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6-11

 翔太の重い問いかけが、南川除染技研第二工場のプレハブ事務所、その応接室に圧し掛かるように響き渡った。

 窓ガラスを激しく叩く雨音だけが、張り詰めた静寂の中に不規則で暴力的なリズムを刻み続けている。


 松本一輝と矢沢修二は、互いの顔を見合わせることもなく、それぞれが内心で激しい葛藤と向き合っていた。

 叩き込まれてきた警察官としての組織への忠誠、それが目の前で、まさに今語られようとしている「真実」というものによって、覆されるかも知れない。


 数十秒が永遠にも感じられる、息苦しいほどの沈黙の後、先にその重圧を破ったのは矢沢だった。

 彼は一度固く目を閉じ、そしてゆっくりと開いた。


 その若い瞳には、先程までの迷いを振り払ったような、純粋な怒りと、そして何かを成し遂げようとする決意の炎が、力強く燃え始めていた。


「高橋さん」


 矢沢の声は、まだ僅かに震えを帯びていたが、その言葉の芯には揺るぎない覚悟が込められていた。


「もし、我々が信じ、そしてこの身を賭してでも守るべきだと教えられてきた正義が、我々自身の組織の、それも遥か上層部の人間の手によって歪められ、踏みにじられているというのなら、それを知った上で見過ごすことは、私には、到底できません」


「それがどれほど危険なことであろうとも、真実から目を背け、不正に加担するような生き方だけは、絶対にしたくありません」


 続いて松本が、深く、そして重い息を肺の底から吐き出した。

 彼は組んでいた腕を解き、ローテーブルにがっしりとした両肘をつくと、その鋭い目で、射抜くように翔太を真っ直ぐに見据えた。


「高橋さん、そして南川さん。我々は警察官だ。国民の生命と財産を守り、法と正義を断固として執行すると、この身に桜の代紋を拝受したその日に誓った」


 松本は一度言葉を切り、わずかな間を置いて、静かに、しかし力強く続けた。


「もし、あんた方が握っているという情報が、組織の腐敗を暴き、真の悪を白日の下に晒すための一助となるのなら……俺は、この松本一輝の名誉と、長年現場で叩き上げてきた刑事としての魂の全てにかけて、あんた方の秘密を守り抜こう。そして、この身にできる限りの協力を惜しまないと、ここで誓う。それが、俺の答えだ」


 その言葉の一つ一つには、長年修羅場を潜り抜けてきたベテラン刑事の、揺るぎない覚悟と、決して折れることのない矜持が滲み出ていた。


 翔太は、二人の言葉と、その目に宿る曇りのない真摯な光から、彼らの覚悟が本物であると確信した。


 それとほぼ同時に、地下のアーベルからも、より確信に満ちた量子通信による追報告が翔太の脳内に入っていた。


(対象二名の生体反応、心拍変動、声紋パターンの詳細分析結果、及び微細な表情筋の動きから判断するに、虚偽及び欺瞞の可能性は現時点で0.01%以下と断定。彼らの決意は極めて真摯なものと推定されます)


 翔太は静かに頷き、意を決して、慎重に、言葉を選びながら話し始めた。


「……ありがとうございます。お二人のその言葉、その覚悟を、信じます」


「私達が掴んでいる情報によれば、昨夜、仁さんの襲撃事件に関連する110番通報記録を不正に改竄し、意図的に捜査を妨害し続けた首謀者は、大場和馬室長です」


 翔太は続けた。


「彼は、高度なサイバー攻撃技術を持つ外部協力者からのアクセスを警察庁の基幹システムである緊急通報受理システムに繋いでいました。複数の通報を『迷惑電話』として処理するよう、システムそのものに強制的に介入していました」


「その目的は、我々を執拗に襲撃してきた武装集団、『終末の光』と名乗る、狂信的な思想を持つカルト教団の存在を隠蔽することでした。大場和馬室長と終末の光との間には何らかの利害関係があるためだと、私達は推測しています」


 松本と矢沢は、翔太の淡々とした、しかしその内容はあまりにも衝撃的な言葉の数々に、ただ息をのむしかなかった。

 警察組織の中枢にいるはずの警視正クラスの高級官僚が、あろうことか常軌を逸した狂信的なカルト教団と繋がり、犯罪行為に加担しているという事実は、彼らがこれまで長年培ってきた警察官としての常識や倫理観、そして信じてきた組織のあり方を、根底から、そして容赦なく揺るがすものだった。


