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エリックの怒声にも似た命令が、赤色灯と警報音が狂ったように明滅し鳴り響くゲートウェイ船内に木霊した。
それに被せるように感情のない合成音声アナウンスが、冷たく響き渡る。
『緊急回避マヌーバ、自動実行シーケンス開始。メイン及び補助スラスター、最大推力による緊急軌道変更を実施します。予測G、最大2.5G。全クルーは衝撃及び加速度に備えてください』
その宣告とほぼ同時に、ゲートウェイのメインコンピュータは、人間の指示を待たずに回避シーケンスを開始した。
ゲートウェイの船体各所に取り付けられたヒドラジン式の姿勢制御スラスター群が一斉に、そして船尾に搭載された緊急用の補助推進エンジンが、船内の空気を震わせた。
ゴゴゴゴゴ……ッ!という、船体全体を震わせる燃料を送り出すターボポンプの凄まじい振動と、金属が軋むような低い咆哮が、クルーたちの足元から、そして壁を通じて全身へと伝わってきた。
無重力に慣れきった身体に、突如として一方向への強烈なG(加速度)が襲いかかった。
I-HABモジュールからオリオン宇宙船へと続く通路の途中にいたミナとカルロスは、その不意打ちのGに為す術もなく、通路の「下」方向――すなわちスラスター噴射の反対側――の壁面に叩きつけられた。
「きゃあっ……!」
「うおおっ……!」
二人同時に苦悶の声が漏れる。
ミナは肩から壁に激突し、息が詰まった。
肺から空気が無理やり押し出され、視界が一瞬暗くなる。
体が鉛のように重く、まるで巨大な手に押さえつけられているかのようだ。
無重力空間での移動のためにそこかしこに設置されたハンドレールが、今は命綱だった。
ミナは必死に近くのレールを掴み、壁に押し付けられる身体を支えようとするが、指が滑りそうになる。
隣では、カルロスもまた顔を歪め、歯を食いしばって同じように耐えていた。
彼の陽気な表情は完全に消え失せ、額には脂汗が滲んでいる。
「ミナ! 大丈夫か! しっかり掴まってろ!」
Gの中でカルロスが叫ぶ。
声も重力に引かれるようにくぐもって聞こえる。
HALOモジュールでは、エリックとメイファが、それぞれのシートに体を固定する間もなく、床に押し付けられていた。
エリックは咄嗟にコマンドコンソールの縁を掴み、メイファは近くの機器ラックにしがみつく。
「最大船首上げ……ヨー軸マイナス15度補正……AIめ、無茶苦茶な機動を!」
エリックが呻くように言った。
彼の顔はGで歪み、首筋には血管が浮き出ている。
それでも、その目は鋭くコンソールの表示を追い、ステーションの状況を把握しようと努めていた。
「凄い勢いで燃料が! 加速終了まで4秒!!」
メイファもまた、途切れ途切れの声で報告する。
普段は軽快な彼女の指も、今はキーボードの上で重々しく動いている。
彼女の視界の端が、Gによって徐々に暗くなっていくグレイアウトの兆候を示し始めていた。
ゲートウェイは、生き残るために、まるで巨大な獣が身を捩るように、宇宙空間で必死の回避行動を試みていた。
船窓の外を、猛烈な勢いで星々が流れ、そして月の表面が急速に傾いていくのが見えた。
もし外部カメラの映像が見られたなら、船体のあちこちから噴き出す白いスラスター炎が、まるで宇宙空間に描かれた最後の抵抗の軌跡のように見えたことだろう。
固定されていなかった細かな備品や工具類が、船内の「床」へと一斉に落下し、甲高い音を立てる。
船体はミシミシと悲鳴を上げ、時折、どこかの構造材が限界を超えたかのような金属音が響き渡った。
数秒だったのか、あるいは数分だったのか。
時間感覚が麻痺するほどの強烈なGが続いた後、身体を押し付けていた重圧が消えた。
スラスターの振動が急速に収まり、船内には再び無重力状態が戻ってきた。
しかし、それは安堵をもたらすものではなかった。
