4-9
白昼の空に、火焔の柱が伸びていた。
和歌山の海岸線に設けられた発射台から、サキシマロケット3号機が轟音とともに離陸した。
打ち上げからわずか1分。
青空を切り裂いて飛翔するその鋼鉄の巨体は、地上三万六千フィートの上空で、最大の空力圧力――MAX-Qに突入していた。
機体が最も過酷な空気抵抗に耐える瞬間。
設計者たちの計算と信念が試される、最初の試練だ。
「――MAX-Q到達!」
管制室に司令官の声が響き渡った。
打ち上げ時の歓声は鳴りを潜め、数十人のスタッフが再び計器盤に張り付いていた。
すべての視線が、緊張の糸で張り詰めたまま大型モニターに集中していた。
画面には、ロケットの姿勢データ、エンジン出力、空気抵抗の数値がリアルタイムで流れ続ける。
誰かが息を呑む音が、静寂の中でかすかに聞こえた。
「第一段エンジンの燃焼は正常に行われています。」
オペレーターの報告に、室内の空気がわずかに緩んだ。
MAX-Qを乗り越えることは、ロケットにとって最初の山場であり、同時に生存の証明でもあった。
管制室の壁に掛けられた時計の秒針が、カチリと進む。
崎島健吾は唇を固く結び、モニターを見つめたまま動かなかった。
ロケットは斜めに傾きながら天に昇っていく。
ジェット音が遠ざかり、発射台周辺に集まった観衆の耳には届かなくなっても、誰もが目を離せなかった。
和歌山の海風が頬を撫で、遠くの波音が打ち寄せる中、彼らはただ空を見上げていた。
---
打ち上げから2分40秒。
地上からはもうロケットの姿は見えない。
管制室のモニターだけが、その旅路を伝えていた。
「フェアリング、分離」
外れたフェアリングは重力に引かれ、地球に向け落ちていく。
宇推晴輝のイラストが赤く染まっていった。
「第一段エンジン、燃焼停止。」
「第一段、第二段、分離。」
第二段エンジンに取り付けられているカメラが分離の瞬間を捉える。
空中で微かに火花が飛び散った。
第一段ロケットがカメラの画角外へ流れていく。
長く続いていた主推進炎が消え、機体は一瞬、宇宙の静寂に包まれた。
管制室のスタッフは息を止め、次の報告を待つ。
「第二段エンジン、第一回燃焼開始。」
間を置かず、第二段のスラスターから青い焔が伸びる。
投入軌道を目指して機体を押し上げていく。
その焔は、地球から延びる重力の糸に抗う意志そのものだった。
第二段エンジンは、搭載された小惑星探査機を軌道に乗せる任務を全うするため、そのエネルギーを解き放った。
だが、崎島健吾の視線は第一段に注がれていた。
分離された第一段ロケットは、今、別の使命を果たすために動き始めていた。
「第一段エンジン、帰還GO。」
「ブースターバック、点火。」
司令官の声が響き、第一段のスラスターが再点火した。
火の矢のように空中で弧を描きながら旋回し、重力に逆らうように減速していく。
崎島の手が、無意識に拳を握っていた。
帰還ミッション――彼が何年もかけて設計し、幾度もの失敗を乗り越えて挑戦してきた課題。
今、その試練をサキシマロケットが乗り越えようとしている。
「カメラ、第一段の落下を捉えました!」
管制室の大型モニターに、旋回する第一段の姿が映し出された。
宇宙空間を切り裂きながら落ちてくるその機体は、左右に取り付けられた制御翼を微調整し、完璧な姿勢で帰還軌道に乗っていた。
崎島の胸に、熱いものが込み上げた。
あの機体には、彼の人生が詰まっている。
2度の失敗、かつての同僚が嘲笑った「無謀な夢」。
今、それは成し遂げるべき課題として目の前にあった。
「ブースターバック、燃焼終了。」
機体が再び静寂に包まれる。
横に傾いていた機体が、空中でくるりと回転し、縦に姿勢を整えた。
下向きに取り付けられた高精細カメラが、青く光る海と和歌山の海岸線を捉える。
空と海と大地。
帰還の地が、徐々に近づいてきた。
---
機体は自由落下に移行した。
