5-2
アーベルの静かな声が、無機質な部屋の空気を震わせた。
「まず、貴方が撃たれてから、現時点で約二時間が経過しています」
翔太は、アーベルに寄り添われて戻ったベッドの上で、その言葉を聞いていた。
まだ頭の芯に鈍い痛みが残っており、視界の隅で天井にはないはずの無機質な模様がゆらりゆらりと揺れているように感じる。
二時間。
気を失っていたのはたったそれだけの時間だったのか。
「やっぱり……夢じゃなかったんだな……撃たれたのも、涼子が連れて行かれたのも……」
呟きは、現実の重さを再確認させる響きを持っていた。
頭を抱えている暇はない。
失われた時間を取り戻さなければ。
翔太は再び身を起こそうとベッドの縁を掴む。
彼の意識は、囚われた涼子へと向いていた。
「涼子は! 涼子は無事なのか!?」
焦燥に駆られた声が飛ぶ。
アーベル――今は黒い子猫のような姿の彼女は、その問いに小さく、しかしはっきりと頷いた。
「涼子さんについては、ご心配なく。拉致に使用された車両は、私の展開したドローンと既存の交通監視システムにより、現在も追跡中です。先ほど、東京湾アクアラインを通過し、神奈川県方面へ向かっていることが確認されました。位置情報はリアルタイムで更新しています」
「そうか……神奈川……」
ひとまず無事であること、そして追跡が続いていることに翔太はわずかに安堵の息をついた。
だが、安堵は一瞬で、すぐに焦りが胸を焼く。
神奈川県は広い。
どこに連れて行かれるかわからない。
それに彼女に何をされるかわからない。
一刻も早く追いかけなければ。
彼は拳を握りしめ、今度こそ立ち上がろうと足に力を込めた。
だが、やはり体は言うことを聞かない。
膝が笑い、視界が白み、ぐらりと体が傾ぐ。
まるで全身の筋肉が弛緩してしまったかのようだ。
「……っく、なんでだよ……!」
歯噛みする翔太のそばに、小さなアーベルがすり、と音もなく寄り添った。
そして、驚くほどしっかりとした力で、その柔らかそうな前脚を翔太の腕に添え、ベッドへ戻るよう優しく、しかし有無を言わせぬ力で促す。
「翔太さん。無理はいけません。どうか、落ち着いて聞いてください。……貴方に打ち込まれた銃弾は、合計で六発でした」
その言葉は、冷たい水のように翔太の昂ぶった神経に染み渡った。
彼は息を呑み、動きを止める。
六発? 腹部に受けた、あの焼けるような一撃は鮮明に覚えている。
だが、それ以外にも? 意識を失うまでの、わずかな時間の記憶は曖昧だった。
混乱と激痛の中で、何が起きていたのか……。
「そんなに……撃たれてたのか……俺は……」
それでいて、今、自分はここにいる。
傷一つない体で。
信じられない、という言葉では足りないほどの現実離れした感覚。
まるで悪質な冗談を聞かされているかのようだ。
アーベルは小さな頭をわずかに傾け、そのエメラルドの瞳で翔太を真っ直ぐに見つめながら、淡々と、しかしどこか痛みをこらえるように続けた。
「右胸部に二発。腹部に、最初の一発を含めて三発。そして……」
一瞬の間。
その沈黙が、次に来る言葉の重さを予感させた。
「……最後の一発は、貴方の右目から側頭部にかけて貫通しました」
時が止まったかのように感じた。
右目から、側頭部へ?
つまり……
脳を、撃ち抜かれた?
