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月の影。
それは太陽の光が届かぬ領域に広がる、深淵の世界。
地球が反射する淡く仄かな青白い光だけが、クレーターの起伏を幽玄に照らし出し、広大な灰色の地表に幻想的な陰影を投げかけていた。
その月面から遥か上空1500km。
月軌道プラットフォーム《ゲートウェイ》は、人類が築いた宇宙への新たな橋頭堡として、静寂を保ちながら移動していた。
この宇宙ステーションは、約6.2日の周期で月の北極と南極の近傍を通過する、極端に細長い楕円軌道「NRHO(Near Rectilinear Halo Orbit:ほぼ直線に近いハロー軌道)」を巡っている。
地球と月のラグランジュポイントL1とL2を利用したこの特異な軌道は、月へのアクセスを容易にし、かつ地球との常時通信をほぼ可能にする戦略的な選択だった。
現在位置は近月点。
月面に最も近づき、搭載された各種センサー群が最も高解像度のデータを取得できる、科学者たちにとって垂涎の瞬間である。
ゲートウェイの船内、《I-HAB》(国際居住モジュール)の一角にある地質学ラボセクション。
壁面いっぱいに広がる多目的ディスプレイには、月の南極域から送られてくる地下レーダーのデータが、幾重にも重なる複雑な波形としてリアルタイムで描画されていた。
計器の最終調整シーケンスを終えたミナ・サトウは、ふう、と細く息を吐いた。
無重力環境で彼女の艶やかな黒髪が、意志を持った生き物のようにふわりと柔らかく宙に漂う。
ふと視線を上げた先、ラボの片隅に設けられた直径50センチほどの円窓――強靭な多層ポリカーボネートと石英ガラスで幾重にも保護された覗き窓――の外には、息をのむほどに美しい地球が、宇宙の漆黒を背景に鮮やかに浮かんでいた。
渦巻く雲の白、広大な海の藍、そして大陸の緑と茶が織りなす、生命の奇跡を凝縮した青い宝石。
その姿は、遥か38万キロ彼方から見てもなお、圧倒的な存在感を放っていた。
「地球は……やはり、格別ね」
小さな呟きは、高効率空気循環システムの連続的なハミング音に吸い込まれるように消えた。
このI-HABモジュールは、ESA(欧州宇宙機関)とJAXA(宇宙航空研究開発機構)が共同開発した居住区画で、HALO(Habitation and Logistics Outpost:居住・補給モジュール)と共にゲートウェイの生活空間の中核を成していた。
内部は与圧され、温度も摂氏22度に保たれており、クルーは薄手のフライトスーツで活動できる。壁面はオフホワイトの制振・断熱パネルで覆われ、所々に機器の点検ハッチや、姿勢維持用のハンドレールが取り付けられている。
感嘆のため息をもう一度静かに漏らした後、ミナは再び視線を手元のメインコンソールに戻した。
彼女の専門は惑星地質学、特に氷と地下構造の分析だ。
今、彼女の全神経は、月の南極、シャクルトンクレーター近傍の永久影に向けた広帯域地下レーダーの最新データに集中していた。
太陽光が数十億年間一度も射したことのないこの極寒の領域には、大量の氷が水資源として存在する可能性が示唆されており、将来の月面基地建設の鍵を握ると期待されている。
表示された反射波形の一部に、通常とは異なる微細だが明確な乱れが生じている。
まるで静謐な水面に投じられた小石が作る波紋のように、それは周囲のデータとは異質なパターンを示していた。
「この反射強度……金属質の鉱床? それとも、予想以上に純度の高い氷の層かしら……」
ミナは細い指でタッチパネルを操作し、問題の箇所を拡大表示する。
データを多角的に解析するため、他のセンサー、中性子スペクトロメーターや赤外線カメラのデータともクロスリファレンスを試みる。
