7-3
午後の陽光が、翔太の家の縁側を琥珀色に染め上げていた。
祖父から受け継いだ古民家は、新緑の庭に囲まれ、都会の喧騒とは無縁の静けさに包まれている。
数週間前に経験した「終末の光」による襲撃が、まるで遠い悪夢だったかのように錯覚するほどの穏やかな時間だった。
アーベルの作り出した地下の居住空間で暮らせるようにはなったが、やはりのんびりするときは縁側がいい。
翔太は、飲みかけのコーヒーカップを畳の上に置き、庭に目を細めた。
小鳥のさえずりが、縁側の風鈴の涼やかな音色と溶け合っている。
彼の左手首には、艶消しシルバーのシンプルなバングルが、まるで長年連れ添ったアクセサリーのように馴染んでいた。
それが、傍らで微睡む黒猫――アーベルによって提供された《パーソナル・プロテクティブ・ギア》であることを、今の彼らの日常を知る者以外には想像もつかないだろう。
足元では、まるで陽だまりを求めて移動してきたかのように、黒く艶やかな子猫が丸くなっていた。
その毛並みは陽光を吸い込むように深く、ナノマシンの集合体であることを知らなければ毛並みの良い子猫にしか見えない。
しかし、この子猫こそが、ナノマシンを用いて自らのために作り出した仮の身体を持つ、宇宙を航行する高度な知性を持つ宇宙船のコアだった。
「襲撃があったことが嘘みたいに平和ね」
涼子が、隣で同じように庭を眺めながら、穏やかな声で言った。
彼女の右手首にも、翔太と同じデザインのバングルがきらめいている。
その声に、翔太も静かに頷いた。
「ああ。でも、この平和が当たり前じゃないってことを、俺たちは知ってしまったからな」
手首のバングルにそっと触れる。
ひんやりとした金属の感触が、確かな守りの存在を伝えてくる。
「そういえば、兄貴と由美さんはどうしてるの? ギアの性能テスト、今日やるって言ってたような」
涼子が話題を変えると、アーベルがゆっくりと目を開いた。
その瞳は深い翡翠色で、子猫のものとは思えぬほどの知性を湛えている。
「はい、涼子さん。仁さんと由美さんは、現在地下テスト施設にて《パーソナル・プロテクティブ・ギア》の性能検証試験を実施されております」
アーベルの声は、その愛らしい姿とは裏腹に、落ち着いた女性アンドロイドのような合成音声で答えた。
「兄貴、アーベルから提供されたこのギアの性能に、研究者として純粋に興味津々だったものね。『一体どれほどのものなのか、この手で徹底的に確かめたい』って、息巻いていたわ」
涼子は微笑ましそうに言った。
翔太も、研究者としての探究心が抑えきれない仁の姿を思い浮かべて苦笑した
二人はたわいもない冗談を言い合い、時折笑い声を響かせた。
それは、以前のような、何も心配事のなかった頃の日常が戻ってきたかのような錯覚を覚えさせる時間だった。
その時だった。
「警告。未登録車両接近。現在スキャン中です」
丸くなっていたアーベルが、ピクリと耳を立て、翡翠色の瞳を鋭く細めた。
その声は冷静さを保ちつつも、明確な警戒を含んでいた。
翔太と涼子の表情が一瞬で強張る。
縁側の穏やかな空気は、見えない刃に切り裂かれたように緊張をはらんだ。
翔太は立ち上がりかけ、涼子は息をのんだ。
庭の外、古民家を囲む生垣の向こうから、低いエンジン音が近づいてくるのが微かに聞こえる。
翔太の視線が鋭く庭の入り口に向けられる。
涼子もまた、不安げにその方向を見つめた。
黒猫のアーベルは、低い姿勢で生垣の方を睨み、その小さな身体に似合わぬ緊張感を漂わせている。
数秒が永遠のように感じられた後、エンジン音は家の前を通り過ぎ、やがて遠ざかっていった。
「……《車両通過を確認。脅威レベルは低いと判断いたします。該当車両の情報は記録し、監視対象といたします》」
アーベルがふぅ、と息を吐くような仕草を見せると、二人は同時に詰めていた息を吐き出した。
「……ただの通りすがり、か」
