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横浜の倉庫街を吹き抜ける風は、冬特有の鋭さで肌を刺した。
海から運ばれてくる湿った冷気が、剥き出しの鉄骨を舐め、鼻腔の奥に錆と塩の混ざった独特の匂いを届けていた。
近藤は、着古したパーカーのフードを目深に被り、悴んだ手でコンビニのビニール袋を握りしめていた。
吐く息は白く濁り、すぐに闇に溶けて消える。
左頬のあたりが、鈍く疼いた。
昨日、チャンと共にアジトに誘拐してきた女――南川涼子に殴られた跡だ。
薬から目覚めたばかりの状況にもかかわらず、あの女は恐怖よりも怒りを湛えた瞳で睨みつけ、渾身の力で殴りつけてきたのだ。
あの女……いつか痛い目に合わせてやる。
心の中で暗い闇が渦巻く。
考えれば考えるほど、イライラした記憶が蘇る。
『近藤! さっさと飯を買ってこイ! 腹が減っタ!』
幻聴のように、チャンの甲高い声が脳内で再生される。
あの独特の、人を小馬鹿にしたようなイントネーションと、常に何かを探るようにギラついた爬虫類のような目。
あの男は、近藤の生命線を物理的に握っていた。
運転免許証、マイナンバーカード、いくつかの銀行のキャッシュカード、そして自身が逃亡するためのパスポート。
それら全てが、チャンの手の中にあるはずだ。
チャンがその気になってネットにでも晒そうものなら、社会的な命脈は完全に絶たれる。
いや、もはや「社会的」などという体裁はとうに失われているのかもしれない。
既に、人生そのものが終わっているのだ、たぶん。
ほんの数ヶ月前まで、オーダーメイドではないにしろ、それなりに値の張るスーツに身を包み、部下に指示を飛ばす立場だった。
課長の椅子に座り、安定した給料を得て、週末には気の進まない得意先とのゴルフに興じる。
それが、ありふれた、しかし確かな日常だったはずだ。
だが、たった一つの過ちが、脆い砂の城のように全てを崩壊させた。
落ちぶれていく中で、翔太の家から盗みだせた除染技術に関する設計図。
その設計図が致命的な誤情報――意図的に改竄されたデータだったことが露見し、関わった複数の企業から億単位の損害賠償請求を示唆された。
なんなら後ろ暗い会社からは命を狙われている。
恐怖に駆られて飛び出し、身分を偽って日雇いの仕事を転々とする日々。
そんな逃亡生活の果てに、空港でチャンに捕獲された。
弱みを握られ、文字通り生殺与奪の権を掌握されてしまった。
今の近藤の「住まい」は、その倉庫ビルの3階にある一室だ。
部屋とは名ばかりの、コンクリート打ちっぱなしの埃っぽい空間。
窓にはひびが入り、壁には黒いカビが染みのように広がっている。
そこに薄汚れたマットレスが一枚と、カビ臭い毛布が数枚。
それが彼の生活空間の全てだった。
チャンから与えられる「報酬」は、その日の空腹を満たすだけの最低限の食事と、チャンの機嫌が良い時に限り、施しのように与えられる安物の焼酎だけ。
今日の「仕事」は、南川涼子の誘拐の手伝いだった。
明日は、どこの港からか仕入れた怪しい薬物の運搬かもしれないし、あるいはもっと汚い、想像もしたくないような類の「仕事」かもしれない。
断るという選択肢は、近藤にはなかった。
コンビニからの帰り道、近藤はふと足を止めた。
冷たいアスファルトを踏みしめ、自分が寝起きしている古びた倉庫ビルを見上げる。
3階の窓から、頼りない、薄汚れた黄色い光が漏れていた。
チャンは今頃、あの部屋で何を……。
連れ込んだ南川涼子を、どう扱っているのだろうか。
翔太を撃ち殺されたことを知り、絶望した女を前に、あの男は特有の粘つくような視線で嬲り、辱めているのかもしれない。