『緊急回避マヌーバ、完了。予測された直接衝突コースの70パーセントを回避。しかし、依然として多数の高エネルギーデブリが脅威範囲内に存在。衝撃に備え……』
合成音声が、途中でノイズに掻き消されるように途切れた。
その瞬間だった。
ゴォンッ!という、先ほどのGによる振動とは比較にならない、直接的で破壊的な衝撃音が船尾方向から響き渡り、船体全体が凄まじい勢いで揺さぶられた。
最初のデブリが、回避行動の甲斐なくゲートウェイに到達したのだ。
I-HABモジュールにいたミナとカルロスは、Gから解放された直後の浮遊感の中で、再び壁や床に叩きつけられそうになるのを、必死にハンドレールを掴んでこらえた。
C&Wパネルのいくつかのランプが不規則に点滅する。
さらに一瞬、船内の主照明が落ちて予備灯に切り替わる。
火花がどこかの配線盤から散ったのが見えた。
「くそっ!第一波だ! 次が来るぞ!!」
エリックが悪態をついた。
間髪入れず、第二、第三の衝撃が、船体の異なる箇所を襲う。
それはまるで、目に見えない巨人がステーションを掴んで激しく揺さぶっているかのようだった。
ミナは直径50センチほどの円窓チラリと見た。
先ほどまで漆黒だった宇宙空間は、月の破片――大小様々の岩塊や金属片らしきものが、恐ろしい速度で飛び交う死の領域へと変貌していた。
時折、それらが太陽光を反射してキラリと光り、次の瞬間にはステーションの船壁に激突し、目映い閃光と新たな破片を撒き散らす。
「カルロス、ミナ! 状況は絶望的だ! 最寄りのオリオンへ向かえ! ドッキングポート・アルファの気密を最優先で確保し、オリオンをシェルターとして起動しろ!」
HALOモジュールからエリックの冷静だが切迫した指示が飛ぶ。
「メイファ、私と共にHALOのコマンドコアへ! 船全体の状況把握とダメージコントロールの指揮を執る! 生き残るぞ!」
「了解!」
ミナは叫び、カルロスと視線を交わした。
彼もまた、額に汗を滲ませながら力強く頷いた。
二人はI-HABから、オリオン宇宙船がドッキングしている船首方向の接続ノードへと向かう。
しかし、通路は既に地獄絵図だった。
いくつかの内壁パネルが歪んで剥がれかかり、配線が垂れ下がり火花を散らしている。
断熱材の破片が宙を漂い、呼吸するたびに焦げ臭い匂いが鼻をついた。
時折、船体が軋む嫌な音が響き渡る。
「こいつはヤバいぜ、ミナ! まるで戦場だ!」
カルロスが叫びながら、障害物を避け、ミナを先導する。
ようやくドッキングポート・アルファに辿り着いた時、オリオン宇宙船のハッチはまだ緑のランプを灯していた。
しかし、そのすぐ隣の船窓には、蜘蛛の巣のような亀裂が走っている。
二人は急いでオリオン船内に入り、カルロスがハッチの緊急手動ロックを操作した。
ガチャン、という重々しい音と共に、オリオンの気密が確保される。
「オリオンのシステム起動! ゲートウェイからの電力供給は不安定だ、内部バッテリーに切り替える!」
カルロスが操縦席で手際よくスイッチを操作する。オリオンの計器盤が次々と生命を宿したように点灯し始めた。
ミナは副操縦席で、オリオンのセンサーを使い、外部の状況とゲートウェイ本体の損傷状況の把握を試みた。
その頃、エリックとメイファは、HALOモジュールのさらに奥、厚い複合装甲で守られたコマンドコアに到達していた。
そこはゲートウェイの頭脳であり、心臓部だ。
しかし、その頭脳もまた、深刻なダメージを受けていた。
「メインパワーグリッド、30パーセントダウン! 太陽光パネルアレイ、セクター1から4まで全損! セクター5、6も出力大幅低下!」
メイファが悲鳴に近い声で報告する。
彼女の指は、震えながらも正確にキーボードを叩き、次々と表示されるダメージレポートを処理していく。
「LM(補給モジュール)、PPE(電気推進エレメント)、気密漏れ発生! 自動隔壁閉鎖シーケンス、作動中です!」
「メイン通信アレイ大破! Sバンド、Xバンド共にシグナルロスト! 応答なし!」
