6-12
雨は、いつの間にか小降りになっていた。
しかし、南川除染技研第二工場のプレハブ事務所、その応接室を満たす空気は、鉛のように重く、息苦しいほどに張り詰めていた。
壁に掛けられた大型モニターには、アーベルが表示する戦術マップが冷たく映し出されている。
赤い菱形のアイコンが、工場へ接近し始めていた。
それぞれのアイコンに記号が割り振られ、到着予測時刻を示すカウントダウンタイマーが冷酷に時を刻んでいる。
最短のものは、既に「00:07:32」を示していた。
ソファに浅く腰掛けた仁は、モニターの赤いアイコン群から目を離せずにいた。
その額には脂汗が滲み、膝の上で固く握りしめた拳は、小刻みに震えている。
「……翔太君、やっぱり、ここは一度、逃げるべきじゃないか? このままじゃ、袋の鼠だ」
掠れた声には、隠しきれない恐怖が滲んでいた。
昨夜の悪夢のような襲撃が、彼の脳裏に鮮明に蘇っているのだろう。
その時、厳しい表情でモニターを凝視していた翔太が、静かに、しかし部屋の重苦しい空気を震わせるような強い意志を込めて口を開いた。
「確かに状況は最悪だ。だけど、このまま逃げるだけじゃ、何の解決にも繋がらない。奴らの狙いは、おそらく私達……仁さんを確保し、襲撃の情報を完全に闇に葬り、放射線除去技術を手に入れることのはず。なら、ここで勝負をかける」
松本警部補が、視線を翔太に向けた。
その顔には、驚きと疑念が混じり合っている。
「勝負だと? 高橋君、君は正気で言っているのか? モニターを見ろ。あれは警察庁の、それもおそらくは第九係の実動部隊だ。 どうやって太刀打ちするというんだ?」
その声には、現実的な状況判断と、無謀な提案に対する当然の危惧が込められていた。
「力で正面から対抗するわけではありません」
翔太は、落ち着いた、しかし有無を言わせぬ力強さで続けた。
「狙うのは、大場和馬室長、その首ただ一つ。彼本人にこのプレハブ事務所で、彼自身の口から、一連の違法行為や、あの『終末の光』との具体的な繋がりを示す決定的な『言質』を取るんです。そして、その決定的な瞬間を、警察組織内部にいる、まだ良識を失っていない人物に……リアルタイムで届けることができれば……」
翔太の言葉に、矢沢巡査が息をのんだ。
若い彼の顔には、かすかな希望のようなものが浮かんでいる。
「警察組織の良識ある人物……松本警部補、確か、警視総監閣下にご面識があるのでは?」
その言葉は、暗闇の中に投じられた一石のように、静かな波紋を広げた。
松本は、太い腕を組み、唸るような低い声を出した。
「……警視総監。亀川か。あいつは、俺とは警察学校の同期。階級は天と地ほど離れてしまったが、今でも数少ない腹を割って話せる男だ。だが……」
松本は一度言葉を切り、厳しい表情で翔太を見据えた。
「今のこの状況で、どうやって彼に接触する? そして、もし接触できたとして、この突拍子もない、にわかには信じ難い話を、一体どうやって信じてもらうというんだ?」
翔太は、その問いに臆することなく、静かな自信を湛えた目で松本を見返した。
「その点は問題ありません。私には、あらゆる通信網の最高レベルのセキュリティプロトコルを突破し、警視総監の執務室に繋がる最も秘匿性の高い専用回線へ、直接アクセスできる手段があります。あとは、松本警部補、あなたが旧友として、そして一人の刑事としての魂を込めて、彼を説得するだけです」
松本の顔に、激しい葛藤の色が浮かんだ。
失敗すれば、自分自身の破滅はもとより、旧友である亀川の輝かしいキャリア、いや、その存在自体すら危うくする可能性がある。
警察組織という巨大な機械の中で、一人の警視総監が持つ権限は絶大だが、同時にその立場は極めて繊細なバランスの上に成り立っていることを、彼は嫌というほど知っていた。
だが、ここで動かなければ、真実は間違いなく闇に葬られ、仁や翔太、そして彼ら自身も、闇から伸びる手に捕らわれてしまうだろう。
それは、彼が長年守り抜いてきた刑事としての矜持が許さなかった。
数秒間が、まるで数時間にも感じられるほどの沈黙の後、松本は腹の底から絞り出すように、重々しく、しかし決然とした声で言った。
「……わかった、やってみよう。亀川なら、この国の警察の未来を本気で憂いている男だ。その一点に、賭ける価値はある」
