6-2
漆黒に染め上げたシルクのような毛並みを持つ子猫が中空を見つめていた。
アーベル。
その子猫は、地球とは異なる高度な文明の宇宙船のコアだ。
この彼女のエメラルド色の瞳が、目前に広がるディスプレイの複雑なデータを追っている。
ディスプレイには、ステルス性を極めた大型ドローンの最終チェック項目が並び、その全てが青信号へと変わっていく。
「ドローンの最終チェック、完了しました」
アーベルは落ち着いた、しかしどこか幼さを感じさせる声で告げた。
その声は、彼女の姿とは裏腹に、絶対的な信頼感を抱かせる響きを持っていた。
涼子と翔太は、アーベルの言葉に緊張した面持ちで頷いた。
アーベルは小さな頭を振って、ホログラムに新たな情報を表示させた。
「ドローン下部に懸架されているのは、先日、涼子さんの救出に使用したトランスポート・ユニットです」
ホログラムには、音もなく空中に浮かぶ、大型のドローンの姿が映し出された。
三つの大きな回転翼を持つ無人機は、まるで巨大な円盤のように静止している。
三角形の頂点に配置された巨大なローターは、不気味な静粛さで回転している。
その機体中央下部には、アーベルが示したトランスポート・ユニットが懸架されていた。
両機ともに光を鈍く反射する青黒いマットな外装には熱光学迷彩が施されており、それを有効にさえしておけばば肉眼での捕捉はほぼ不可能だろう。
「翔太さん、意識のリンクを開始してください」
アーベルが促す。
翔太は無言で頷き、椅子へ腰掛ける。
彼の意識は物理的な肉体を離れ、数キロメートル上空に待機するトランスポート・ユニットへと飛翔する。
現実の肉体は深く椅子に沈み、微動だにしなくなるが、彼の精神は今や鋼鉄の巨体と一体化し、戦場の目となる。
一方、涼子は深呼吸を繰り返していた。
心臓が早鐘のように打ち、手のひらには汗が滲む。アーベルから渡されたARグラスを装着すると、現実の風景に重ねて、作戦エリアの立体的なホログラムマップが目の前に浮かび上がった。
常磐自動車道を中心に、詳細な地形データ、建物の配置、そしてリアルタイムで更新される情報が、幾重にもレイヤーとなって表示される。
「涼子さん、あなたの役割はナビゲーターです」
アーベルは、涼子の緊張を和らげるかのように、穏やかな声で続けた。
「仁さんたちとの連絡、上空のドローン――つまり翔太さんからのリアルタイム状況把握、そして私への情報伝達。これら全てが、あなたの双肩にかかっています」
涼子はこくりと頷いた。
不安がないと言えば嘘になる。
しかし、兄を、そして義姉を助け出すためには、自分がしっかりしなければならない。
彼女の瞳に、強い意志の光が宿った。
アーベルは肉球で器用に空間に投影された仮想コンソールを操作し、ホログラムに新たな情報を追加した。
常磐自動車道のリアルタイム交通情報、仁たちが現在走行していると思われるルート、そして、彼らを追跡する複数の車両の正確な位置と速度が、赤い点で示される。
「仁さんたちの車両は、現在、友部サービスエリアを通過。追跡車両は、少なくとも三台確認できます」
アーベルの声が、室内の緊張感を一層高めた。
「最初の合流・救出ポイントとして、ここから数キロ先にある、閉鎖された旧谷田部東パーキングエリアを提案します。現在は進入禁止措置が取られており、一般車両の立ち入りはありません」
ホログラムには、パーキングエリアの詳細な立体図が表示され、進入路、予測される敵の動き、そしてトランスポート・ユニットの最適な配置場所などが、青いラインで示される。
「恐らく襲撃者もここへ仁さんを誘導しようと企んでいると思われます」
アーベルは続ける。
「次善策として、複数の代替ポイントと、それぞれに応じた救出プランを用意してあります」
その言葉は、涼子の心をわずかに軽くした。
「涼子、大丈夫か?」
意識だけをトランスポート・ユニットに飛ばしている翔太が、それでも涼子の気配を察したのか、現実の口からかすかに言葉を発した。
その声は少し籠っているが、確かな気遣いが込められていた。
「うん、大丈夫……ありがとう、翔太さん」
涼子は力なく微笑んだ。
アーベルは、追跡車両から発信される微弱な電波を仁のスマホ経由で傍受し、その解析を試みていた。
しかし、電波状況が悪く、完全な解読には至らない。
