6-10
空は厚い灰色の雲に覆われ、湿った空気が辺りを包み、今にも泣き出しそうな気配が漂っていた。
松本警部補と矢沢巡査を乗せた黒いセダンが、人気もまばらな田舎の一角、南川除染技研第二工場の門柱をくぐったのは、昼下がりのことだった。
数時間前の旧谷田部東パーキングエリアの喧騒とは対照的に、この工場は驚くほど静かで、敷地内は隅々まで手入れが行き届き、清潔感が漂っている。
建屋の傍らに、それとは少し不釣り合いなプレハブの質素な事務所がぽつんと建っており、そこが彼らの目的地だった。
車から降りた松本が事務所のドアを軽くノックすると、数秒後、中から一人の青年が現れた。
翔太だ。
その目つきはどこか険しく、松本と矢沢を交互に見やり、全身から近寄りがたい警戒心を放っていた。
「ご連絡いただいた松本警部補ですね。お待ちしていました。どうぞ」
翔太は、抑揚のない平坦な声で二人を事務所の中に招き入れた。
通されたのは、意外にも落ち着いた雰囲気の応接室だった。
中央にどっしりとした木製のローテーブルが置かれ、その両脇には深緑色の布地で覆われた三人掛けのソファーが二脚、向かい合わせに配置されている。
プレハブの外観からは想像もつかない、きちんとした空間だった。
奥のソファーには、南川仁が深く腰掛けている。
その表情には疲労の色が濃く、それ以上に、警察という組織に対する拭いきれない不信感と、消えない緊張の色が瞳の奥に浮かんでいた。
その頃、この第二工場の地下深くに巧妙に隠された、南川除染技研の真の心臓部とも言える地下施設では、愛らしい黒毛の子猫の姿をしたアーベルが、涼子と由美と共に、プレハブ事務所内に設置された隠しカメラと集音マイクからの情報をリアルタイムでモニターしていた。
「対象二名をスキャン完了。心拍数、体温、発汗レベル共に通常範囲内。神経系の微細な興奮は認められますが、敵対的行動に繋がるレベルではありません。携帯品に殺傷能力の高い武器は確認されず。現時点では、直接的な敵意や、我々を欺こうとする意図は感知されません」
アーベルは、猫の姿からは想像もつかない高度な分析結果を、微細なナノマシンを介した量子通信によって、応接室にいる翔太の脳内へ直接報告していた。
由美は不安そうにモニターに映る夫の姿を見つめ、涼子は固唾を飲んで緊迫したやり取りの行方を見守っていた。
松本は、仁と、その隣に腰掛けた翔太の前に立ち、改めて深く一礼した。
「横浜港警察署刑事課、警部補の松本一輝です。こちらは部下の矢沢修二巡査。本日は、昨夜の常磐自動車道、旧谷田部東パーキングエリアで発生した一連の事件について、南川さんご本人から詳しくお話を伺いたく参上いたしました」
矢沢もそれに倣い、緊張した面持ちで頭を下げる。
翔太は差し出された松本の名刺を無言で受け取り、そこに記された「松本一輝」「矢沢修二」という名前と、目の前の男たちの顔とを、値踏みするような鋭い目つきで見比べた。
その間、彼の意識はアーベルへと向けられていた。
(アーベル、聞こえているな。今、目の前にいる二人の警察官、松本一輝と矢沢修二の身元を徹底的に洗ってくれ。特に、カルト教団『終末の光』との繋がり、金の流れ、不審な通信記録、過去の職務における不審な行動履歴などを最優先で調査しろ。少しでも危険な兆候があれば、即座に知らせろ)
地下でモニターを見つめるアーベルは、その命令に対し、静かに頷いた。
(承知しました、翔太さん。対象二名の詳細なプロファイリングを開始します。警視庁及び関連省庁の人物データベース、金融機関の取引記録データベース、通信事業者のログサーバーへアクセスし、情報を抽出します)
アーベルからの通信を聞きつつ、松本へ翔太は思っていた疑問をぶつけた。
「なぜ、横浜の警察が茨城の事件に?」
「横浜で起こった事件と同じ証拠が挙がったので呼ばれたんですよ」
どこか疲れた表情で矢沢が言葉を漏らした。
松本は少しばつが悪そうに表情を崩した。
「矢沢、そこまでだ。申し訳ない、これは捜査情報になってしまうので、詳細はお伝え出来ないんだ」
ハッと矢沢は口に手を当てる。
松本が咳払いをして、翔太と仁へ視線を向けた。
「先ほどの矢沢の発言は忘れていただけると助かる。それで昨夜、パーキングエリアで一体何が起こったのか、詳細をお聞かせいただけますか?」
松本が慎重に言葉を選びながら本題に入ろうとした瞬間、それまで黙って俯き、テーブルの上で固く手を組んでいた仁が、堰を切ったように激しく顔を上げた。
