4-8
T-00:10:00。
管制室の空気が一変した。
それまで漂っていた微かな雑音が消え、鋼のような緊張が空間を支配した。
技術者たちの視線が一斉にディスプレイに集中し、無数の数値が更新されるたび、緑のランプが点灯していく。
その光は希望の証であり、同時にプレッシャーの象徴だった。
指先が震え、額に汗が滲む者もいたが、誰もが目を逸らさなかった。
一つの異常がすべてを終わらせることを、彼らは誰よりも知っていた。
「GO/NOGO確認、始めます。」
司令官の声が沈黙を切り裂いた。
マイクを通したその声は、室内の隅々まで響き渡り、技術者たちの背筋をさらに伸ばさせた。
冷静で揺るぎないその声に、各セクションが応じる。
「第1段、GO」
「第2段、GO」
「ペイロード、GO」
一つひとつの返答が、短く、鋭く響く。
「燃料注入完了、GO」
「システム正常、GO」
「打ち上げ予定航路、障害なし、GO」
一つひとつの返答が、短く、鋭く、しかし確信に満ちて響く。
それは単なる確認作業ではない。
それぞれの持ち場で全力を尽くした技術者たちが、己の仕事に責任を持ち、次の段階へ進む準備ができたことを宣言する儀式だった。
最後の確認を終え、司令官はわずかに間を置いた。
その一瞬の沈黙が、これから告げられる言葉の重みを増幅させる。
彼は再びマイクに口を寄せた。
「和歌山打ち上げ総合司令塔より、打ち上げ関係作業者に向けて打ち上げ準備状況の報告を致します。」
一呼吸。
「ロケットの打ち上げ最終実施判断の結果は――GOです。」
誰かが息を呑む音が聞こえた。
「小惑星探索衛星を搭載したサキシマロケット3号機の打ち上げ予定時刻を、本日、日本時間午後1時30分00秒に設定します。」
カウントダウンの読み上げが始まり、「560」と電子音が淡々と響いた。
---
T-08:00。
各管制塔から予定航路上の航空機、船舶の不在の連絡が入った。
「打ち上げ8分前です。現在各系統ともロケット打ち上げの最終作業を行なっています。また、警戒区域の安全は確認されています。」
スピーカーからのアナウンスが、カウントダウンの電子音に重なるように響く。
「420」
電子音のカウントが響く。
「安全系、準備完了」
「射場系、準備完了」
司令官が冷静に準備が完了したセクションについての報告を行う。
射場全体に、低く長く響く警報サイレンが鳴り渡った。
それは、最終段階に入ったことを知らせる合図であり、周辺地域への最後の警告でもあった。
サイレンの音は、管制室の厚い窓ガラスを隔てていてもなお、腹の底に響くような圧力を伴って伝わってきた。
緊張が、物理的な質量を持ったかのように、室内の空気をさらに重くする。
「360」
「打ち上げ6分前です。現在射場の天候は晴れ。気温は摂氏12度、南南西の風、毎秒4.5メートルです」
「衛星系、準備完了」
T-05:00。
秒単位のカウントが始まり、時の流れが加速したかのように感じられる。
電子音が響く。
「56、55、54、53、52、51、250」
射場の基部から白い蒸気が勢いよく噴出し始めた。
極低温の液体燃料をエンジンに送り込むための配管を冷却する際に発生する蒸気だ。
その量はみるみるうちに増え、濃密な白い霧となって射場を流れていく。
冷却蒸気が濃密になり、ロケットが白い霧に包まれ、幻のように揺れて見えた。
翔太は管制室の窓からその姿を見つめ、心臓が早鐘を打つのを感じていた。
---
T-03:00。
「自動カウントダウンシーケンス開始」
「2段液体水素、地上与圧開始」
「1段液体水素、地上与圧開始。打ち上げ3分前です」
「機体の電源が外部から内部へ切り替えられました」
ロケット内部の燃料タンクへ打ち上げに備えて圧力がかけられていく。
外部からはほとんど変化は見えない。