 矢沢が、信じられないという表情のまま、かろうじて言葉を絞り出した。


「もしかしたら、と微かに考えていましたが……まさかここで『終末の光』の名前を聞くなんて……」


 松本は、苦虫を噛み潰したような、それでいてどこか虚無感を漂わせた顔で低く唸った。


「大場室長がそこまで汚れていたとは。にわかには信じ難いが、高橋さん、あんた方の話には、否定しようのない妙なリアリティと、そして無視できないほどの説得力がある。だが、それを裏付ける決定的な証拠はあるのか? あの第九係のトップを、法の裁きの下に引きずり出すための、誰にも覆すことのできない動かぬ証拠が」


 翔太は静かに首を横に振った。


「直接的な物的証拠を、今この場で、はいどうぞ、とお見せすることは、残念ながらまだできません。しかし、我々には独自の極めて特殊な情報収集ルートがあります。大場室長の不正アクセスの詳細なログデータ。それらは、決定的な証拠へと繋がるはずです」


 松本は腕を組み、険しい表情で深く考え込んでいた。


「高橋さんの話が全て真実だとすれば、これは単なる汚職事件などという生易しいものではない。途方もない規模の大スキャンダルだ。だが、相手は警視正、我々所轄の刑事や、並の捜査本部が正面から堂々と挑んでも、証拠ごと握り潰され、我々自身が社会的に抹殺されて終わるのが関の山だろう」


 翔太は、松本の言葉に力強く頷いた。


「だからこそ、松本警部補、そして矢沢巡査、あなた方の力が必要なんです。我々はあくまで外部の民間人です。警察内部の複雑な力学や、彼らが公式に、あるいは非公式にどのような情報を持っていて、次にどう動こうとしているのかを知る術が極めて限られています」


 翔太は、二人の目を見つめた。


「具体的にご協力をお願いしたいのは、まず、大場室長の最近の行動の詳細な記録です。彼が誰と接触し、どこへ頻繁に出入りしているのか、些細なことでも構いません。次に、第九係内部で、この事件に関して、どのような捜査が行われ、どんな情報が共有され、あるいは隠蔽されようとしているのか。そして、最も重要なのが、警察組織が、特に公安部などが『終末の光』というカルト教団について、公式、非公式を問わず、一体どのような情報を掴んでいるのか。それを知りたいのです。もちろん、これらの情報を得るためには、相当な、場合によっては命に関わるほどの危険が伴うことは承知の上でお願いしています」


 矢沢が、その若い瞳に強い意志を宿して、間髪入れずに即座に言った。


「やらせてください。警部補、私も全力で手伝います。こんな不正を、我々の組織の腐敗を、このまま見過ごすわけには絶対にいきません。私にも、警察官としての、人間としての、譲れない誇りがありますから」


 松本は、そんな矢沢の肩を、頼もしそうに、そして労わるように一度だけ力強く叩き、そして翔太に向き直った。


「矢沢の言う通りだ。危険は百も承知の上だ。我々にできる限りのことはやろう。ただし、この件は極めて慎重に、そして水面下で進めなければならない。敵は我々のはるか上を行く、巨大で狡猾な存在だ」


 翔太は静かに頷いた。

 その時だった。


 それまで淡々と、しかし重要な情報を伝え続けていたアーベルからの量子通信が、突如として、これまでにないほど緊迫した警告のトーンに変わった。

 応接室にようやく僅かな希望の光が見え始めたかのような比較的穏やかだった空気を、一瞬にして切り裂くように、翔太の脳内にアーベルからの緊急警告が、まるでサイレンのようにけたたましく響き渡った。


(翔太さん、緊急事態発生です! たった今、大場室長が、この南川除染技研第二工場周辺の包囲、及び状況次第では発砲も含む実力行使による対象者全員の拘束も辞さないという、極めて強硬かつ違法な指示を出したとの確度の高い情報をキャッチしました! 彼らは既に複数の偽装された民間車両でこちらへ高速で向かっている可能性が濃厚です)


 翔太の表情が、一瞬にして凍りついたように険しくなった。

 その尋常ではない変化に、長年の刑事としての勘を持つ松本と、鋭敏な矢沢も即座に気づき、息を詰めて緊張した面持ちで翔太を見つめた。


 翔太は、素早くソファーから立ち上がりながら、低いが鋭い声で言った。


「松本警部補、矢沢巡査、残念ながら、どうやら慎重にこの話を進めるのは無理そうです」


 プレハブの小さな応接室の緊張が、再び、しかし先ほどとは質の異なる、より直接的で物理的な脅威によって、一気に頂点に達した。


 窓の外では、まるで彼らの絶体絶命の危機を煽るかのように、雨脚がさらに強まり、風も唸りを上げて吹き始めていた。


 彼らのささやかな共闘の誓いは、そのインクも乾かぬうちに、過酷な現実の嵐に、無慈悲に晒されようとしていた。


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― 新着の感想 ―
これで現場の警察側に被害が出ればテロリスト認定。しかも大場室長は表に出てこないか。
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