7-1
横浜の倉庫街を震わせた轟音と閃光、そして闇夜に現れた異形の機械蜘蛛。
あの悪夢のような光景から逃げ出して、どれほどの時間が経っただろうか。
近藤は、ひたすら走り続けた。
サイレンの音が遠ざかり、やがてそれも聞こえなくなっても、彼は足を止めなかった。
恐怖だけが彼を突き動かし、まるで背後から何かが追いかけてくるかのような強迫観念に駆られていた。
夜が明け、太陽が昇っても、近藤の逃避行は終わらなかった。
着の身着のまま、ひたすら遠くへ。
財布もスマートフォンも、チャンに奪われたままだった。
免許証も、マイナンバーカードも、銀行のキャッシュカードも、そしてパスポートも。
今の彼には、己の存在を証明するものが何一つない。
社会的な死は、もうとっくに迎えていたのかもしれない。
数日前までとは打って変わり、近藤の姿は見る影もなかった。
着古したパーカーは汚れ、埃と汗の臭いが染み付いている。
無精髭は伸び放題で、目の下には隈が深く刻まれていた。
かつて部下に指示を飛ばしていた課長の面影はどこにもない。
あるのは、ただ飢えと寒さに喘ぐ、みすぼらしい男だけだった。
最初の数日は、まだ残っていたわずかな羞恥心と恐怖心から、人目を避けるように裏通りを彷徨い、公園の水を飲んで飢えを凌いだ。
しかし、空腹はいとも簡単に人間の尊厳を打ち砕く。
三日目の昼過ぎ、我慢の限界を超えた近藤は、駅前の小さな食堂にふらりと入り、定食を注文した。
もちろん、支払う金など持ち合わせていない。
食事が終わるや否や、店主の怒声を背中に浴びながら、彼は全力で逃げ出した。
生まれて初めての無銭飲食だった。
一度壁を越えてしまえば、あとは坂道を転がり落ちるように早かった。
コンビニでパンを掴んで走り去り、時にはスーパーの軒先に並べられた果物をこっそり盗んだ。
捕まればどうなるかなど、考える余裕もなかった。
ただ、腹を満たすことだけが至上の目的となっていた。
そんな日々が続き、近藤の心は荒みきっていた。
時折、チャンの爬虫類のような目が脳裏をよぎる。
そして、爆発、あの巨大な機械蜘蛛。
恐怖で意識が覚醒する。
あれは一体何だったのか。
考えるだけで全身の毛が逆立つような恐怖が蘇る。
だが、それ以上に今の彼を苛むのは、耐え難い空腹だった。
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雪がちらつき始めた、凍えるような夕暮れ時。
近藤は、とある公園の隅で蹲っていた。
もはや歩く気力も残っておらず、このまま凍え死ぬのではないかという漠然とした恐怖が彼を包み込んでいた。
腹の皮が背骨にくっつきそうなほどの飢餓感に、意識が朦朧とし始める。
その時だった。
どこからか、温かい湯気と共に、食欲をそそる匂いが漂ってきた。
微かに残っていた本能が顔を上げさせると、公園の入り口付近に人だかりができているのが見えた。
何かの配給だろうか。
近藤は最後の力を振り絞り、ふらつく足取りでそちらへ向かった。
人垣の向こうでは、数人の男女が大きな寸胴鍋から何かをよそっていた。
湯気の立つそれは、どうやら雑炊のようだった。
「無料炊き出し」と書かれた段ボールの看板が目に入る。
近藤の目に、一瞬、疑念と警戒の色が浮かんだ。
しかし、胃袋を締め付けるような空腹と、雑炊の温かな香りが、そんな些細な感情を吹き飛ばした。
彼は無言で列の最後に並び、順番が来ると差し出された発泡スチロールの器を震える手で受け取った。
一口啜ると、温かい液体が喉を通り、凍えた体に染み渡っていく。
具はほとんど入っていない簡素な雑炊だったが、今の近藤にとっては、これ以上ないご馳走に思えた。
彼は周囲の目も気にせず、貪るように雑炊をかき込んだ。
あっという間に器は空になり、わずかな温もりが胃に満ちたものの、飢餓感は依然として強烈だった。
「おい、おかわりだ!もっと寄越せ!」
気づけば、近藤はそう叫んでいた。
剥き出しの欲望が彼を突き動かしていた。
炊き出しをしていた若い女性スタッフが、困惑した表情で彼を見つめる。