永久影の極低温環境と推定される深度からすれば、天然の氷の存在は十分に考えられる。
しかし、この反射パターンは、これまで蓄積されたシミュレーションデータや、過去の探査ミッションで得られた間接的な証拠とは、どこか決定的に異なる様相を呈していた。
「またか? 今回のデータもノイズが多いな。センサーのキャリブレーションにズレが生じているのかもしれん」
背後から、落ち着き払った、しかし若干の疲労を滲ませたバリトンが響いた。
振り返ると、腕を組み、わずかに眉を寄せたエリック・マーティンが、ミナの背後からディスプレイを覗き込んでいた。
NASAのベテラン宇宙飛行士であり、このアルテミス計画におけるゲートウェイ運用フェーズⅥのミッションコマンダーだ。
その無駄なく統率された動きと、感情を容易には読み取らせない静かな灰色の眼差しは、彼が過去に月往還ミッションを含む数々の困難な宇宙飛行を経験してきたことを物語っていた。
「この温度帯と深度から推定すると、天然の氷である可能性は依然として高いです。ですが、エリック……この層構造が、妙に薄すぎるんです。もし大規模な氷床ならば、もっと広範囲に、厚みを持って連続しているはずなのに」
ミナは指でディスプレイ上の一点をなぞりながら、自身の分析を述べた。
彼女の声には、科学者としての純粋な探求心と、微かな当惑が混じっていた。
「前回のスキャンポイントとは座標が数キロメートル異なっている。月の地下構造は均一じゃない。地形の影響や地殻の不均質性で、こういうデータが出ることもあるだろう」
エリックは肩を軽くすくめてみせた。
「結局はサンプルリターンで現物を持ち帰って分析するまでは、どれも推測の域を出ない。あまり一つの可能性に固執しないことだ、ミナ」
彼の言葉は、指揮官としての冷静な判断であり、経験に裏打ちされた現実的な指摘だった。
しかし、ミナの地質学者としての直感が、この微細なデータの揺らぎの奥に、何か本質的に重要な、あるいは予期せぬ発見が隠されているのではないかと強く訴えかけていた。
それは、長年この分野に携わってきた者だけが感じ取れる、パズルの最後のピースが見つかる直前のような、独特の予感だった。
「また二人で難しい顔しちゃって! 月の女神様はそんなに気難しいお方なのかな、ミナ?」
陽気でリズミカルな声と共に、カルロス・フレイタスがモジュールの隔壁を蹴って、軽やかに宙を舞いながら現れた。
ブラジル宇宙機関からの派遣クルーである彼は、航空宇宙工学の博士号を持つエンジニアでありながら、宇宙医学の専門医でもあるという稀有な才能の持ち主だ。
そのラテン系らしい屈託のない笑顔と、常に周囲を明るくするジョークのセンスで、ゲートウェイ内の閉鎖環境が生み出しがちな心理的ストレスを和らげるムードメーカー的存在だった。
しかし、その陽気な仮面の下には、鋭い知性と、緊急時には誰よりも冷静かつ的確な対応を見せるプロフェッショナリズムが隠されている。
カルロスはミナの隣に器用に体勢を安定させると、興味深そうにディスプレイを覗き込んだ。
「おや、これはまた興味深いシグナルだね。月のお姫様が、僕らに何か秘密のメッセージでも送ってるのかな? それとも、ついに伝説のモノリス発見とか?」
彼は悪戯っぽく片目をつぶった。
「ノイズか、未知の構造か……今のところ判別不能よ、カルロス」
ミナは苦笑を浮かべた。
「それより、船体外部に取り付けた宇宙塵カウンターの定期メンテナンス、そろそろ時間じゃないかしら?」
「ご名答! さすが地質学者は記憶力も抜群だね、ミナ。僕のタスクリストまで完璧に把握済みとは恐れ入るよ。ちょっと船外活動(EVA)の準備をしてくる。月の裏側で太陽風のシャワーでも浴びて、リフレッシュしてくるかな。あ、もちろんジョークさ、エリックに怒られちゃうからね!」
