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ミナは呆然とI-HABのサブモニターの一つ、不吉な静けさを湛える月面が映された画面を見つめていた。
その時。
HALOモジュールにいるエリックの、状況の深刻さを瞬時に理解した鋭い声が、再びゲートウェイ全体の通信システムに響き渡った。
その声は、冷静さを保とうとする意志とは裏腹に、微かな焦燥と苦渋を滲ませていた。
「メイファ! ヤツが月面に到達するまで、あと何秒だ!?」
エリックの問いに、メイファの声は絶望的な響きを帯びて応えた。
彼女の視線は、手元のタブレットに表示されたカウントダウンタイマーと、刻一刻と月へと迫る赤い脅威のアイコンに吸い寄せられているのだろう。
「……もう、60秒を切っています! 58、57……。ゲートウェイの現在位置と軌道では、私達は……これを見ているしかない……!」
その言葉は、彼らが置かれた絶対的な無力さを突きつける宣告だった。
直径1キロメートルを超える巨大な質量が、秒速数十キロという宇宙的な速度で月面に激突する――そのエネルギーは、戦略級核兵器のそれに匹敵するか、あるいは凌駕するかもしれない。
そしてゲートウェイは、その破局的なイベントの、最も危険な特等席にいるのだ。
その絶望的なカウントダウンが続く中、エアロック前で待機していたカルロスからの、切羽詰まった声が通信に割り込んできた。
彼の声は、普段の陽気さなど微塵も感じさせず、エンジニア兼医師としての冷静な分析と、純粋な恐怖が入り混じっていた。
「おいおいおい、メイファ! それって超絶マズいんじゃないか!? 月の南極、シャクルトンクレーターのど真ん中にそんなデカいのが落ちるってことは、想像を絶する量のデブリが宇宙空間に巻き上がるってことだぞ!? 俺たちは今、まさにその真上を通過しようとしてるんだ! 下手をすりゃ、その塵芥の嵐の中に、俺たちが真正面から突っ込んじまうことになる!!」
カルロスの言葉は、ゲートウェイ内の空気を一層凍てつかせた。
彼の指摘は的確だった。
NRHO軌道に乗るゲートウェイは、月の南極近傍を低高度で通過している。
隕石衝突による噴出物は、月の僅かな重力を振り切って高速で宇宙空間へ飛散し、それはまさにゲートウェイの航路上に巨大な障害物コースを形成することを意味していた。
そのカルロスの警告じみた叫び声がまだヘッドセットに生々しく響いているか、いないかの瞬間――運命の時は訪れた。
ミナは、モニター越しに、その全てを見ていた。
月面の、シャクルトンクレーターの中心部が、何の予兆もなく、突如として眩い閃光を発した。
それは、まるで巨大なマグネシウムを一気に燃焼させたかのような、目を焼くほどの純粋な白色光だった。
一瞬、月の南極全体が白く染まり、ゲートウェイ船内までその強烈な光が差し込んできた。
ミナは思わず片手で顔を覆った。
ほんの数秒、あるいはそれ以下の時間だったかもしれない。
絶対的な静寂が支配した。
音が存在しない宇宙空間では当然のことだが、その静寂はあまりにも濃密で、まるで時間そのものが停止したかのような錯覚さえ覚えた。
そして、次の瞬間。
閃光の中心から、まるで宇宙の法則が書き換えられたかのような、異様な光景が展開された。
スローモーション映像を見ているかのように、膨大な量の白い粉塵――月面のレゴリス――が、巨大なドーム状に、しかし恐ろしいほどの速度で宇宙空間へと噴き上がったのだ。
それはまるで、冬の宙へ月自身が深いため息を吐き出したかのようだった。
その白い噴煙の内部からは、白銀に輝く金属を含んだ赤黒い、あるいは濃紺にも見える岩石の破片が無数に、大小様々なサイズで、まるで怒りの葡萄弾のように四方八方へと撒き散らされていく。
それは、月の深部から抉り出された、太古の記憶を宿す物質かもしれない。
その黙示録的な光景は、恐ろしいほどに美しく、そして絶望的だった。
ミナは息をのんだまま、身動き一つできなかった。
彼女の地質学者としての知性が、あの赤黒い破片はマントル由来のカンラン岩か、あるいは存在しないとされていたボーキサイトのようなものではないかと分析しようとする一方で、本能はただ、目の前の圧倒的な破壊のスペクタクルに打ち震えていた。
あの場所に眠っていたはずの、自分が探っていた謎の層構造は、この瞬間、跡形もなく消し飛んだのか、それとも……。
その壮絶な光景にクルー全員が魂を奪われていた、ほんの数秒間の後。
ゲートウェイのメインコンピュータが、迫りくる危機を自動的に判断した。
船内各所に設置されたC&Wパネルが、狂ったように激しい点滅を開始し、壁面、そしてクルーたちの蒼白な顔を、不気味な赤色で染め上げた。
同時に、耳をつんざくようなけたたましいアラート音が、ゲートウェイの隅々まで響き渡った。
それは、連続的なビープ音と、低く唸るような警鐘が不協和音を奏でる、聞く者の神経を逆撫でするような音だった。
そして、その混乱の極みに、冷静で感情のない合成音声アナウンスが、まるでさらなる悪夢の始まりを告げるかのように、はっきりと響き渡った。
『警告。高速度デブリ群、急速接近中。ゲートウェイ船体への衝突予測コース、多数確認。衝撃予測時刻まで、残り120秒。全クルーは直ちにHALO、又はオリオン宇宙船へ退避してください。繰り返します。高速デブリ群、急速接近中。全クルーは直ちにHALO、オリオン宇宙船へ退避してください』
そのアナウンスは、ゲートウェイが誇る多重防護壁と宇宙塵シールドをもってしても、迫りくるデブリの嵐を防ぎきれない可能性が高いことを示唆していた。
《HALO》は、ゲートウェイ中央部の最も強固な区画だ。各種生存に必要なモジュール全てがそこに存在している。
オリオン宇宙船はこのゲートウェイの脱出艇だ。
そこへ誘導するということは、このゲートウェイそのものが深刻な危機に瀕していることを意味する。
ミナは、モニターの光景から目を離せないでいた。
先ほどの巨大な隕石が月面に穿ったであろう、まだ全貌すら見えない巨大なクレーターからは、今この瞬間も、まるで火山が噴火し続けるかのように、無数の大小さまざまな破片が、恐ろしいほどのエネルギーをもって宇宙空間へと連続的に射出され続けていた。
それは、もはや「デブリ」という言葉では生易しい、宇宙空間を埋め尽くさんばかりの「破片の弾幕」だった。
そしてその弾幕は、確実に、そして急速に、ゲートウェイのいる空間へと拡散し、迫ってきていた。
それはまるで、怒り狂った月が放った無数の槍が、自分たちを串刺しにせんと襲いかかってくるかのようだった。
「総員、退避開始!急げ!」
エリックの怒声にも似た命令が、赤色灯と警報音が支配する船内に響き渡った。