その瞬間、翔太の中に、ぞわりと冷たいものが背筋を駆け上った。
それは恐怖というよりも、もっと根源的な、存在そのものが揺るがされるような感覚だった。
彼は反射的に、震える右手で自分の右目あたりに触れた。
そこにあるはずの、破壊されたであろう感触はない。
眼球は確かにつぶれておらず、瞼も正常に動く。
視界にも異常はない。
思考も、今こうしてアーベルの話を聞き、恐怖を感じている通り、明晰だ。
けれど、指先に触れる皮膚の感覚が、どこか……おかしい。
まるで薄い膜が一枚隔てているかのように、生々しい体温や弾力が希薄なのだ。
ひんやりとした、無機質な感触。
自分の体でありながら、どこか借り物のような、言いようのない違和感。
アーベルが、その疑問に答えるように言葉を続ける。
「なぜ貴方が今、五体満足で生きていられるのか。それは……」
彼女の声は直接、翔太の脳内に響き渡った。
『貴方が銃撃によって失った大量の血液、破壊された臓器、そして欠損した脳組織の一部までも……その全てを、私のボディを構成していたナノマシンによって、補填・代用しているからです』
音ではない。
思考そのものに直接、情報が流れ込んでくるような、奇妙な感覚。
まるで神経の回路に、彼女の言葉が直接、電気信号として刻み込まれていくようだ。
「翔太さん……現在、貴方の身体組織のおおよそ一〇パーセントは、私のナノマシンによって機能しています」
アーベルは、今度は口を開いて、そう告げた。
翔太は、しばらく言葉を失って、ただ呆然と自分の手を見つめた。
指を曲げ伸ばしする。
動く。
呼吸もしている。
胸に手を当てれば、確かに心臓の鼓動も感じられる。
だが、その一部は、この小さな黒猫の……いや、高度な知性を持つ宇宙船のコアの体を作っていたナノマシンで出来ている?
「……俺は……サイボーグにでも……なっちまったってことか……?」
絞り出した声は、自分でも驚くほど乾いていて、実感がこもっていなかった。
サイボーグ。
その言葉が、やけに空々しく響く。
見た目は何も変わらない。
だが、中身は? 自分の意志で動いているこの体は、本当に「自分」と言えるのだろうか。
生きているのか。
それとも、ナノマシンによって「生かされている」だけなのか。
その問いがふと浮かび、重く冷たい錨のように、翔太の意識の底へと沈んでいく。
小さなアーベルは、その猫の顔を伏せていた。床の一点を見つめている。
「……申し訳ありません。私がもっと、人間の行動パターンにおける非合理性、特に追い詰められた際の短絡的な攻撃性を警戒しておくべきでした。彼らが銃器を所持し、躊躇なく使用する可能性……そのリスク評価を、私は致命的に甘く見ていたのです」
エメラルド色の瞳が、自責の念に静かに揺れていた。
普段は感情をほとんど表に出さない彼女の声が、今はわずかに震えているのが分かった。
「もし、私がもう少し早く危険を察知し、介入していれば……貴方がこのような状態になることは……涼子さんが攫われることも……防げたはず……」
その痛切な響きに、翔太は我に返った。
彼はそっと手を伸ばし、うなだれている子猫の姿のアーベルの小さな頭に、優しく手を置いた。
その毛並みは驚くほど滑らかで、温かかった。
ナノマシンの集合体であるはずなのに、そこには確かな生命感が宿っているように感じられた。
「いいんだ、アーベル。お前を責めるつもりはない。むしろ……お前がいてくれたから、俺は今、こうして息をして、話すことができてるんだ」
その声は、不思議なほど穏やかだった。
自分の身に起きた途方もない出来事への混乱や恐怖よりも、目の前の小さな存在への感謝が、今は勝っていた。
「……本当に、助けてくれてありがとう」
アーベルは、ゆっくりと顔を上げた。
大きな瞳が驚いたように瞬き、翔太を見つめる。
「翔太さん……ですが……」
「それに」
翔太は、彼女の言葉を遮るように続けた。
「まだ何も終わっちゃいない。そうだろ? 涼子を助けないと。あいつらに、好き勝手させてたまるか。俺たちの日常を壊した報いは、きっちり受けてもらう。だから……アーベル。もう少しだけ、俺に力を貸してくれ」
その言葉には、先ほどまでの弱々しさは微塵もなかった。
確かな意志と、揺るぎない決意が宿っていた。
翔太の言葉を受け、アーベルの瞳に宿っていた後悔の色が消え、再び強い光が灯った。
彼女は真っ直ぐに翔太を見つめ返し、力強く頷いた。
「はい、翔太さん。承知しました。私の持つ演算能力、情報網、そして……貴方の体の一部となったこのナノマシンの機能、そのすべてを、あなたのために」
小さな体から発せられたとは思えないほどの、頼もしい宣言だった。
部屋の空気が、再び張り詰めたものに変わる。
失われたものは大きい。
だが、失ったからこそ得たものもある。
彼は、新たな決意を胸に、これから始まるであろう反撃を見据えていた。