しかし、あの静かに聳え立つ巨大な矛の内側では今、凄ましいエネルギーが圧縮され、解放の瞬間を待っているのだ。
最後の命が、見えざる手によって吹き込まれていく。
電子音が秒を刻み、技術者たちは一音一音に全神経を集中させる。
「105、104、103……100」
「2段液体酸素、地上与圧開始」
「1段液体酸素、地上与圧開始」
管制室の空気がさらに重くなり、誰もが息を殺していた。
T-01:00。
「打ち上げ1分前です」
「フレームディフレクター、冷却開始」
その声に合わせるように、発射台の真下にある巨大な炎道に向けて、大量の冷却水が噴射され始めた。
ゴォォォという地鳴りのような水音と共に、水飛沫が勢いよく立ち上る。
T-00:30。
「ウォーターカーテン散水開始」
さらに大量の水が、発射台全体を包み込むように降り注ぎ始めた。
ザーッという激しい水音が響き渡り、ロケットの足元はたちまち白い水煙に包まれた。
それはまるで、これから始まる神聖な儀式のために、大地を清めているかのようだった。
太陽の光を浴びて、無数の水滴が虹色にきらめいた。
T-00:20。
「フライトモード、オン」
翔太の心臓が叫び続け、耳鳴りが聞こえるほどだった。
ロケットの制御システムが、地上からの管制モードから、自律飛行モードへと切り替わった。
もはやロケットは、地上からの指示なしに、プログラムされた飛行経路を自ら進むことになる。
完全に独立した存在となった。
T-00:10。
「全システム発射シーケンス完了」
司令官の最後の確認。全ての準備が整った。
「6、5」
管制室に、一瞬だけ、完全な静寂が訪れた。
それはまるで、巨大な何かが始まる前に、世界中が息を潜めたかのような、深呼吸を吸い込む前の静けさだった。
全ての音が消え、全ての動きが止まり、ただ発射台に聳え立つロケット、その足元にあるメインエンジンだけが、燃焼開始の指令を待っていた。
「4、メインエンジンスタート」
管制室の全員が一斉に息を呑んだ。
世界から音が消えたように感じた。
次の瞬間、発射台の真下で眩いばかりの光が爆ぜた。
「3、2、1」
「エンジン点火、リフトオフ!」
次の瞬間、轟音――いや、それは音という概念を超えた、巨大なエネルギーの波動だった。
天地を裂くような、腹の底から全身を揺さぶるような衝撃波が管制室の窓を震わせた。
発射台の下部から、目も眩むほどの強烈なオレンジ色の火柱が、地面を穿つように噴き出した。
次の瞬間、それは爆発的に膨張し、冷却のために散水されていた大量の水が一瞬にして蒸発。
巨大な白い雲となって、ロケットの周囲に渦巻くように広がっていく。
噴射された炎は、螺旋を描きながら大地を焼く。
その炎は、まるで生命の設計図であるDNAの二重螺旋のように、複雑で美しい模様を描き出した。
オレンジ色の炎とその内側の青い炎に純白の蒸気が混ざり合い、巨大なコントラストを生み出す。
発射台の上からロケットが震えながら離れ、ゆっくりと、だが確実に重力を断ち切っていく。
「うおおおおっ!」
「行った!」
「上がったぞ!」
それまで息を詰めていた技術者たちが、一斉に立ち上がり、歓声を上げた。
張り詰めていた緊張が解け、解放感と達成感が空気を満たす。
その瞬間、翔太の目に涙が滲んだ。
涙が頬を伝うのも気づかず、彼は立ち尽くしていた。
太陽に照らされ白銀に輝く機体が空高く舞い上がり、青空を切り裂いて上昇していく。
管制室の窓から見えるその姿は、まるで神話の鳥が天へと飛び立つようだった。
技術者たちが一斉に立ち上がり、歓声が上がる中、翔太は静かに呟いた。
「行ったな……。」
隣に立つ涼子が、そっと彼の手を握った。
アーベルの声がイヤホンから聞こえた。
「翔太、素晴らしい打ち上げでした。ですが、まだ始まったばかりです。」
その声に、翔太は小さく笑った。
宇宙への旅立ちが、今、確かに果たされたのだ。




