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アーベルによる「終末の光」に関する情報開示の後、地下施設の一室は重苦しい沈黙に支配されていた。
仁と由美は互いの手を握り合い、言葉にならない不安を分かち合っている。
涼子はそんな二人の傍らで、自らもまたこの非日常的な事態に必死で適応しようとしていた。
しかし、翔太の表情は、一層険しさを増していた。
彼はゆっくりと口を開いた。
「一つ、非常にまずい懸念がある。トランスポート・ユニット……あの機体を、奴らにハッキリと見られてしまった。しかも、戦闘の混乱でステルス機能が一時的に完全に解除された状態でだ」
その言葉は、冷たいコンクリートの壁に反響した。
翔太の声には、これまでのどんな危機とも質の異なる、深刻な憂慮が滲んでいた。
「幸い、電磁グレネードのおかげで、戦闘記録用の電子機器はほとんどダウンしたはずだ。物証となる鮮明な映像や画像データは残っていないと信じたい……」
翔太はそこで一度言葉を切り、苦々しげに続けた。
「あの機体の特異な性能や、地球の現行技術レベルを明らかに超えた構造を奴らに記憶され、解析されたら……それは『終末の光』の掲げる『異星人による地球支配』という狂信的な教義に、皮肉にも強力な裏付けを与えてしまうことになるかもしれない。彼らにとって、あのトランスポート・ユニットは、まさに『異星人のテクノロジー』そのものに見えただろうからな」
翔太は深く息を吸い込み、絞り出すように言った。
「そうなれば、奴らの狂信はますます制御不能なまでに深まり、この南川除染技研、そして仁さんたちが持つ『聖遺物』……つまり、あの除染技術に対する執着は、もはや常軌を逸したものになると思う。俺たちは、完全に彼らの最優先ターゲットになったと考えるべきだ」
翔太の的を射た分析は、地下施設の冷たい空気をさらに数度下げたかのように感じられた。
仁は唇を固く結び、由美は息を飲む。
涼子は、ただ茫然と翔太の顔を見つめていた。
敵の狂信を、自分たちの存在がさらに増幅させてしまったかもしれないという事実は、彼らの心に重くのしかかった。
その時、翔太の足元にいた子猫、アーベルが、ふと顔を上げた。
その大きなエメラルド色の瞳が、暗がりの中で燐光のように知的な光を放つ。
その姿の愛らしさとは裏腹に、響いた声はどこまでも冷静だった。
「翔太さん。あなたは銀河連盟の正規市民であるため、自己及び保護対象への明白かつ現在の危機に際しては、段階的な自衛権の行使が認められています。もしあなたが正式に指示するのであれば、脅威対象である組織『終末の光』に対して、こちらから先制的な対抗措置を講じることが可能です。これには、対象組織の活動能力の恒久的な無力化を目的とした、直接的な物理的介入も選択肢として含まれます」
「先制攻撃……それも物理的な介入か……」
翔太は、アーベルの提案を反芻しながら、その言葉の持つ途方もない重みを噛みしめていた。
トランスポート・ユニットの戦闘能力を最大限に解放すれば、一時的に脅威を排除できるかもしれない。
しかし、それは下手をすると、地球社会に計り知れない混乱をもたらし、何よりも「終末の光」の歪んだ教義を、彼ら自身の行動によって証明してしまうという最悪の皮肉になりかねなかった。
翔太は、涼子に視線を向けた。
「涼子は、どう思う? アーベルの提案通り、力で奴らを叩くべきか…それとも別の道を探るべきか。下手に手を出せば、事態が悪化する可能性もある。だけど、このまま黙って待っていてはジリ貧だ」
涼子は、突然話を振られ、戸惑ったように顔を上げた。彼女の瞳は揺れていた。
「私には分からないよ……ついこの間まで、普通の生活を送っていた私たちに、そんな重大なことが決められるわけないじゃない」
