5-8
横浜の倉庫街は、早朝特有のひんやりとした空気に包まれていた。
オレンジ色に染まり始めた空の下、古びたトタンの建物群が影絵のように並ぶ。
しかし、普段とは違う異質な光景が広がっていた。
けたたましいサイレンの音はすでに鳴り止んでいた。
複数の警察車両が倉庫街の路上に点々と停まっている。
赤い回転灯だけが虚しく瞬いていた。
一本の黄色の規制線が、事件現場となった古い三階建ての倉庫を取り囲んでいる。
立入禁止の文字が印刷されたテープは、ぴんと張り詰められ、日常と非日常の境界線を明確に引いていた。
規制線の外側には、野次馬らしき数人の人影が、不安げな、あるいは好奇心に満ちた視線を倉庫に向けている。
午前8時ちょうど。
一台の警察車両が規制線の手前で止まった。
運転席から降りてきたのは、松本警部補。
くたびれたベージュのトレンチコートを羽織り、その下のスーツは少し皺が寄っている。
無精ひげを生やした顎を摩りながら、鋭い眼差しで現場のビルを捉えていた。
その姿からは、年の功を感じさせる落ち着きと、長年のキャリアで培われたであろう刑事特有の威圧感が感じられた。
助手席からは、まだ年若い印象の矢沢巡査が慌ただしく降り立った。
動きやすさを優先したのか不自然に腕が捲られている。
少し不安そうな表情で倉庫を見上げていた。
松本は、ゆっくりと現場の倉庫へ向かった。
それは、かつて賑わいを見せたであろう倉庫街の中でも、特に時代に取り残されたような、打ち捨てられた雰囲気を纏った建物だった。
外壁のコンクリートは剥がれ落ち、鉄骨が錆びついている。
窓ガラスは外から見えないように内側からトタンで塞がれ、いくつかは割れたまま放置されていた。
しかし、松本の視線は、建物の古さや寂しさではなく、その頂点に向けられていた。
倉庫の屋上付近。
そこに、明らかに不自然な損傷があった。
まるで巨大な拳で叩き割られたかのように、天井の一部がごっそりと破壊されているのだ。
コンクリートの破片が露出した鉄骨に絡みつき、その下には、内部の暗闇が覗いている。
朝陽の光が、破壊された断面に斜めに差し込み、そこにあるべきではない穴の存在を、より一層際立たせていた。
松本は、その光景を険しい表情で見上げた。
顎を少し突き出し、目を細める。
「随分と派手にやったもんだ」
その呟きは、怒りとも感嘆ともつれない響きを持っていた。
矢沢は、手元のクリップボードに挟まれた報告書に目を落とし、少し緊張した面持ちで読み上げた。
「昨晩、午前5時過ぎに、この付近で複数回の爆発音と局所的な停電が発生したとの通報が相次ぎました。通報を受け、所轄の警察官が付近を捜索したところ、この建物が不自然に破壊されているのを発見したとのことです」
矢沢の声は、現場の異常さに引きずられるように、わずかに震えていた。
「それで?」
松本は、視線を破壊された屋根から矢沢に移した。
その目は、報告の続きを促している。
「建物内部を捜査したところ、3階の部屋で、負傷した男性が気を失って倒れているのを発見しました。意識がなかったため、直ちに救急隊を要請し、病院へ搬送しました。その男性の傍らで、自動拳銃が一丁と、複数の薬莢、それにサバイバルナイフが発見されました」
松本は、報告を聞きながら、ゆっくりと顎を撫でた。
発見された物品は、犯罪組織間の抗争でよく見られるものだ。
しかし、それらはこの建物の破壊状況と結びつかない。
規制線を超え、倉庫の中へと足を踏み入れる。
内部は薄暗く、埃っぽい空気が漂っていた。
古びたコンクリートの階段は、踏むたびに軋んだ音を立てる。
壁には煤けたような汚れがこびりつき、頻繁には人の出入りがなかったことを物語っている。
三階へ続く階段を昇りながら、松本は現場にいた男性のことについて尋ねた。
「その男性は?」
矢沢は、報告書を捲りながら答える。
「身元は判明しています。チャン・ユーハオ、38歳。中国籍です。元は、あの悪い意味で名の知れた企業、山寨龍科技の課長を務めていたようです。社内ではかなり優秀だったそうですが、先月、何らかの理由でクビになり、それ以降は定職に就かず、国内を転々としていたようです。病院での容態ですが、意識は取り戻したものの、錯乱が酷く、まともに事情を聞くことができていません」
松本の眉間に深い皺が寄った。
「錯乱?薬物か何かか?」
「はい。尿検査の結果、覚せい剤の陽性反応が確認されました。怪我の状態も酷く、全身に打撲の跡がありますが、特に左手首と腹部を、まるで角材か何かで強く、殴られたような痕跡があります」
松本は何も言わずに頷いた。
薬物、暴力。
それだけならば、よくある組織間の抗争による事件に見える。
しかし、この異常な破壊は、それだけでは説明がつかない。
目的の部屋の前にたどり着いた。
ドアは歪み、今にも外れそうになっている。
松本は躊躇なく、その歪んだドアノブに手をかけた。
ドアを開けた瞬間、鼻腔を突き抜ける匂いに、二人は眉をひそめた。
それは、紛れもない硝煙の匂いだ。
しかし、それに混じって、どこか焦げ付いたような、金属が焼けたような異様な匂いも漂っていた。
部屋の中央に足を踏み入れた二人の目に飛び込んできたのは、想像を絶する光景だった。
天井には、文字通り「穴」が空いていたのだ。
それも、巨大な穴だ。
直径はおよそ3メートルはあるだろうか。
それはまるで、屋根上から何かが、この建物を貫いて落下してきたかのようだった。
破壊された天井のコンクリート片、折れ曲がった鉄骨、剥き出しになった断熱材が、部屋中に無残に散乱している。
床には細かい破片や粉塵が積もっていた。
矢沢巡査は、その凄まじい破壊の跡に、思わず息を呑んだ。
彼の若い顔に、驚愕と畏怖の感情がありありと浮かんでいる。
「これは……一体、どうやって……?」
声にならない呟きが、喉から漏れた。
彼の経験してきたどの事件現場ともかけ離れた光景だ。
手榴弾や爆弾を使っても、これほどの破壊がこの程度の被害で起こるとは考えにくい。
対照的に、松本警部補は冷静だった。
もちろん、その顔には驚きの色が浮かんでいたが、彼の目はすでに、この異常な状況を分析しようと辺りを探っていた。
「矢沢、全体の記録写真を撮れ。広角から、破壊された天井を中心に、部屋全体を漏れなく写せ。鑑識はもう到着しているか?」
「はい、先に入って、すでに準備を始めています」
「よし。鑑識には、特に天井の破壊状況から重点的に調べてくれと伝えてくれ。破壊の方向、使われたであろう力、瓦礫の散らばり方、全てだ」
部屋の片隅では、すでに鑑識課員たちが、ブルーシートの上に道具を広げ始めていた。
彼らもまた、目の前の光景に少なからず動揺している様子だったが、プロとして淡々と作業に取り掛かろうとしていた。
松本警部補は、ゆっくりと部屋の中央へと歩みを進めた。
足元に散乱する瓦礫が、彼の靴の下で嫌な音を立てる。
天井を見上げ、眉間をさらに深くひそめた。
〜あとがき〜
昨日投稿の文字化け表現のお話について
想像以上に端末ごとで見え方に大きな相違があるようで作者もビックリしてます。
見え方、全然ちげぇじゃねえかって方はコメント欄で教えて下さい。
以上!