重力に引かれるように速度を上げ、大気圏へと再突入する。
空気の断熱圧縮で、スラスター周辺が赤く染まり始めた。
機体の外殻には高温プラズマの火花がちらつき、宇宙から流れ落ちる隕石のようにその輪郭を歪ませる。
管制室のスタッフは、再び緊張に包まれた。
大気圏再突入は、機体にとって二つ目の試練だ。
耐熱シールドが設計通りに機能しなければ、すべてが灰と化す。
「着陸脚、展開。」
ゴウン、と鈍い音が響き、ロケット下部から四本の脚が伸びた。
着陸に備え、機体の安定性を確保するための最終準備だ。
崎島の目が、モニターから離れない。
彼の心臓は、鼓動を刻むごとに強く早く脈打っていた。
「……視認、第一段、目視で確認しました!」
オペレーターの声に、管制室がざわめいた。
薄い雲を裂いて降りてくる細長い影――それはもはや単なる“物体”ではなかった。
技術と信念の象徴、“帰ってくるロケット”だった。
崎島の唇が、小さく震えた。
「第一段エンジン、再点火!」
再び、青白いスラスターの炎が夜明けの空に咲いた。
速度は急激に落ち、機体はまるで糸で吊られているかのようにゆっくりと地面へと降りていく。
観衆のざわめきが大きくなり、誰かが叫んだ。
「見える! 帰ってきたぞ!」
エンジンは最後の力を振り絞り、噴射を微調整しながら機体を着陸地点へ正確に誘導していく。
噴射炎が着地地点のマーカーを舐め、粉塵を巻き上げる。
――ドンッ。
重厚でそれでいて驚くほどに静かな衝撃音が響く。
4本の着陸脚がショックを吸収し、完全な直立状態を保ったまま静止した。
エンジンの噴射がぴたりと止まり、巻き上がっていた砂塵が海風に流される。
数秒前までの轟音と振動が嘘のように世界が静かになった。
管制室が爆発するような歓声に包まれた。
立ち上がり、抱き合い、涙ぐむ技術者たち。
その光景の中で、崎島健吾は静かにモニターを見つめながら、ひとすじの涙をこぼしていた。
その涙は、成功への喜びだけではなかった。
幾度もの失敗、諦めかけた夜、そして支えてくれた家族への感謝が、そこに込められていた。
---
一方、アーベルはサキシマ重工の駐車場に停められたトラックの助手席で、最後の作業に没頭していた。
彼女のナノマシンのネットワークには第二段エンジンの微細な制御と、小惑星探査機の分離プログラムのログが流れていた。
打ち上げから2時間後。
工作機を載せた小惑星探査機が再度地球の裏側に入り、すべての通信が切り替わるタイミング。
アーベルが偽装工作を行った。
それは、地球の観測所から見ると原因不明の事態で小惑星探査機との通信が途絶したように映った。
そして、アーベルは最後のコマンドを打ち込んだ。
「……核融合パルスエンジン、点火。」
宇宙の静寂を破り、見えざる雷鳴が走った。
爆裂的な加速により、工作機を載せた小惑星探査機は地球から延びていた最後の重力の糸を断ち切った。
目的地は、小惑星プシケ。
地球から2億キロメートル離れた、鉄とニッケル、貴金属の地。
到達は約1ヶ月後と見積もられていた。
彼女が設計した工作機は、人類の知られざる領域に挑む使者だった。
「――あとは、見守るだけですね。」
アーベルが小さくつぶやいた。
彼女は自身の足元にくるりと尾を巻き、和歌山の風に静かに耳を澄ませた。
だが、その耳に響くのは地上の音ではない。
遥か遠く、宇宙を進んでいく衛星の鼓動だった。
彼女の瞳には、果てしない星々が映っていた。
管制室の喧騒から離れたその場所で、アーベルは小さく欠伸をした。
崎島が地上に帰還させたロケットと、彼女が宇宙に送り出した工作機。
二人の目的が、この一瞬、交錯した。
そして、その先に広がるのは、まだ誰も知らない未来だった。
作者です。
無事に打ち上げが終わりましたね。
でもまだまだお話は続きます。
ブックマーク 評価などして頂けると作者の励みになります。
今後の展開も楽しんで頂けると幸いです。