翔太は呟き、ゆっくりと腰を下ろした。
だが、一度高鳴った心臓は、まだ静かに速鐘を打っている。
カップを持ち上げようとした指先が、微かに震えていることに気づき、自嘲気味に笑った。
「駄目だ。すっかり臆病になってしまったよ」
「仕方ないわよ……あのようなことがあったんだし」
涼子の声も、まだ少し硬い。
彼女は自分の膝をぎゅっと握りしめていた。
窓の外は変わらず平和な午後が続いている。
しかし、彼らの心の中には、「終末の光」が刻みつけた警戒心が、消えることなく深く根を下ろしていた。
それは、穏やかな水面下に潜む、見えない棘のようなものだった。
この束の間の平和が、いかに脆く、貴重なものであるかを、彼らは嫌というほど知ってしまったのだ。
---
同時刻。
翔太の家から離れた裏山の地下深く、アーベルが用意したテスト施設では、全く異なる空気が支配していた。
冷たいコンクリートの壁に囲まれた広大な空間。
高い天井には等間隔に照明が埋め込まれ、人工的な光が隅々まで照らし出している。
そこには、仁と由美、そして彼らの活動をモニタリングするアーベル本体からの指示があった。
「仁、準備はいい?」
由美が少し離れた場所から声をかけた。
彼女の声は、緊張と、目の前の未知のテクノロジーに対する純粋な学術的興味が入り混じった響きを持っていた。
仁は、その声に頷きで応えた。
彼の左手首には、翔太や涼子が着けているものと同じ、シンプルなデザインの銀色のバングルが装着されていた。
これはアーベルが彼らに提供した、個人用防護装置だ。
由美も同じものを左手首に着けている。
研究者である彼らは、このオーバーテクノロジーとしか思えないギアの原理や限界性能を少しでも解明し、人類の資産として理解を深めるために、アーベルに願い出てこのテストの機会を得たのだ。
《仁さん、準備が整い次第、ギアを起動してください。バングル中央部を軽くタップしてください》
アーベルの冷静な声が、施設内にクリアに響き渡った。
仁は深呼吸を一つし、銀色のバングルを見つめた。
「さて、アーベル君から与えられたこの未知の力、徹底的に検証させてもらおうか」
独りごち、その中央を指先で軽くタップした。
その瞬間、バングルから微かな起動音と共に、ナノマシンの群れが霧のように噴出した。
それはまるで銀色の粒子が意思を持ったかのように、瞬時に仁の全身へと広がり、彼の体表を覆っていく。
数秒後、仁の身体は薄い光の膜のような、液体金属に包まれた。
彼の身体のラインにぴったりと追従し、まるで第二の皮膚のようにフィットしている。
そして、その膜は溶け込むように透明になっていき、完全に衣服や肌の色に同化した。
《展開を確認いたしました。エネルギー循環、安定しております》
アーベルが報告する。
由美は真剣な眼差しでその様子を観察し、手元の端末にデータを記録していく。
この現象自体、現代科学の常識を覆すものだ。
「驚異的です。一体どのような原理でこれほど均一かつ迅速に……」
感嘆の声を漏らす由美。
《体表への追従性も問題ないようです。仁さん、身体を動かして、装置が動作を阻害しないかご確認ください》
アーベルの指示に従い、仁はゆっくりと腕を上げ下げし、肩を回し、軽く屈伸運動を試みた。
フィールドは彼の動きに合わせて滑らかに変化し、一切の抵抗を感じさせない。
「特に違和感はないな。何も着ていないみたいだ。この追従性……驚くべきだ。まるで身体の一部だ」
仁は自身の身体を確かめるように数度パンチやキックの動作をしてみせたが、その動きは普段と何ら変わりない。
《では、運動エネルギー拡散フィールドの性能テストを開始いたします。まずは低威力の非致傷性弾から。小型ドローンより発射いたします》
アーベルの言葉と共に、施設の天井近くに待機していた数機の小型ドローンの一機が起動し、滑るように仁の前方へと移動した。
