5-10
その日の午後、松本警部補と矢沢巡査は、市内の総合病院へと向かっていた。
昨夜、港湾地区の古い倉庫で発生した、奇妙な事件。
その重要参考人であり、自身も重傷を負って搬送された男、チャン・ユーハオから事情を聴くためだった。
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病院特有の消毒液の匂いが鼻をつく。
廊下を行き交う人々の足音やナースコールが響き、
案内された病室は、飾り気のない個室だった。
中央のベッドには、チャンが青白い顔で横たわっていた。
その目は虚ろに天井の一点を見つめ、焦点が合っていない。
顔色には血の気がなく、まるで蝋人形のようだ。
左の手首には分厚い包帯が痛々しく巻かれている。
反対の右手首には手錠が繋がれ、ベッドから逃げられないように拘束されていた。
腰から下は、動かないように医療用の器具で厳重に固定されていた。
おそらく何かに蹴り飛ばされたか、殴り飛ばされた際の衝撃による骨盤か脊椎の損傷を疑われているのだろう。
点滴の管が彼の腕に繋がれ、モニターが微弱な電子音と共にバイタルサインを表示している。
松本は、ベッド脇に置かれていたパイプ椅子を静かに引き寄せ、チャンと視線が合う位置に腰を下ろした。
矢沢はその横で、録音と翻訳ができるアプリケーションを起動したスマホを手に直立している。
「チャン・ユーハオさん、聞こえるか? 横浜港署の松本だ。少し話を聞かせてもらいたい。昨日の夜、あの倉庫で、一体何があったんだ?」
松本の声は、努めて穏やかだった。
だが、その落ち着いた声音の奥には、長年の経験に裏打ちされた刑事特有の鋭さが潜んでいる。
相手を刺激せず、しかし核心に迫ろうとする探るような響きを持つ声音だ。
チャンは、松本の呼びかけに反応し、焦点の定まらない虚ろな目でゆっくりと彼の方を見た。
その唇が微かに震え、何かを言おうとするが、言葉にならない。
乾いた喉から、途切れ途切れに、掠れた声が絞り出される。
「……ひ、光……ま、眩しい…光が…突然……ものすごイ……音……爆発みたイな……何か……何か、黒い……でっカい……化け物……化け物が、来た……!」
その言葉は恐怖そのものが音になったかのようだった。
少し遅れて翻訳された文章がスマホに映し出される。
矢沢が松本にスマホの画面を見せた。
「化け物……? それは、人間じゃなかったということか? 誰か、他に人がいたのか? 君を襲ったのは、誰なんだ?」
松本は、チャンの言葉尻を捉え、さらに問いを重ねる。
声はあくまで穏やかだが、その目はチャンの一挙手一投足、表情の微細な変化も見逃すまいと鋭く観察していた。
しかし、チャンは痛みを堪えながらも必死に首を横に振る。
その動きすら、今の彼には苦痛のようだ。
「……わ、わからなイ……顔なんて……なカった……。俺は、撃っタ……けど、効かなかった……! そしテ、何か……腕に……打ち込まれテ……。あ、あトは……天井が……天井が、落ちてきテ……! 化け物、そうだ、化け物がぁぁぁッ!!」
彼の声は次第に制御を失い、理性を失った恐怖の叫びへと変わっていった。
ベッドの上で、固定されているにも関わらず、必死に身を捩ろうとする。
モニターのアラームがけたたましく鳴り響き、その異常事態に気づいた看護師が慌てて病室へと駆け込んできた。
「落ち着いて! 大丈夫ですから!」
看護師は手慣れた様子でチャンをなだめながら、鎮静剤を彼の点滴ラインへと投与する。
薬剤が急速に効き始めると、チャンの激しい興奮は徐々に収まり、抵抗する力も失われた。
そして、彼は再び深い眠りの中へと落ちていった。
安らかな寝顔とは程遠い、苦痛に歪んだままの寝顔だった。
松本は静かに立ち上がり、矢沢と共に病室を後にした。
廊下を歩きながら、松本は重い溜息と共に呟く。
「……彼の話は、ご覧の通り支離滅裂だ。恐怖による錯乱か、あるいは薬物の影響も考えられる。だが、何か尋常ではないものを見た、体験したのは確かだろうな」
「ええ、あの怯えようは尋常ではありませんでした。まるで、現実とは思えないものに遭遇したかのようでしたね」
矢沢が同意する。
「特に気になるのは、『天井が落ちてきた』という部分だ。現場で見たあの天井の穴は、どう見ても下から爆破されたのではなく、上から、それもかなりの質量と力で突き破られたように見えた。チャンの証言がもし僅かでも真実を含んでいるなら、本当に誰か、いや……『何か』が、外部からあの部屋に侵入した可能性がある」
病院を後にし、パトカーで警察署へと戻る道すがら、松本の頭の中では、チャンの断片的な言葉と、昨夜現場で目にした異様な光景が繰り返し再生されていた。あの倉庫街で一体、何が起こったというのか。
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警察署に戻ると、松本は自席で腕を組み鑑識からの詳細な報告を待った。
