4-10
意識が浮上する。
最初に感じたのは、頬を撫でる冷たい潮風だった。
次に、背中に食い込む硬い金属の感触。
目を開けると、天井に張り巡らされた鉄骨と、埃をかぶった裸電球の薄暗い光がぼんやりと視界に映った。
空気は湿気を帯び、錆と塩の匂いが鼻腔を刺す。
――ここはどこだ?
近藤は辺りを伺い、状況を把握しようとした。
両腕は後ろ手に縛られ、脚はパイプ椅子の脚にきつく括り付けられている。
ロープが皮膚に食い込み、動くたびに軋む音がする。
まるで展示品のように無防備に晒された自分の姿に、背筋が凍った。
頭がズキズキと痛み、意識が途切れる直前の記憶を辿ろうとするが、断片的な映像しか浮かばない。
空港のロビー、突然の衝撃、そして――誰かの冷たい笑い声。
薄暗い倉庫の中、隙間風が床を這い、遠くからかすかに波の音が聞こえてくる。
港か、埠頭か。
潮の匂いと静けさが、近藤の不安をさらに煽った。
「っ……くそ……!」
彼は無理やり体を捩った。
ロープがさらに食い込み、鋭い痛みが走る。だが、椅子はびくともしない。
足元で金属が小さく軋む音が響くだけだった。
心臓が早鐘を打ち、汗が額を伝う。
誰がこんなことを? なぜ自分なのか? 頭の中で疑問が渦巻くが、答えは見つからない。
その時――
ギイィ――
背後の鉄の扉がきしむ音が響いた。
重い金属音に、近藤の全身が強張る。
足音が一つ、また一つと近づいてくる。
ゆっくりと、だが確実に。
かすかに甘い香水のような異国の匂いが鼻先を掠めた。
背筋に冷たいものが走り、振り返ることもできないまま、近藤は息を呑んだ。
「ようやくお目覚めですカ、近藤さん。」
その声を聞いた瞬間、近藤の顔が引きつった。
聞き覚えのある、抑揚の強い日本語。
かつてのビジネスパートナーの声だ。
「……チャン、ユーハオ……!」
扉の向こうから現れたのは、チャン・ユーハオだった。
細身の黒いスーツに身を包み、鋭い目つきで倉庫の中央に歩み出る。
以前会った時よりもやつれたその顔には、どこか狂気の色が混じっていた。
髪は乱れ、目の下には濃い隈が浮かんでいる。
だが、その瞳は異様な光を放ち、近藤を射抜くように見つめていた。
「おい……こんなことしていいと思ってるのか……? 犯罪だぞ、これは!」
近藤は怒鳴りながら椅子ごと身を捩った。
ロープがさらにきつく締まり、皮膚が擦れる痛みに顔を歪める。
だが、焦りとは裏腹に、チャンはゆっくりと歩み寄るだけだった。
まるで獲物をじっくり観察する捕食者のように、余裕すら感じさせる歩みだった。
「まあ、話を聞いてくださいヨ。」
チャンの声は低く抑えられていたが、言葉の端々に怒りが滲んでいた。
彼は近藤の前で立ち止まり、細い指でメガネの位置を直した。
その仕草は一見冷静だが、指先が微かに震えているのが見えた。
「お前の持っテきたデータが偽物だっタせいで、私は上層部から外されタ。すべて、すべてお前のせいでナ!」
バシンッ!
突然、拳が近藤の頬を打った。
頭が横に跳ね、鈍い痛みが広がる。
口内に血の味がじわりと滲み、視界が一瞬揺れた。
「まるでおちょくっているカのように見る度に変わる設計データ……あれを仕込んだヤツはどこかデ俺らの様子を見て高笑いしてるんだろウ!」
チャンは苛立ったように叫び、部屋の中をうろつく。
そして、隣のパイプ椅子を引きずって近藤の正面に座った。
金属が床を擦る耳障りな音が、倉庫に響き渡った。
彼の目は血走り、だがどこか虚ろだった。
かつての自信に満ちたビジネスパートナーの姿はそこにはなく、追い詰められた男の影だけが残っていた。
「国にも帰れなイ……もう私の居場所はどこにも無くなったヨ……」
彼の声は怒りから深い諦念へと変わり、波の音が遠くから届く中で一層重く響いた。
しばしの沈黙。チャンは膝に肘をつき、じっと近藤を見つめた。
「だからな……俺をこんな目に合わせたやつに復讐してやろうと思ってナ。近藤、お前だけじゃ飽き足りなイ。」
ゆっくりと顔を近づけ、吐き捨てるように言った。
「データを持っテいた奴、そいつはどこにいるんダ?」
近藤はぐったりと項垂れたまま、答えない。
口から血が滴り、床に小さな赤い染みを作る。
チャンの目がさらに鋭くなり、苛立ちが再び膨らむのがわかった。
バンッ!
今度は拳が頬骨に当たり、鈍い衝撃が頭を揺さぶった。
呻き声が漏れ、椅子がガタンと揺れる。
「答えロ、近藤。どこのやつがデータを持っていたんダ?」
チャンの声は低く、抑えきれない怒りが滲んでいた。
沈黙が時間を引き延ばす。
波の音が、まるで近藤の心臓の鼓動と共鳴するように響く。
やがて、唇を切ったまま血をにじませた近藤が、震える声で口を開いた。
「……あいつ……だ。……高橋だよ……高橋の……やつの家から盗んだんだ。」
チャンの表情が一変した。
その目は、闇の中で炎を宿したように赤く輝いた。
まるで獲物を見つけた獣のように、口元に薄い笑みが浮かぶ。
「高橋、か……。」
呟きながら立ち上がり、ゆっくりと背を向けた。
「良い情報をありがとうナ、近藤さん。あとはそいつのとこに案内してもらおうカ。」
近藤は息を荒げ、椅子に縛られたままチャンの背中を見つめた。
恐怖と後悔が胸の中で渦巻き、頭痛がさらに強くなる。
波の音が近づき、遠ざかり、まるで彼の運命を嘲笑うようだった。
倉庫の薄暗い光の下、チャンの足音が徐々に遠ざかっていく。
そして、再び扉がギイィと軋み、静寂が戻った。
近藤は一人残され、縛られた身体を震わせた。
冷たい潮風が彼の頬を撫でる。
闇の中、波音が倉庫の隙間から響き続けていた。