「申し訳ありません、お一人様一杯までとさせていただいておりまして……」
「ふざけるな!俺は腹が減ってるんだ!たったこれっぽっちで足りるか!」
近藤は声を荒らげ、スタッフに詰め寄った。
周囲の人々が訝しげな視線を向けてくる。
その時だった。
「まあまあ、落ち着いてください」
穏やかな、しかし芯のある声が響いた。
人垣を割って現れたのは、肩まである黒髪を無造雑に伸ばした、痩身の男だった。
年の頃は三十代後半だろうか。
柔和な笑みを浮かべてはいるが、その瞳の奥には何かを見透かすような鋭さが宿っているように近藤には感じられた。
男は「日村」と名乗った。
この炊き出しを行っている団体の責任者らしい。
「お腹が減っているのですね。お察しします。しかし、ここでは皆さんに平等に配らなければなりません」
日村の言葉は理に適っていたが、今の近藤の耳には入らなかった。
「知るか!こっちは何日もまともな飯を食ってないんだ!少しぐらい融通を利かせろ!」
近藤は日村にも食って掛かった。
しかし、日村は少しも取り乱すことなく、静かに近藤を見つめていた。
「お気持ちは分かります。ですが、私たちの活動は、ただ空腹を満たすだけのものではありません。心の渇き、魂の飢えを満たすためのものでもあるのです」
日村はそう言うと、近藤の肩にそっと手を置いた。その手は意外なほど温かく、力強かった。
「もしよろしければ、私たちの話を聞いてはいただけませんか?そして、もし……もし我々と同じ信仰心を持つことができるのなら、私たちはあなたに衣食住を提供することをお約束します」
説法、信仰心、そんな言葉は今の近藤にとってどうでもよかった。
ただ、「衣食住を提供する」という最後の言葉だけが、彼の脳髄に強く響いた。
寝床と、食事。
それさえあれば、とりあえずこの地獄のような状況からは抜け出せる。
怪しい、という思いはあった。
しかし、選択肢はなかった。
このままでは野垂れ死ぬだけだ。
「……本当か?本当に、寝る場所と飯をくれるのか?」
近藤は、疑念とわずかな期待が入り混じった声で尋ねた。
日村は、慈愛に満ちたような笑みを浮かべて頷いた。
「もちろんです。私たちは、苦しむ人々を救うために存在しているのですから」
その言葉はとても耳触りが良く近藤に響いた。
彼は頷き、日村についていくことにした。
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日村は数人のスタッフに後を託すと、近藤を伴って公園を後にした。
向かったのは、公園からほど近い雑居ビルだった。
古びてはいるが、特に怪しい雰囲気はない。
それでも、近藤は言いようのない不安を感じながら、おっかなびっくり日村の後に続いた。
ビルの一階は、がらんとしたロビーになっていた。奥にはエレベーターと階段が見える。
日村は迷うことなくエレベーターホールへと向かい、近藤もそれに従った。
自動ドアが静かに開き、日村が先に乗り込む。
近藤が続く。
そして、ドアが閉まろうとする、その瞬間だった。
日村が、ふと近藤を振り返った。
その時、彼の左耳朶で揺れる銀色のピアスが、蛍光灯の光を反射して鈍くきらめいた。
近藤の視線は、そのピアスに釘付けになった。
それは、奇妙なデザインだった。
歪んでいるようにも、あるいは何重にも重なっているようにも見える光輪のような円形。
そして、その中心からは、何かを掴もうとするかのように、あるいは何かから解き放たれようとするかのように、天を指差す様式化された手が伸びている。
それは極めて不気味で、見る者に言いようのない不安感を与えるデザインだった。
近藤は、そのシンボルを思い出そうとした。
以前に関わった裏社会の人間が、それと酷似した紋章を身につけていたのを見たことがあった気がしたのだ。
しかし名前までははっきりと思い出せない……。
「週末の光」、確かそんな名前だったような……。
いや、それはサラリーマンにとっての週末のイメージか……。
エレベーターのドアが完全に閉まり、重々しい機械音と共に上昇を始めた。
近藤は、目の前の男の耳元で揺れる不吉な光を見つめていた。