それでも、断片的な情報と、車両の動きのパターン分析から、恐るべき事実が判明しつつあった。
「やはり、敵は複数のチームで連携し、仁さんたちの車両を計画的に追い込んでいる可能性が高いです」
アーベルは警告を発した。
「彼らは、まるで狩りを楽しむかのように、徐々に包囲網を狭めています」
その言葉は、涼子の胸に冷たい不安の影を落とした。
スマートフォンの通信が再び復旧する。
「兄貴! 聞こえる!?」
涼子は、傍らに置かれたスマートフォンに必死に呼びかけた。
「もう少しで救出ポイントの指示が出せるから、絶対に諦めないで! 由美さんは大丈夫!? 燃料は、まだ持つ!?」
悲痛な声と励ましの言葉が入り混じる。
ノイズの向こうから、仁の苦しげな声が途切れ途切れに返ってきた。
背後からは、甲高いタイヤのスキール音や、時折、何かが激しくぶつかるような衝撃音がリアルに伝わり、涼子の心臓を締め付ける。
「ああ、涼子か! なんとか……由美も気丈に振る舞ってる……だが、本当に……もうダメかもしれん!」
仁の声はかすれ、絶望の色が濃くにじんでいた。
「敵は……まるで僕たちがどこに向かおうとしているか、全てお見通しのようなんだ! 奴ら、的確に先回りして進路を妨害してくる!」
「絶対に助けるから!」
涼子は叫ぶ。だが、その声が兄にどれほど届いているのか、確信は持てなかった。
「仁さん、聞こえますか」
アーベルが、冷静さを失わない声で通信に割り込んだ。
「間もなく、旧谷田部東パーキングエリアに到達します。高速本線から左に分岐する進入路があります。標識は撤去されていますが、私がナビゲートします。敵は、あなた方をそこに追い込みたいはずです。あえてその手に乗り、誘い込みましょう」
「旧パーキングエリア……だと……?」
仁の訝しむ声。
「わかった! もう、どこへ行こうと奴らからは逃げられん! やってやる!」
最後の気力を振り絞ったかのように、仁の言葉にわずかな力が戻った。
ホログラムに表示された仁の車両を示す赤い点が、激しく左右に揺れながらも、指示されたポイントへと近づいていく。
敵車両も、まるで獲物を追い詰める猟犬のように、そのすぐ後ろに食らいついている。
涼子は祈るように両手を組み合わせ、固唾を飲んでホログラムを見つめた。
心臓の音が、まるで耳元で鳴っているかのようにうるさい。
---
常磐自動車道の闇を切り裂き、一台のセダンが火花を散らしながら疾走していた。
ハンドルを握る仁の額には脂汗が滲む。
助手席の由美は、顔面蒼白になりながらもドア上にあるアシストグリップを強く握る。
ルームミラーには、複数のヘッドライトが不気味に迫っている。
それは、まるで地獄の底から追いかけてくる鬼火のようだった。
「見えた! あれが入り口か……!」
前方に、闇に沈むようにして存在する、閉鎖されたパーキングエリアへの進入路が見えた。
かつては多くのドライバーが休息を取ったであろうその場所は、今はまるで巨大な罠の入り口のように、不気味な静けさを湛えている。
仁は最後の力を振り絞り、巧みなカウンターステアで追跡車両の執拗な体当たりをギリギリでかわした。
タイヤが悲鳴を上げ、アスファルトに黒い筋を刻みつける。
セダンはコントロールを失いかけながらも、旧パーキングエリアへと滑り込んだ。
ガクン、と車体が大きく揺れ、エンジンが数回咳き込むような音を立てた後、ついに沈黙した。
エンスト寸前の状態で、車はパーキングエリアの中央付近で力なく停止する。
間髪を入れず、追跡していた三台の黒いバンが、まるで示し合わせたかのようにセダンを取り囲むようにして停車した。
ヘッドライトが一斉にセダンに向けられ、その強烈な光が、絶望的な状況を白日の下に晒し出す。
「囲まれた!」
仁の絶望的な声が、スマートフォンから途切れ途切れに響いた。
涼子は息を呑んだ。
ホログラムに映し出された光景は、あまりにも残酷だった。
しかし……
「アーベル! 翔太さん!」
涼子の声が、地下室に鋭く響いた。
「はい。翔太さん、いつでも」
アーベルは静かに応じた。
ホログラムの中で、パーキングエリアの上空、闇に溶け込むように待機していたドローンのシルエットが、わずかに動いた。
その下部に懸架されたトランスポート・ユニット――蜘蛛のような鋼鉄の巨体が、静かに覚醒の時を待っていた。
戦いの火蓋は、今、切られようとしていた。