ウィンクを一つ残し、カルロスは再び壁を蹴って、巧みな身のこなしでエアロックモジュールがある船首方向へと消えていく。
彼の存在は、張り詰めた研究の合間に、心地よい一陣の風を送り込んでくれるようだった。
ゲートウェイの生命維持システムが発する低周波の作動音だけが、再びラボを満たす。
ミナが改めてデータに意識を集中させようとした、その時。
メインラボの奥、天体物理観測セクションに設けられた専用ワークステーションから、静かで透き通るような声がした。
「月の内部構造も複雑で魅力的ですけど、その月を照らす星々、さらにその奥にある深宇宙の構造もまた、私たちを飽きさせることがありませんね」
声の主は、リウ・メイファ。
中国国家航天局から派遣された若き女性天体物理学者だ。
彼女はゲートウェイに搭載された広域宇宙望遠鏡やガンマ線バースト検出器など、各種観測機器の運用管理を一手に担っている。
黒髪を無重力下でも邪魔にならないようシニヨンにまとめ、フレームレスのAR眼鏡の奥の瞳は、常に遠い宇宙の神秘に向けられているようだった。
彼女のコンソールには、月面ではなく、さらに遥か彼方の銀河や星雲から届く微弱な電波やX線のデータが、色分けされたイメージとして表示されていた。
「メイファさん、何か新しい発見がありましたか?」
ミナは、自身の研究とは異なる分野への敬意を込めて尋ねた。
「いいえ、まだ確定的なものではありません。でも、先日捉えた高速電波バースト(FRB)の発生源候補を、数個の銀河まで絞り込んでいるところです。もしこれが本当に中性子星同士の合体現象によるものだとしたら、宇宙の膨張速度や重力波の研究に新たな知見をもたらすかもしれません」
そう語るメイファの瞳は、まるで夜空に輝く星々そのもののように、知的な探求心とロマンティシズムの光を宿していた。
彼女にとって、このステーションは宇宙のさらなる深淵を覗き込むための、かけがえのない観測プラットフォームなのだった。
ゲートウェイのこのユニークなNRHO軌道は、地球の電磁ノイズの影響を受けにくく、月による掩蔽(近いほうの天体が大きく見え、遠いほうの天体を完全に隠してしまう)を利用した観測も可能にするため、彼女のような天体物理学者にとっては理想的な環境を提供していた。
それぞれの専門分野と、人類の宇宙への進出という共通の大きな使命を胸に抱きながら、国籍も背景も異なる四人のクルーは、月の周回軌道上で濃密な日常を紡いでいく。
ミナは再び、目の前のデータに向き直った。
エリックの現実的な指摘はもっともだ。
軽々に結論を出すべきではない。
だが、あの青く美しい故郷、地球から遠く隔たったこの孤独な前哨基地で、未知なるものへの尽きない探求心と、科学者としての矜持だけが、彼女を力強く突き動かす原動力だった。
ふと、故郷の日本のことを思う。
働き者だった父、心配性の母、そして、些細なことから生じたわだかまりを抱えたままの妹。
地球を離れてからの方が、不思議と家族のことを考える時間が増えたような気がする。
このミッションを無事に終えて帰還したら、素直に話せるだろうか。
そんなセンチメンタルな思いが、一瞬だけミナの脳裏をよぎる。
しかし、彼女はすぐに首を振り、意識を目の前の複雑なデータパターンへと引き戻した。
この月の地下深くに眠るものが何であれ、それを見つけ出し、人類の知の領域を少しでも広げること。
それが今、ここにいる自分の、そして仲間たちの使命なのだから。
月の影は依然として深く、地球の反射光は、変わらずゲートウェイとその勇敢なクルーたちを静かに照らし続けていた。
ゲートウェイの内部では、生命維持システムの呼吸のような音が鼓動を刻んでいた。