その声は震え、彼女の素直な心情を表していた。
仁、由美、そして涼子。
三者三様の苦悩が、その表情に深く刻まれていた。
暴力で狂信を制圧することへの倫理的な抵抗感と、しかしこのままでは自分たちの命が危険に晒され続けるという焦燥感。
それが彼らの中で激しく葛藤していた。
長い、重苦しい沈黙の後、最初に口を開いたのは翔太だった。
彼は一度固く目を閉じ、そしてゆっくりと開くと、その瞳には覚悟を決めた者の強い光が宿っていた。
「彼らの狂気を止めるためには、受け身でいるだけでは駄目かもしれない。だが、僕たちの手で血を流すのは……できることなら避けたい。それに、彼らの歪んだ思想を考えれば、物理的に一部を潰したところで、すぐに第二、第三のグループが、さらに過激になって現れるだけじゃないか?」
仁は、翔太の言葉に深く頷いた。
「僕も……僕も同意見だ」
翔太は、仁の言葉を受け、最終的な判断を下した。その声は静かだった。
「アーベル、物理的な先制攻撃のオプションは、現時点では保留する。だが、もちろん何もしないわけじゃない。俺たちも動く。ただし、俺たちが選ぶ戦場は、物理空間じゃない。情報空間だ」
「彼らの組織の実態、その指揮系統、国内外に張り巡らされた資金源、協力者のネットワーク、そして彼らが血眼になって探している『聖遺物』……つまり仁さんの除染技術に関する、彼ら自身の解釈や具体的な利用計画……そういったあらゆる情報を、徹底的に洗い出すんだ。彼らが次の具体的な行動を起こす前に、俺たちが彼らの内情を丸裸にし、社会的に無力化させる糸口を探る。それが、俺たちの先制攻撃だ」
「承知しました、翔太さん」
アーベルは静かに応じた。その子猫の目が再び強く、そして冷徹なまでに効率的な光を放った。
「OSINT(公開情報調査)も試み、対象組織『終末の光』に関するあらゆるデジタル・フットプリントを追跡、プロファイリングを実行します。特に、彼らの上層部と、今回の襲撃部隊を直接繋ぐ指揮命令系統の解明、及び『聖遺物』に関する彼らの具体的な計画の断片でも入手できるよう、全力を挙げます」
地下施設に、新たな戦いの始まりを告げる静かな緊張感が満ちた。
それは硝煙の匂いのしない、しかしより複雑で深遠な戦いだった。
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夜が白み始め、冷たく湿った朝の空気が、昨夜の狂騒の残り香を洗い流そうとしているかのような旧谷田部東パーキングエリア。
しかし、朝日によって無慈悲なまでに詳細に照らし出されたのは、激しい戦闘の爪痕が生々しく残る惨状だった。
アスファルトには、複数の大型車両が急発進や急旋回を繰り返したような無数の傷痕が複雑に刻まれ、いくつかの場所は爆発によって黒く焼け焦げ、クレーターのように陥没している。
破壊された電灯の残骸、そして金属片や、おびただしい数の薬莢が、まるで悪趣味なモザイク画のように広範囲に散乱していた。
パーキングエリアの建物も、窓ガラスは軒並み割れ、壁には銃弾によるものと思われる穴が無数に空き、一部は構造物が歪んでしまっている。
辛うじて原型を留めている四台の乗用車は、無残な姿を晒していた。
現場は既に、日の出と共に到着した茨城県警の捜査員によって、黄色い規制線が幾重にも張り巡らされ、物々しい雰囲気に包まれていた。
警官たちが、眠気と緊張感が入り混じった表情で規制線の外周を固め、野次馬やマスコミの侵入を警戒している。
鑑識課員たちは、地面に這いつくばるようにして、残された微細な証拠物件を一つ一つ丁寧に、まるで貴重な遺跡を発掘するかのように採取していた。