翔太は静かに頷く。
(アーベル、頼む)
その言葉に応じるように、地下施設にいた子猫の姿をしたアーベルの大きな瞳が、淡い翠色の光を放った。
次の瞬間、大型モニターの戦術マップが一瞬にして切り替わり、重厚なマホガニーの調度品に囲まれた、広々としたオフィスの光景が映し出された。
カメラアングルからして、それはオフィスの主が使うであろう大型デスクの上に設置された端末からの映像のようだった。
そして、スピーカーから、低く、しかし芯のある、厳格な男性の声が響き渡った。
その声には、予期せぬ呼び出しに対する戸惑いと、状況を即座に把握しようとする鋭敏さが感じられた。
「――誰だ? この端末に直接連絡できる者は、ごく限られているはずだが」
松本は、ごくりと唾を飲み込み、モニターに映る無人の執務椅子に向かって、少し掠れた声で呼びかけた。
「亀川か? 俺だ、松本だ。横浜港署の、松本一輝だ」
モニターの奥から、足音が近づいてくる。
やがて、画面に一人の男が姿を現した。
五十代半ばだろうか。
引き締まった体に、隙のないスーツの着こなし。
鋭い眼光は、長年、組織の頂点近くで激務をこなしてきた者だけが持つ独特の厳しさと、深い洞察力を湛えている。
日本の警察組織のトップ、警視総監・亀川正人その人だった。
彼は、モニターに映る松本の顔、そして明らかに異常な状況に気づき、眉をひそめた。
「松本!? 一体どうした、その声、ただ事ではないな。何があったんだ?」
松本は、手短に、しかし切迫感を込めて、堰を切ったように状況を説明した。
南川仁が高速で武装集団に襲撃されたこと。
何度もかけた110番通報が、刑事局捜査一課第九係の管理官である大場和馬室長によって意図的に改竄され、握り潰されたこと。
その背後に『終末の光』と名乗る狂信的なカルト教団の影があること。
そして今、まさに彼らが、その大場室長が指揮する実動部隊によって、不当な武力で拘束され、口封じされようとしていること。
亀川は、松本の言葉を黙って聞いていたが、その表情は徐々に険しさを増し、やがて信じられないというように絶句した。
「……馬鹿な。大場室長が、そこまで汚れていたというのか……? にわかには信じられん。彼は、将来を嘱望された優秀な男のはずだ。だが、松本、旧友である君が、これほど切迫した状況で、私に嘘を言うはずがない。分かった。君を信じよう。その大場室長との会話とやら、こちらでもモニターさせてもらう」
その声には、苦渋と、そして腹心の部下であるはずの人間の裏切りに対する静かな怒りが込められていた。
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プレハブ事務所の応接室は、先程までの慌ただしさが嘘のように、不気味な静寂に包まれていた。
翔太と仁は、ソファに並んで腰掛け、ただ一点、事務所の入り口へと続くドアを見つめている。
仁の顔は蒼白く、緊張で引き攣っているのが見て取れた。
一方の翔太は、表情こそ硬いが、その瞳の奥には冷静な光が宿っており、まるで嵐の前の静けさを体現しているかのようだった。
カウントダウンタイマーが「00:00:00」を表示した、まさにその瞬間。
けたたましい金属音と共に、事務所のドアが外側から蹴破られた。
防弾ベストとヘルメットに身を固め、ポリカーボネイト製の透明なライオットシールドを構えた重武装の隊員四名が雪崩を打つように事務所内へ突入してきた。
その後方には、同じく完全武装でありながら、どこか余裕綽々とした、冷酷な笑みを浮かべた大場和馬室長の姿があった。
事務所内に、武器も持たずに座っている翔太と仁の姿を認めると、大場は一瞬、意外そうな表情を見せたが、すぐに全てを支配するかのような傲慢な笑みを深めた。
「南川仁だな? 抵抗は無意味だ。大人しく投降しろ。昨夜、茨城県で発生した銃撃事件、及びそれに伴う凶悪犯罪の重要参考人として、君を逮捕する」
大場の声は、絶対的な権力者のそれであり、有無を言わせぬ威圧感があった。
仁がソファから立ち上がり、理不尽に対する抑えきれない怒りを爆発させて大場に詰め寄った。
「逮捕だと!? ふざけるのも大概にしろ! あんたたちが、俺たちを見殺しにしようとしたんだろうが! 何度も、何度もかけた110番通報を握り潰し、あの『終末の光』とかいうキチガイどもに、俺たちの居場所と情報を流していたのは、あんたら警察だろうが!」