想像すると、胃の腑が不快にざわついた。
だが、その不快感の奥底に、どす黒い、歪んだ羨望が微かに蠢いているのを近藤は自覚していた。
今の自分には何も無い。
力も、金も、そして女さえも。
全てを奪われた自分。
「…くそっ」
小さく悪態をつき、再び歩き出そうとした、その瞬間だった。
夜の静寂を切り裂いて、轟音が響き渡った。
ビリビリと空気が震え、地面が微かに揺れる。
それは単なる物音ではなかった。
もっと破壊的な、構造物が軋み、砕け散るような衝撃音。
音源は、見上げていた倉庫ビルの屋上付近らしかった。
直後、屋根の一部から大量の粉塵が夜空に舞い上がった。
間髪入れずに、閃光が走った。
強烈な白い光が網膜を瞬き、天に向かって走る。
次の瞬間、倉庫街を照らしていた街灯が一斉に消えた。
ぷつり、と糸が切れるように暗闇が、急速に辺りを飲み込んでいく。
「うわっ!」
近藤は驚きのあまり、手にしていたコンビニの袋を落とした。
袋がアスファルトに叩きつけられ、中身の弁当やペットボトルが鈍い音を立てて転がり出る。
しかし、それを拾う余裕はなかった。
本能的な恐怖が、彼の身体を突き動かした。
咄嗟に、一番近くにあった錆びた電柱の陰へと飛び込み、身を屈める。
心臓が、肋骨を内側から激しく叩いていた。
「な、なんだ……? 何が起きたんだ……?」
荒い息を整えながら、恐る恐る電柱の陰から倉庫ビルを見上げる。
そして、近藤は自分の目を疑った。
信じられない光景が、そこには広がっていた。
闇に沈んだ倉庫の、破壊された屋根の残骸の中から、何かが浮かび上がってきた。
それは、巨大な蜘蛛だった。
だが、生物ではない。
鈍い金属光沢を放つ、機械の蜘蛛だ。
月光がわずかに雲間から差し込み、その異様な姿を照らし出す。
しなやかに、しかし滑らかに動く8本の金属製の脚。
全長は…3メートルは優にあるだろうか。
いや、もっと大きいかもしれない。
それは、まるで軍事用ドローンと多脚歩行ロボットが悪夢の中で融合したかのような、異形の機械だった。
近藤は息を殺し、身じろぎもせずにその光景を見つめていた。
恐怖で全身の血が凍りつくような感覚。現実感が希薄になっていく。
次の瞬間、信じられないことが起こった。
巨大な蜘蛛の輪郭がぐにゃりと歪んだ。
まるで陽炎のように。
そして、次の瞬間には、フッと掻き消えるように透明になり、夜空の闇に完全に溶け込んでしまったのだ。
何の音も、痕跡も残さずに。
光学迷彩、とでもいうのだろうか。
「……ぁ……」
声にならない声が、近藤の喉から漏れた。
腰が抜け、その場にへなへなと尻餅をつく。
ガタガタと膝が震え、止めどなく冷や汗が背筋を伝っていくのが分かった。
さっきまでの寒さなど、どこかに吹き飛んでしまっていた。
ただ、圧倒的な理解不能な存在への恐怖だけが、全身を支配していた。
遠くから、微かにサイレンの音が聞こえ始めた。
徐々に、その音は大きくなってくる。
警察か、あるいは消防か。
どちらにせよ、チャンのアジトが、とんでもないトラブルに巻き込まれたことだけは確かだった。
あの機械蜘蛛は、一体何だったのか?
誰が、何のために? チャンは? あの女は?
考える余裕はなかった。
恐怖が、近藤の思考を麻痺させていた。
ただ、ここから逃げなければならない。
その一心だけが、彼を突き動かしていた。
近藤は、震える脚でよろよろと立ち上がると、先ほど落としたコンビニの袋には目もくれず、倉庫ビルに背を向け、闇の中へと無我夢中で走り出した。
コンビニ弁当とペットボトルが、電柱の影に転がっていた。




