4-7
まだ夜明け前だった。
サキシマ重工の組立棟には、冷たい静けさが満ちていた。
空調の低い唸りと、時折鳴る作業端末の電子音だけが、眠らぬ施設の息遣いを伝えている。
暗闇に包まれたその空間で、静かに、しかし確かに動き出したものがあった。
――サキシマロケット3号機。
白灰色の外装に朝の気配を映したその巨体は、専用の移動台に慎重に固定されていた。
全長32メートルの巨大な矛が、音もなく滑るように発射台へと進んでいく。
速度は人の歩みよりも遅く、まるで荘厳な儀式の一部のように感じられた。
ロケットの左右には数十人の技術者たちが付き従い、緊張を顔に浮かべていた。
彼らはアーベルが提供したARグラスとタブレットを手に、機体のわずかな傾きや振動を注視している。
少しのズレがすべてを水泡に帰すことを、全員が骨身にしみて理解していた。
やがて、空がほんのりと藍色に染まり始めた。
遠い地平線に、光の筋が差し込む。
「夜明けだ……」と誰かが呟き、周囲の誰もが顔を上げた。
その瞬間、発射台の麓にたどり着いたロケットが固定装置に垂直に据えられた。
朝日を浴びたその巨体は、まるで神話の武具のように輝いた。
天を指す矛のように、力強く、静かにそこに立っていた。
翔太は思わず息を呑んだ。
目の前に立つものが、本当に宇宙へ旅立つのだという実感が、胸の奥から込み上げてきた。
「……本当にこれが飛んでいくんだよな。」
呟くと、隣にいた涼子が頷いた。
彼女の表情は硬く、目はまっすぐにロケットを見据えている。
実体はないがARグラスに映し出された黒猫姿のアーベルが、翔太の足元から同じものを見上げていた。
まるでずっと前からの友のように、静かに寄り添っている。
発射台では、燃料供給ラインが唸りをあげて接続され、冷却装置が白い蒸気を吐き出していた。
技術者たちが地上支援装置を慎重に接続していく姿は、古代の祭儀を執り行う巫女のようだった。
そして、儀式は最終段階へと移る。
---
打ち上げ4時間前。
発射管制室の大型モニターに、カウントダウンタイマーが点灯した。
T-04:00:00を示す数字が静かに進み始める。
「ロケット主電源投入、確認」
「衛星システム、起動完了」
「姿勢制御、温度センサー、ナビゲーション全系統、グリーン」
無機質な報告が続く。
チェック項目は数百に及び、ひとつひとつが生命線だ。
誤りは許されない。
翔太と涼子は管制室のオブザーバー席からその様子を静かに見つめていた。
「すごいな……」
翔太が呟く。
モニターには次々と表示されるチェック項目とロケット内部からのデータが映し出されていた。
アーベルが設計した飛行制御プログラムのログも含まれている。
その様々な情報をアーベルの本体は駐車場のトラック助手席からロケットとリンクし、監視していた。
「仕事を辞めて数週間でロケットの打ち上げに立ち会うとは思ってもなかったわ。」
涼子が静かに言う。
「俺も同じ。」
翔太が頷いた。
二人の視線はモニターに注がれ、過去の日常が遠く感じられた。
離れた場所で報告を受ける崎島健吾の表情は厳しく、不安が滲んでいた。
何度も試験を繰り返してきた彼でも、“本番”の前では初心者のような緊張を隠せなかった。
---
T-00:60:00。
発射台付近では、地上誘導装置とテレメトリーシステムの最終チェックが始まった。
ロケットに張り付いていた作業員たちは整然と安全エリアへ退避していく。
T-00:35:00。
ついに燃料注入が始まった。
静寂が支配する発射台に、生命が吹き込まれる瞬間だった。
液体酸素が-183度の極低温で注入され、白い呼気がロケットの胴体を這うように広がる。
ぶわりと白い霧が舞い上がり、陽の光がそれを透かし、虹色の縁取りを描いた。
霧は音もなく空へと溶け、ロケットの外装に霜が張りつき、銀白色の模様が広がっていく。
金属がかすかに軋み、まるで巨人が呼吸を始めたようだった。
次に、-253度の液体水素が注入される。
「きぃ……ぃぃ……」と鉄が冷たさに耐えかねるような音が響いた。
不気味でありながら神聖なその音は、大地と空を繋ぐ矛が目覚める前奏曲のようだった。
---
管制室には緊張が走っていた。
スタッフは固唾を飲んでモニターを眺めている。
蛍光灯の白い光の下、モニターは数値と波形を吐き出し続ける。
「燃料ライン、異常なし」
「液体酸素タンク、予定流量に達しました」
「液体水素、継続注入中……」
報告が続く。
技術者たちは誰も言葉を交わさず、己の担当に集中していた。
一つの失敗がすべてを壊すと知る者たちの静寂だった。
翔太はオブザーバー席から見つめていた。
耳元のイヤホンからアーベルの声が届いた。
「いよいよですね。」
感情の揺らぎを含んだ声。
翔太は唇を引き結び、頷いた。
拳を握り、掌に爪が食い込む。
窓の外、白い矛が朝日を背に霧をまとい、霜が陽光にきらめいていた。
この一瞬を、彼は決して忘れない。
そして、それが空の向こうへ届くことを信じていた。