「その前に、こちらからお聞きしたいことがあります!」
仁の声は、警察に裏切られたという強い感情で震えていた。
「私たちは、昨夜、正体不明の武装集団に襲われ、殺されそうになったんです! 何度も、110番に電話しました! 最初の襲撃から、あのパーキングエリアに至るまで、あれだけ激しいカーチェイスがあったにも関わらず、なぜ警察は動かなかったのですか!? 私たちは、あなたたち警察に、見殺しにされそうになったんですよ!」
その言葉は、応接室の重く張り詰めた空気を鋭く切り裂いた。
松本は、仁の魂からの叫びとも言える言葉を、険しい表情で真正面から受け止めた。
「南川さん、お気持ちは痛いほど察します。そして、その点については、我々も深刻な疑念を抱いています。決して、あなた方を見捨てたつもりはありません」
松本は、傍らに置いていた頑丈な警察仕様のタブレット端末を取り出し、素早く操作した。
やがて、画面には昨夜の110番通報の受理ログが一覧で表示された。
「これは、昨夜のあなた方からの通報記録です。確かに、南川さんのお名前での着信記録が、昨夜22時過ぎから約一時間の間に、複数回記録されています」
しかし、松本が指し示したそのログの末尾には、目を疑うような処理結果が付記されていた。
「通報内容不明瞭。発信者側の音声ノイズ多く、応答なし。同一発信元からの無言電話が連続。イタズラまたは迷惑電話の可能性高し。よって緊急出動対象外として処理」
「迷惑電話処理……!?」
翔太が、テーブルを叩きそうな勢いで吐き捨てるように呟いた。
その目には、警察組織に対する明確な不信が揺らめいている。
仁は、画面を見て愕然とし、言葉も出ないといった様子で肩を震わせている。
松本は重々しく首を横に振った。
「あり得ない処理です。これだけの頻度で、複数の発信元から、これほど切迫した状況が推測される通報があれば、重大な異常事態と判断し、即座に確認のためのパトカーを派遣するのが、我々警察官の取るべき通常の対応手順です。明らかに、何者かが意図的に情報を歪曲し、あなた方の必死の通報を握り潰したとしか考えられません」
矢沢も、異常な処理記録を見て青ざめた顔で小声で呟いた。
「警部補……まさか、我々警察組織の中に、この事件に意図的に干渉し、隠蔽しようとしていた者がいたとでも言うのですか?」
松本と矢沢の脳裏では、先ほどの旧谷田部東パーキングエリアでの大場室長の傲慢な態度と、この不可解な通報処理が、不気味な一本の線で繋がり始めていた。
警察内部の、それもかなり上層部でなければ、これほど大規模な通報システムの操作はできるはずがない。
組織ぐるみで何かとんでもない不正が行われている。
その確信めいた疑念が、彼の心の中で急速に、おぞましい輪郭を伴って形を取り始めていた。
応接室に、鉛を飲み込んだような重い沈黙が流れる。
誰もが、目の前に突きつけられた異常な事態をどう解釈すべきか、言葉を見つけ出せずにいた。
その凍りついた静寂の中、翔太の脳内に、アーベルからのクリアな量子通信による報告が流れ込んできた。
(翔太さん、対象二名、松本一輝警部補及び矢沢修二巡査の身元調査が完了しました。彼らには『終末の光』及びその関連フロント団体との直接的な接触や共謀を示すデータは、一切確認できませんでした。プロファイリングの結果、彼らは職務に比較的忠実で、強い正義感と倫理観を持つ警察官である可能性が極めて高いと判断されます)
翔太は、その報告に僅かな安堵を覚えた。
目の前の刑事たちは、少なくとも直接の敵ではないかもしれない。
だが、アーベルの報告はそれで終わりではなかった。
(しかし、同時に極めて憂慮すべき情報を入手しました。警察庁のデータベース及び通信監視システムのログを解析した結果、刑事局捜査一課第九係を実質的に指揮する大場和馬室長が、昨夜22時03分から23時17分にかけて、警察庁の緊急通報受理システムに対して、複数回不正なリモートアクセスを行い、南川さん及びそれに関連する110番通報記録を意図的に改竄、『迷惑電話』として処理するようシステムに強制介入していた証拠を確認しました)
(さらに、大場室長が主導し、谷田部東パーキングエリアにおける全ての捜査情報を第九係内部で厳重に管理し、他の部署や所轄警察には情報を遮断、早期に捜査を強制終了させようとしている具体的な動きも掴んでいます。極めて高度で組織的な隠蔽工作が進行中です。大場室長が、何らかの形で『終末の光』と関わっている可能性は非常に高いと推測されます)
