5-12
ぎこちない空気を振り払うように、翔太はわざとらしく咳払いを一つした。
潤んだ瞳でこちらを見つめる涼子から、やや強引に視線を逸らす。
「そ、それより、涼子は本当に大丈夫なのか? その……精神的なものとか。ほら、トラウマ、みたいな……」
彼女の無事を気遣う言葉ではある。
しかし、その口調には自分自身の内面で渦巻く葛藤から話題を逸らしたいという気持ちが透けて見えた。
向けられた好意が嬉しい反面、今の自分にはそれを受け止める資格がないような気がして、無意識に距離を取ろうとしてしまう。
翔太のぎこちない問いかけに、涼子は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐにふわりと微笑んだ。
まだ少し涙の跡が残る頬だったが、その笑顔は先ほどよりもずっと自然に見えた。
「ううん、大丈夫。確かに怖かったけど……翔太さんが助けてくれたんだもん。それに、今はこうして安全な場所にいられるしね。元気そのものだよ」
彼女は胸を張って、努めて明るくそう言った。
その健気さが、翔太の胸を微かに締め付ける。
本当は、まだ恐怖の残滓が心を蝕んでいるのかもしれない。
それでも、心配をかけまいと気丈に振る舞っているのだろう。
そんな二人に、子猫の姿のアーベルが割り込み、深く、丁寧に頭を下げた。
「涼子さん、翔太さん、本当に申し訳ありませんでした」
「私の危機管理アルゴリズムにおける脅威レベル判定、及び予測回避シーケンスに重大な欠陥がありました。敵性存在の接近を許し、翔太さん、涼子さんを危険に晒してしまった。この事態を招いた全責任は、私にあります」
その声は合成音声でありながら、プログラムされた謝罪以上の、深い悔恨と自己批判の響きを帯びているように聞こえた。
「そんなことない!」
涼子が慌てて首を横に振る。
「アーベルが悪いだなんて、全然思ってないわ。油断してたのは、私たちも同じなんだから……」
「そうだな」
翔太も同意し、アーベルに向き直る。
「アーベルだけのせいじゃない。まさか、チャンみたいな奴らがいるなんて分かってなかった。俺たちが甘く考えてた結果だ。むしろ、あの状況で涼子を直接傷つけさせずに救出出来ただけでも上出来だ。今回は本当に助かったよ、アーベル」
だが、アーベルはゆっくりと頭を上げたものの、その耳は垂れ下がり、申し訳なさそうなままだった。
「それでも……私は、あなた方に協力してもらってリスクを負わせてしまっている。それなのに脅威から保護することができなかったという事実は、いかなる理由があろうと変わりません。私は……失敗したのです」
AIらしからぬ、感情的な自己否定の言葉。
翔太は苦笑いを浮かべ、アーベルにそっと手を伸ばした。
額から耳のあたりへ、毛並みの流れに沿って、できるだけやさしく、風のように撫でた。
「後悔しても仕方ないだろ。終わったことをくよくよするなんて、アーベルらしくない。次にどうするか、これからのことを考えよう、相棒」
アーベルは、翔太の手の感触を認識しているかのように、ほんの少しの間、動きを止めていた。やがて、そのエメラルドの目が微かに光を増す。
「……ありがとうございます、翔太さん。あなたの言う通りです。過去の分析と反省は継続しますが、同時に、未来におけるリスクを最小化するための具体的な対策を実行しましょう」
アーベルはそう言うと、すっと翔太から離れた。
「あなたたち二人を、より確実に守るために。これを渡します」
アーベルが軽く尻尾を振ると、球体に補助アームが取り付いているアーベルのサブユニットが現れた。
それは銀色のトレイを運び、翔太と涼子の前のテーブルにそっと載せる。
トレイの上には、シンプルなデザインの銀色のバングルが二つ、並んで置かれていた。
「これは、私のナノマシン技術を応用した個人用防護装置、《パーソナル・プロテクティブ・ギア》です」
アーベルが説明を始める。
「装着者の生体情報と常時リンクし、その体表を覆い保護します。外部からの物理的な衝撃を検知すると、瞬時に運動エネルギー拡散フィールドを生成します。フィールド強度は可変ですが、最大出力時には至近距離から発射された9ミリパラベラム弾程度の運動エネルギーならば、ほぼ完全に吸収・無力化することが可能です。ライフル弾等であれば衝撃は感じますが貫通はしません」
翔太と涼子は、その説明に目を見張った。
「さらに、内蔵されたバイオセンサーが装着者のバイタルサインを24時間体制でモニタリングします。心拍、血圧、脳波、体温、血中酸素濃度などの異常を検知した場合、あるいは生命活動の危機的状況を判断した場合には、応急的な生命維持措置として、循環補助、呼吸補助、神経刺激、そして限定的な組織修復可能な薬剤の注入を自動的に行います」
「そして、最も重要な機能として、このデバイスは私のメインネットワークと量子通信によって常時接続されています。装着者の現在位置、バイタルデータ、周辺環境のセンサー情報がリアルタイムで共有され、私の状況認識能力を大幅に向上させます。万が一、装着者が意識不明に陥る、あるいは外部からの通信妨害を受けるような事態が発生しても、デバイス自体が自律的に最高優先度の救難シグナルを発信。私が即座に状況を把握し、救出、あるいは反撃行動を含む最適な対処を実行します」
