翔太は、もはや躊躇うことなく、その言葉に応えるように深く頷いた。
千葉の夜は、月面を舞台にした、壮大なドラマの序章を告げていた。