翔太は、報告内容に内心で激しい衝撃を受けていた。
単なる職務怠慢ではない。
これは積極的かつ悪質な犯罪行為だ。
警察組織の一部が、あの狂信的なカルト教団「終末の光」と繋がっているというのか。
背筋に冷たいものが走るのを感じた。
だが、目の前にいる二人の刑事は、その巨大な闇とは無関係かもしれない。
むしろ、彼らもまた、その組織の闇に翻弄されている被害者なのではないか……。
そんな翔太の内心の葛藤など知らず、松本はどこか自嘲するように呟いた。
「矢沢、どうやら我々警察側にも、この事件に深く手を貸している者がいるかもしれないな……それも、我々が容易に手出しできない、遥か上の立場の人間が」
矢沢の声は、微かに震えていた。
「警部補……もし、本当に警察が……いえ、例えば大場室長のような立場の人間が、意図的に通報に工作し、捜査まで隠蔽しようとしているというのなら……それは、我々が誓ったはずの警察組織の中に、凶悪な犯罪に積極的に手を貸している人間がいる、あるいは組織そのものが、得体の知れない邪悪な力に利用されているということになりませんか? そんなことが……」
その言葉には、組織への疑いと、それでもどこかで信じたいという悲痛な思いが痛々しいほどに入り混じっていた。
松本は、そんな若い部下の肩を力なく、しかし励ますように叩いた。
「最悪の可能性だが、今の状況では、それを真っ向から否定できん。この事件は、単なる武装集団による襲撃事件という単純なものではない。その背後には、国家権力の一部を密かに動かせるほどの、巨大な力が働いていると考えざるを得ない」
地下施設で、固唾を飲んで緊迫した会話を聞き、翔太との量子通信を維持していたアーベルが、冷静な分析と共に翔太へ脳内の量子通信を用いて提案する。
(翔太さん、この二人の刑事は、真実を追求する強い意志と、警察官としての基本的な倫理観をまだ失っていないようです。彼らが、自らが所属する警察内部の腐敗という現実に直面し、激しく葛藤している今こそ、我々が持つ情報の一部を戦略的に開示し、彼らを協力者として引き入れる絶好の機会かもしれません)
(彼らを味方につければ、今後の我々の行動においても、計り知れないアドバンテージとなる可能性があります。もちろん、リスクは伴いますが、それに見合うリターンも大きいかと判断します)
翔太は、アーベルの提案を吟味した。
確かに危険な賭けだ。
もし彼らが、最終的に組織の論理を優先するような人間であれば、自分たちの存在は即座に「対応」され、万事休すとなるだろう。
世間に明かされるのか、秘密裏に処理されるのか……。
しかし、このままでは、「終末の光」と警察内部に深く巣食う腐敗した協力者の両方を敵に回し、じりじりと追い込まれていくのは目に見えている。
信頼できる協力者が喉から手が出るほど必要だった。
翔太は深く息を吸い込み、覚悟を決めた。彼は、目の前で苦悩と葛藤の表情を浮かべる二人の刑事を射抜くような眼差しで真っ直ぐに見据えた。
「松本警部補、矢沢巡査」
翔太の有無を言わせぬような、不思議な圧力を伴った声に、二人の刑事がはっとしたように顔を上げた。
翔太は続けた。
「もし……もし、あなた方が本当に心の底から真実を知りたいと願い、そのために我々が持つかもしれない情報に触れる覚悟があるというのなら、その前に、一つだけお聞きしたいことがあります」
翔太は、一つ一つの言葉を選びながら、しかし断固たる口調で問いかけた。
「あなた方は、これから我々がお話しするかもしれない、常識では到底考えられない事態、そして、もしかしたらあなた方自身の組織の、腐敗した部分にも深く触れることになるかもしれない情報に直面した時、その全てを知った上で、秘密を絶対に守り抜くと、ご自身の誇りと魂に誓えますか? たとえ、その結果として、忠誠を誓った巨大な組織を敵に回すことになるとしても、です」
翔太の真剣な眼差しが、松本と矢沢の覚悟の深さを試すかのように、鋭く二人を射抜く。
プレハブの小さな応接室の空気は限界まで圧縮されたかのように張り詰め、本格的に降り始めた雨音が窓ガラスを叩き、やけに大きく不吉に響いていた。
二人の刑事の返答が、今後の全ての運命を左右する。
そのことを、その場にいる誰もが痛いほど感じていた。