ドローンの先端に取り付けられた小型銃口が、静かに仁の胸部を狙う。
緊張が走る。
由美は記録を続けながらも、仁の様子を注意深く見守る。
ドローンから「シュッ」という短い発射音と共に、小さな弾丸が射出された。
それは目にも止まらぬ速さで仁へと迫る。
仁の身体に衝撃が到達する、まさにその寸前。
彼を覆うエネルギー拡散フィールドの胸部が局所的に輝きを増した。
まるで盾が展開されたかのように、フィールドが弾丸の運動エネルギーを瞬時に拡散し、吸収する。
「…っ!」
仁は身構えたが、実際に身体に伝わってきた衝撃は、全くない。
「すごい…。これがアーベル君のテクノロジーか…。翔太君は、こんなものを日常的に使っているというのか」
仁は興奮を隠せない様子で、自分の胸元に触れた。フィールドは変わらず淡い光を失い、すぐに透明へと戻った。
《次に、9ミリパラベラム弾相当のエネルギーを照射いたします》
アーベルは淡々とテストを続行する。
再びドローンが発射態勢に入る。
先ほどよりも明らかに重々しい発射音が響き、弾丸が仁の胸部目掛けて飛来した。
今度は、フィールドが一瞬、先ほどより強い燐光を発した。
仁の身体がわずかに揺らぐ。
しかし、それは発砲音に驚いて仰け反っただけだった。
「くっ……こないだのことがあるから体が反射してしまう。でも、ダメージは皆無、衝撃もない。このエネルギー吸収効率は驚異的だ」
仁は冷静に分析しつつも、その声には隠せない興奮があった。
由美が安堵の息を漏らしたのが聞こえた。
「では、次が本番でございます。ライフル弾相当のエネルギーでテストいたします。衝撃は格段に上がります。十分ご注意くださいませ」
アーベルの声に、仁はゴクリと喉を鳴らした。
「ああ、これほどのエネルギーをどう処理するのか、是非見せてもらおう」
挑戦的な笑みを浮かべる。
ドローンの銃口が、より大きなものに換装されるのが見えた。
一瞬の静寂。
そして、鼓膜を叩くような鋭い発射音と共に、弾丸が火花を散らして射出された。
仁の目の前で、フィールドがこれまでで最も激しい光を放った。
閃光が、フィールドの表面を一瞬白く染め上げる。
「ぐっ…!」
仁は衝撃で数歩後退し、思わず呻き声を上げた。 フィールドは激しく発光し、貫通こそされていないものの、その表面にはナノマシンが集中しエネルギーを拡散している模様が見える。
「さすがに、これは堪える! 普通に怖い!!」
息を整えながら仁が言った。顔には汗が滲んでいる。
「でも、防ぎきってる。フィールドが貫通する様子はない。アーベル君、このレベルの衝撃に対し、フィールドの減衰限界は何発と予測されるんだい?」
《現在のフィールド強度であれば、ライフル弾級の衝撃に対しまして、連続的な被弾でおおよそ1000発程度でフィールドの減衰効果が臨界点を迎え、機能不全に陥る可能性がございます。もちろん、一撃のエネルギー量やフィールドの回復時間を考慮すれば変動いたしますが、これは安全マージンを含んだ数値でございます》
「1000発……なるほど。無敵というわけではありませんが、これだけの防御力があれば……」
仁は満足そうに頷いた。
この技術の一端でも理解できれば、人類にとって大きな進歩になるだろう。
その後も、通信機能のテストや、環境を一定に保つ生命維持システムの簡易的な動作確認などが行われた。それらは全て驚異的な性能を示した。
テストの合間、一段落して緊張が少し和らいだ時、由美がぽつりと漏らした。
「本当に素晴らしい技術ですし、これ以上ないお守りですけれど……。こうして常にアーベルちゃんにバイタルや行動データを送っていると思うと、少し落ち着かない気持ちになるのは何故でしょうね」
彼女は自分の手首のバングルを見つめながら言った。
それは、最先端技術の恩恵を受けることへの、ある種の代償を示唆しているようだった。
仁も頷き、苦笑を浮かべる。