それは、アーベルという超知性体と常時接続された、究極のセーフティネットそのものだった。
アーベルの説明は続く。
「エネルギー源は装着者の生体エネルギー変換と環境エネルギー吸収を併用しており、通常使用であれば半永久的に稼働します。また、外部からのハッキングやEMP攻撃に対する防御も、現行人類の技術レベルでは突破不可能です」
「すごい……」
涼子が、感嘆とも畏敬ともつかない、か細い声を漏らした。
まるで魔法のアイテムのようだ。
「さあ、装着してください。あなた方の安全確保のため、必須の装備となります」
アーベルに促され、翔太と涼子はそれぞれバングルを手首に着けた。
肌に触れると、ひんやりとした金属の感触。
手首のサイズに合わせて自動的に調整され、カチリ、と微かなロック音がした。
その瞬間、バングルの滑らかな表面全体から、銀色の、まるで液化した金属のような、あるいは極微細な粒子でできた霧のようなものが、シュッと音もなく噴き出したのだ。
それは一瞬にして全身へと広がり、まるで第二の皮膚のように、薄い、光沢のある膜となって身体をぴったりと覆い尽くす。
全身が滑らかな銀色の液体金属に包まれる。
視界までもが一瞬、銀色に染まる。
しかし、それも束の間。
そのメタリックな光沢は急速に薄れ、まるでカメレオンが保護色に変化するように周囲の光に溶け込むように透明になっていく。
そして最後には、まるで最初から何も着けていなかったかのように、完全に肌の色と同化して見えなくなった。
手首のバングルだけが、その存在を静かに主張している。
「うわ……!」
涼子は驚きの声を上げ、自分の腕や手の甲を何度もまじまじと見つめた。
指で触れてみても、そこには自分の肌の感触しかない。
「すごい……本当に、何も着けてないみたい。重さも全然感じない……」
皮膚に直接馴染むような不思議な感覚。
締め付けられる感じも、何かを羽織っている感覚も全くない。
しかし、意識を集中すると、全身が薄い、しかし強固な何かに守られているような、不思議な感覚があった。
翔太も自分の手首で静かに存在を示すバングルを興味深そうに指で弄った。
指先で触れる滑らかな感触は、確かに金属のものだ。
それが今、全身を覆う見えないナノマシンと繋がっているとはにわかには信じがたい。
彼は試しに、軽く自分の腕を叩いてみた。
コツン、という硬質な音が微かに響き、痛みは全く感じなかった。
まるで、薄いガラス板を叩いたような感覚だ。
「本当は昨晩、これらのパーソナル・プロテクティブ・ギアをお渡ししようと、最終調整を行っていました。しかし、その準備が完了する直前に、敵性存在の襲撃が発生してしまったのです」
「襲撃は本当にタイミングが悪かったのか……」
翔太の呟きに、アーベルはわずかに間を置いて答えた。
「また、住居については今後はこちらの地下で暮らして頂きたいと考えています。現在、住まわれている翔太さんの家はそのまま残し、不審人物に対するデコイとして活用します」
「あの家、隙間風も酷かったからな……でも、友達とか、宅配便とか、来客の対応はどうするんだ?」
「それもありますね……こちらの施設からアクセスできるように地下通路を改造しておきます」
「家一軒が客間みたいなもんか……すごい贅沢だな」
「それから結局、聞けてなかったけどいつの間にあんなドローンやロボット作ってたんだ?なんの話も無かったじゃないか」
「ええ、もう少し数を揃えてからお披露目しようと考えていたのです……なにせ……」
アーベルがその質問に一つ一つ律儀に答えている、その時だった。
涼子のスマートフォンが、不意に震えだし、着信を知らせる軽快なメロディを鳴らし始めた。
涼子はハッとして会話から意識を引き戻し、自分のスマホをポケットから取り出し手に取る。
液晶画面に表示された発信者名を見て、彼女の表情がわずかに曇った。
【兄貴】
驚きと、そして理由の分からない、ほんの少しの不安が彼女の顔に浮かぶ。
その画面表示に、翔太とアーベルも同時に気づいた。
翔太はアーベルへの質問をぴたりと止め、心配そうに涼子を見た。
アーベルも、その視線を涼子のスマホ画面に固定している。
三人の間に、一瞬にして緊張が走った。
一つの危機が去ったばかりのこのタイミングでの、南川仁からの電話。
それは、新たなトラブルの発生を予感させるものだった。
まさか、南川夫妻の身に何かあったのだろうか?
部屋に満ちていた安堵の空気は急速に薄れ、代わりに重たい不安の影が差し込んでくる。
涼子は数秒間、着信画面をただ見つめていたが、やがて意を決したように小さく息を吸い込み、震える指で通話ボタンをスライドさせた。
「……もしもし、兄貴……?」
不安げな声が、静まり返った部屋に響いた。
翔太とアーベルは、固唾を飲んで涼子の様子と、電話の向こうから聞こえてくるであろう言葉を待っていた。