そんな様子の松本を見ながら、矢沢は既に入ってきている初期の情報を整理し報告する。
「松本さん、鑑識からの第一報です。まず、天井の破壊についてですが、やはり爆発物によるものではなく、極めて強力な一点集中の衝撃によって破壊されたものと推定されるとのことです。破断面の詳細な分析から、外部、つまり屋上側から建物内部に向けて、非常に大きな力が加えられた可能性が高い、と。しかも、興味深いことに、破壊された箇所は、建物の構造上、最も強度が低い、脆い箇所をピンポイントで狙っているフシがあるそうです。まるで、建物の設計図を熟知しているかのような、正確さだと」
「……専門家の仕業ということか?ただ壊したのではなく、効率的に侵入するために、最も弱い部分を狙った、と」
松本は眉間に皺を寄せ、呟いた。
矢沢は続ける。
「次に、床に残されていた圧痕ですが、これも奇妙です。複数箇所で確認されており、その形状は、既知の人間の靴跡や、車両、重機などのキャタピラやタイヤ痕とは、全く一致しません。非常に複雑な形状をしており、鑑識も首を捻っています。さらに、その圧痕から推定される重量ですが……少なくとも、約500キログラム以上の荷重がかかったと見られています」
「ご、500キロだと? それはどういうことだ? そんな重さの人間がいるわけがない。ましてや、そんな複雑な足跡を残すようなものは……」
しばらく無言で考えていた松本がポロリと溢した。
「チャンが見たという『化け物』は、あながち嘘や幻覚ではなかったのかもしれんな」
松本の声には、困惑と共に、これまで感じたことのない種類の未知のものに対する不気味な感覚が混じり始めていた。
「それから、現場に残されていた拳銃、及び薬莢から検出された指紋は、全てチャン・ユーハオ本人のものと一致しました。硝煙反応も、彼の着衣と右手から検出されています。彼が発砲したのは間違いないようです」
「ふむ、そこは予想通りか。それで、ナイフの方は?」
「チャンの指紋が検出されています。刃先などからは血痕は検出されていません。チャンが左手で握って取り落としただけだと推測されます」
松本は病院で見たチャンの左手の様子を思い出す。
強い力で殴りつけられ、彼の手首は折れていた。
「そして、被害者が縛られていたパイプ椅子や、床に落ちていた結束バンドの残骸からは、チャンとは異なる、被害者本人と思われる微細な皮膚組織が付着していました。誘拐・監禁の事実は裏付けられましたが、犯行グループの他のメンバーに繋がるような物証は、今のところ何も……。まるで煙のように消えたとしか」
矢沢の報告を聞きながら、松本は腕を組み、深く考え込んでいた。
誘拐された人物は、何かによって救出された、あるいは連れ去られた。
チャンはその『何か』と遭遇し、抵抗したが、圧倒的な力の前に制圧され、重傷を負った。
ここまでは推測できる。
だが、その『何か』の正体が全く掴めない。
松本の頭に、再びチャンの言葉が、断片的に蘇る。
「光……眩しい光……」
現場では、停電があったという報告も入っている。そして、爆発音のような衝撃音。
天井の破壊痕。
500キロを超える異常な圧痕。
そして、忽然と消えた被害者。
この事件は、もはや通常の誘拐事件や、犯罪組織間の抗争といった、これまでの捜査経験で培ってきた常識的な枠組みでは、到底説明がつかない。
松本は、自分のデスクの上に無造作に置かれた、事件現場の写真がクリップされたファイルを、ただ黙って見つめていた。
写真には、天井にぽっかりと空いた不自然な大穴と、床に残された奇妙な圧痕が、無機質なフラッシュの光に照らし出されている。
その瞬間、松本の背筋を、ぞくりと冷たいものが走った。
この事件は、もしかしたら、チャン・ユーハオという個人的な暴走、金目当ての誘拐という、ありふれた犯罪がきっかけであったのかもしれない。
だが、その後に起こったことは……?
何者かが介入し、チャンを制圧し、被害者を連れ去った。
その『何者か』は、明らかに人間の能力を超えた、あるいは人類の知らないテクノロジーを有する存在なのではないか?
そんな荒唐無稽な考えが、ベテラン刑事である松本の頭をよぎり、そして、奇妙な説得力を持って、否定できない可能性として残り続ける。
これは、自分たちがこれまで対峙してきた犯罪とは、全く質の異なるものなのかもしれない。
もっと大きな、自分たちの理解や常識を遥かに超えた、何か得体の知れないものが関わっているのではないか?
「あとは現場の近くに停めてあったバンからチャンともう一人、別人の指紋が取れました。今はこの車がどこを通ってきたのか、各地の監視カメラ映像を当たっています」
矢沢がパタリと手元の資料を折りたたんだ。
松本は、デスクの上のファイルから目を上げ、窓の外に広がる灰色の空を見上げた。
事件は解決に向かうどころか、より深く、より不可解な迷宮へと足を踏み入れようとしている気がしていた。
そんな不吉な予感だけが、重く彼の心にのしかかっていた。