大場は、仁の激昂を冷ややかに鼻で笑い飛ばした。その目は、まるで汚物でも見るかのように仁を見下している。
「何を証拠にそんな馬鹿なことを言う。『終末の光』などという団体は、私は一切関知していない。全く、哀れな被害妄想だな。いいから、さっさと両手を頭の後ろで組め。これ以上抵抗するなら、公務執行妨害も追加されるぞ」
その時、翔太が静かに立ち上がり、仁の肩にそっと手を置いて制するように前に出た。
彼の声は、怒りに震える仁とは対照的に、氷のように冷静だった。
しかし、その言葉の一つ一つには、鋼のような硬さと、有無を言わせぬ圧力が込められていた。
「大場さん、あなたが昨夜、警察庁の緊急通報受理システムに対して行った不正アクセスの詳細なログデータを、我々は独自の方法で入手しています。そのデータは、先ほどここへ到着した二人の警察官へ既に渡してあります。あなたが、警察官僚としての地位と権限をここまで悪用なさるとは、驚きを通り越して、もはや呆れるしかありませんね」
大場の表情が、一瞬にして凍りついた。
その自信に満ちていた瞳が、僅かに、しかし確実に揺らぐのを翔太は見逃さなかった。
「……どこでその情報を……いや……やはり貴様らは、忌まわしい異星人の手先なのか?」
大場の目に、それまでの冷酷さとは異なる、狂信的な光が宿り始めた。
それは、常人の理解を超えた何かを確信している者の、危険な輝きだった。
翔太は、大場のその変化を冷静に観察しながら、畳み掛けるように言葉を続けた。
「情報源がどこかななど、この際どうでもいいでしょう。重要なのは、刑事局室長という国民の生命と財産を守るべき立場にありながら、あなたが狂信的なカルト教団と結託し、善良な市民の命を危険に晒し、組織的な隠蔽工作と司法妨害という重大な犯罪行為を行っているという、紛れもない事実です。あなたは一体、『終末の光』から何を得ているのですか? 彼らがばら撒く莫大な金ですか? それとも、何か別の、より大きな見返りでも約束されているのですか?」
翔太の鋭い追及に、大場は一瞬言葉を失ったように見えた。
だが、次の瞬間、彼の口元に、クツクツという押し殺したような、気味の悪い笑い声が漏れ始めた。
それは徐々に大きくなり、やがて甲高い、狂気に満ちた哄笑となって事務所内に響き渡った。
ひとしきり笑い終えると、大場は剥き出しになった獣のような目で翔太を睨みつけ、本性を露わにした。
「 そこまで調べれたのか……なら隠しても仕方あるまい。やはり異星人共は侮れんな」
「『終末の光』は、この腐りきった古き世界を浄化し、千年続く新たな理想の世界を築くための天の御使いだ。その偉大なる目的のために、俺は人生の全てを賭けて、ここまで上り詰めてきた」
その顔は、恍惚とした表情と、狂信的な熱に浮かされている。
「正直に言えば、私も一時期、教義を疑ったこともあった……。だが、昨晩、ついに教祖様から、その教義が違いなく証明されたと、お言葉を賜ったのだ! 本当に忌まわしい異星人どもは、この地球に実在したんだ! そして、その邪悪な手先が、今、私の目の前にいる!」
ギロリ、と大場の血走った目が、翔太と仁を射抜くように睨みつけた。
「教祖様からは、この件に関しては当分静観し、下手に手を出すなとのご指示を賜っていたのだが……まさか、こんな形で、お前たちの方から接触してくるとはな! ああ、これは天啓だ! この大手柄を立てれば、俺は教団の最高幹部の一人に名を連ねることができる……! 永遠の救いに、また一歩近づけるのだ!」
大場の狂気に満ちた、おぞましい自白の全ては、アーベルが構築したネットワークを通じて、リアルタイムで、警視総監・亀川正人の執務室の専用モニターへと、クリアな音声と鮮明な映像で届けられていた。
モニターを凝視する亀川の顔は、苦渋に歪み、その傍らに控える側近たちは、信じられないといった表情で息をのんでいる。
亀川は、固く握りしめた拳をデスクに置き、ゆっくりと、しかし決然とした表情で、傍らに置かれた赤いランプが灯る直通電話の受話器を取る準備を始めた。
彼の背後には、日本の警察組織の、そして国家の未来に対する、重い責任がのしかかっているかのようだった。