エリックは歯を食いしばりながら、次々と下される絶望的な診断結果を聞いていた。
「予備アンテナに切り替えろ! 何でもいい、地球とのリンクを確保するんだ!」
「ヒューストン、こちらゲートウェイ。深刻なデブリ衝突により、ステーションは甚大な被害を受けている……応答願う…………くそっ!」
地球との通信は、まさに風前の灯火だった。
ノイズの向こうにかすかにヒューストン管制センターの呼びかけが聞こえる気もするが、こちらの声が届いているのかどうかすら定かではない。
テレメトリデータも、大部分が欠落し、断片的にしか送信できていない。
オリオン船内では、ミナが外部センサーのデータを解析し、ある事実に気づいた。
「エリック、聞こえる!? デブリの組成……分光分析の結果、高濃度のアルミニウムが含まれているわ! 自然の隕石では考えにくいほどの純度よ!」
「アルミニウムだと? それがどうした!」
HALOからのエリックの声は、ノイズが混じっているがなんとか聞き取れる。
「アルミニウムは電波を強く反射・吸収するの! この大量のアルミニウム片が、私たちの通信を著しく阻害しているかもしれない!」
ミナの言葉通り、ゲートウェイの周囲には、無数のアルミニウムが、まるで金属粉を撒き散らしたかのように広範囲に漂っていた。
それらが太陽光を不規則に乱反射し、キラキラと輝く美しい幕を作り出していたが、それはクルーたちの視界を奪い、さらなる電波障害を引き起こす、死のヴェールだった。
「I-HABの気密漏れ区画の完全隔離ができない! 自動バルブの一部が機能不全! 手動で閉鎖に向かえ……いや、あの区画へのアクセスルートはデブリで……!」
メイファの絶望的な声が途切れた。
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その頃――。
JAXA筑波宇宙センターとNASAヒューストン宇宙センターの管制室は、その断片的な情報から、ゲートウェイがかつてない危機的状況にあることを悟り、騒然となっていた。
「ゲートウェイからの信号が!」
「ステータスレッドの項目が多すぎるぞ!」
「何が起きているんだ! 説明しろ!」
怒号と悲鳴が飛び交っていた。
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桜にはまだ少し早い、春先の穏やかな夕暮れ時。
高橋翔太はアーベルが作り出した地下の居住区画のリビングのソファで何気なくテレビを見ていた。
ローカルニュースから、全国ネットの夕方のニュース番組に切り替わった、まさにその瞬間だった。
画面には、緊迫した表情のキャスターが映し出され、背景には月と宇宙ステーションのCG映像が 流されていた。
『――臨時ニュースです。たった今入ってきた情報によりますと、日本のJAXAも参加している国際月周回ステーション、ゲートウェイにおいて、大規模な月への隕石衝突に伴う重大な事故が発生した模様です。政府関係者によりますと、ステーションは深刻な損傷を受け、搭乗している宇宙飛行士との通信も著しく困難な状況になっているとのことです。現在、JAXA及びNASAが情報の確認と対応を急いでいますが、詳細はまだ明らかになっていません。繰り返します。月周回ステーションゲートウェイで――』
足元にいた子猫姿のアーベルが片目を開けて、ニュース画面を見る。
テレビ画面には、NASAの管制室とされる場所の、過去の資料映像だろうか、多くのスタッフがモニターに見入り、ヘッドセットで交信する様子が映し出されていた。
そして、CGで作られたゲートウェイのイメージ映像が流される。
翔太は足元にいるアーベルを見つめた。
もしかしたら彼女は、この事態になんらかのアクションを取るのではないか、と。
しかし、アーベルは開けていた片目を閉じ、再び眠るように丸くなった。
地球上の大多数の人と同じく、遠い月で起きている未曾有の危機は彼女にとっては優先すべきタスクではないように見えた。