「まあ、安心感と安全のためには必要なトレードオフさ。でも、この情報がどのように扱われるのか、ちょっと気になるかも」
すると、アーベルが冷静に説明を加えた。
《装着者様のプライバシーは最大限尊重されます。収集されますのは、あくまで戦闘時の記録、バイタルデータ、および生命維持に必要な環境情報のみでございます。個人的な会話や思考パターンなどが記録・送信されることは決してございません。これはわたくしのコアプログラムにおける絶対的な倫理規定です。ご安心ください》
その声は、どこまでもフラットで、感情を読み取ることは難しい。
だが、その言葉が真実であることを、仁も由美も信じるしかなかった。
そして、そうあってほしいと強く願った。
---
翔太たちの足元で、子猫のアーベルは、表向きにはのどかに日向ぼっこをしているように見えたが、その艶やかな黒毛の下では、ナノマシンが絶えず微細な調整を行い、膨大な処理を続けていた。
そのエメラルド色の瞳の奥では、プシケの新拠点建設を遠隔で指揮する情報が明滅していた。
工作機のナノマシンから送られてくるリアルタイム映像、複雑な三次元設計図、資材の確保状況を示すグラフ、配置図などが、彼女の意識の中を高速で駆け巡る。
その時、地上からの呼びかけが彼女の処理系に割り込んだ。
「そういえばアーベル、サキシマ重工に納入する部品の加工は終了しておりましたか?」
翔太の声だ。
日常的な、軽い問いかけ。
普段なら、アーベルは即座に正確な情報を提示するはずだった。
しかし――。
「……」
数秒の沈黙。黒猫は動かず、ただ虚空を一点に見つめているかのようだった。
その完璧な毛並みが、ほんのわずかに波打ったように見えた。
「アーベル?」
翔太が訝しむような声を上げる。
傍らの涼子も、心配そうに子猫を見た。
「……申し訳ございません、翔太さん。処理すべきデータが増大しており、応答が遅れました」
ハッとしたように、黒猫のアーベルが顔を上げた。
その声はいつも通り落ち着いたものだったが、どこか微かなノイズが混じり、テンポも僅かに遅いように感じられる。
翡翠色の瞳が、疲れたようにゆっくりと瞬きをした。
「大丈夫か、アーベル?」
心配そうに見つめる翔太に、アーベルは小さな頭をゆるりと振った。
そして、まるで人間が疲労を隠すかのように、ことさらに優雅な仕草で前足を揃えた。
「問題ございません。ですが、私は元来、惑星開拓船を統合管理するために設計されたコアです。そのため、本来の機能を発揮するには、広域ネットワークと莫大な演算リソースへの常時アクセスが前提となっております。現在のコアだけの状態、そしてこの愛らしい仮の身体では、情報収集能力、並列演算能力、それらに限界があります」
黒猫は、ふぅ、とごく小さな、ほとんど聞こえないため息のような呼気を漏らし、少しだけ身を縮こませた。
その姿は、どことなく悲哀を物語っているかのようだ。
「どこかに行ってしまった……私の母船の船体さえ回収できれば……。そうすれば、より多くの情報処理が可能になるのですが」
その言葉は、独り言のようでもあり、切実な願いのようでもあった。
子猫の姿から発せられるその内容は、あまりにも壮大だ。
船体――それは、アーベルが本来宿るべき場所。
彼女の真の力を発揮するための器。
翔太は、小さな黒猫の姿をしたアーベルのその言葉に、改めて彼女が置かれている状況の厳しさと、その存在の特異性、そしてその抱える問題の大きさを突きつけられた気がした。
拠点建設、ギアの運用サポート、そして「終末の光」への備え。
全てがアーベルの高度な演算能力と指揮能力に依存している。
そのアーベルが限界を露呈し始めているという事実は、彼らの未来に影を落とすものだった。
窓の外では、変わらず穏やかな陽光が降り注いでいる。
しかし、その光の裏には、見えない脅威と、頼れるはずの守護者の脆さという、二つの影が静かに忍び寄っていた。