その手つきは慎重かつ手慣れていたが、彼らの額に滲む汗は、この異常な現場が放つプレッシャーを物語っていた。
そこへ、一台の黒いクラウンセダンが、サイレンを鳴らさずに静かに到着した。
運転席から降り立ったのは、一人の初老の男。
着古されて襟が少し擦り切れたベージュのトレンチコート。
コートの下からのぞくスーツは、少しよれて皺が寄っていた。
丁寧に剃られてはいるものの、うっすらと青みを帯びた無精ひげが顎を覆い、それは固く引き結ばれている。
寝不足で僅かに充血した鋭い双眸が、油断なく現場全体を睥睨している。
その男は、横浜港警察署刑事課の松本警部補。
そのくたびれた外見とは裏腹に、彼の佇まいには、長年の刑事キャリアで培われたであろう、あらゆる嘘や隠蔽を見透かすような洞察力と、犯罪者に対しては容赦しないという確固たる意志からくる威圧感が同居していた。
助手席からは、まだ二十代半ばといった印象の、生真面目そうな顔つきの矢沢巡査が、分厚い捜査資料のファイルを抱え、少し慌てた様子で降り立った。
彼は目の前に広がる、まるで戦場のような惨状に息をのみ、ゴクリと喉を鳴らした。
「警部補、しかし、これはまた……壮絶な現場ですね。ニュースでは小規模な爆発事件としか報じられていませんでしたが」
矢沢は言葉を失い、周囲を見回した。
「それにしても、何でわざわざ我々横浜の人間が、こんな茨城県警の管轄まで早朝から呼び出されたんでしょうか? 今日は確か、警部補も私も非番のはずでは」
その声には、若干の不満と、それ以上にこの異常事態への困惑が滲んでいた。
松本は、懐から取り出しかけたセブンスターの箱を、現場の空気を読んで無言でポケットに押し戻し、代わりに深く息を吸い込んだ。
硝煙の匂いと、何かが焼け焦げた不快な異臭が、まだ微かに鼻腔を刺激する。
「先日の横浜の港湾地区の倉庫ビルで発生した、原因不明とされた爆発物処理班出動騒ぎ……覚えているか? あの現場で確認された、どうにも説明のつかない奇妙な圧痕や、金属質の擦過痕と酷似したものが、この谷田部東のパーキングエリアでも複数発見されたそうだ。それも、本牧の時とは比較にならないほど、規模が段違いに大きいらしい。茨城県警の鑑識が、うちの鑑識課に問い合わせてきて、その情報が俺のところまで回ってきたというわけだ。合同で分析に当たる」
「あの、まるで巨大な…そう、何か得体の知れない化け物でも徘徊したかのような、異様な圧痕ですか?」
矢沢が驚きの声を上げ、抱えていたファイルを落としそうになるのを慌てて立て直した。
本牧埠頭の事件は、結局、老朽化した施設のガス管爆発という、いささか強引な結論で処理されかかっていたが、現場に残された不可解な痕跡の数々は、一部の捜査員の記憶に深く刻み込まれていた。
松本警部補の目が、難事件の手がかりを遂に見つけた古強者の猟犬のように、鋭く光った。
「ああ、その通りだ。どうやら『化け物』は本当に実在して、我々の想像以上に活動的で、関東一円を縦横無尽に動き回っている可能性が出てきた。そして、これは単なる物損事件や、どこぞのチンピラ組織の派手な抗争などでは決してない。もっと大きな、そして根深い、底知れない事件の匂いがプンプンする」
松本は、規制線の内側に鋭い視線を向けた。
不自然に抉り取られたアスファルトの破片、広範囲に飛び散った金属片、そして、いくつかの巨大な、まるで何かの足跡のような窪み。
彼の長年の刑事の勘が、この事件の裏に潜む尋常ならざる闇の存在を、明確に告げていた。
それは、これまでの彼の長い捜査経験の中でも、一度として嗅いだことのない、異質中の異質の匂いであった。
松本は、コートのポケットに手を突っ込み、冷たくなった指先で、先ほどしまったタバコの箱の感触を確かめていた。
長い一日が始まりそうだった。




