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羽田空港第2ターミナルの国際線ロビーは、朝の喧騒がようやく落ち着きを取り戻した時間帯だった。
ガラス張りの天井から差し込む薄い陽光が、タイル張りの床に冷たく反射している。
時計台の下にあるベンチ——普段なら旅行者やビジネスマンで埋まるその一角が、今朝は奇妙なほどにぽっかりと空いていた。
行き交う人々はスーツケースを引いて足早に通り過ぎ、誰もが自分の目的地に気を取られている。
そんな中、異様な雰囲気をまとった男が、ベンチにぐったりと沈み込んでいた。
近藤だった。
彼の姿は、見るからに惨めだった。
泥にまみれたジャケットは肩からずり落ち、袖口には擦り切れた跡が目立つ。
顔には大小の絆創膏が乱雑に貼られ、頬には赤黒く腫れた痣が浮かんでいた。
首筋に貼られた湿布からは、メントールの匂いが微かに漂ってくる。
彼はまるで何かから逃げてきた野良犬のように、膝を小刻みに揺らし続けていた。
貧乏ゆすりが止まらない。
体の震えを抑えきれていないようだ。
額には脂汗が浮かび、指先は細かく震え、彼の視線は電光掲示板の案内の方を何度も往復していた。
——早く…早く出国しなければ。
——この国から離れないと不味い。逃げないと……俺は……。
近藤の頭の中をその言葉がぐるぐると回り続けていた。
思考は恐怖に支配され、搭乗案内のサインが視界の端でちらつくたびに、心臓が締め付けられるような痛みを覚えた。
息が浅く、喉がカラカラに乾いている。
唇が震え、かすれた声が無意識に漏れ出す。
「早く……早く……」
待合室の天井に吊るされたテレビモニターでは、翌週に打ち上げが予定されている帰還型ロケットについてのニュースが流れていた。
華やかな音楽とともに映し出されるロケットの映像、白い煙を吐きながら大空へ飛び立つその姿は、まるで人類の希望を象徴しているかのようだった。
しかし、近藤の視界は霞み、音も映像も頭に入ってこない。
彼にとってそのニュースは遠い世界の出来事でしかなく、今この瞬間の逃亡劇に何の救いももたらさない。
周囲の人々は、近藤の異様な様子に気づいても誰も近づこうとしなかった。
彼の周りには見えない壁があるかのように、誰もが自然と距離を置いていた。
汗と湿布の匂い、震える体、落ち着かない視線——それらが混ざり合い、彼を孤立させる空間を作り出していた。
ビジネスマンや旅行者で溢れるロビーは、時に他人に無関心だ。
誰かが咳き込もうが、荷物を落とそうが、誰もが自分の予定に追われ、他人の苦しみに目を向ける余裕はない。
近藤は震える手でジャケットのポケットを探り、折り畳まれたパスポートを握り潰すように掴んだ。
それが彼の最後の希望だった。
出国さえできれば、この悪夢から逃れられるかもしれない。
だが、その希望はあまりにも脆く、指先が冷たくなるほど現実の重さに押し潰されそうだった。
その時だった。
「やア、近藤さン。こんなところで奇遇ですネ、随分探しましたヨ。」
背後からかけられた声に、近藤の体がびくりと跳ねた。
それは冷えた刃のように鋭く、耳元に突き刺さる響きだった。
同時に、重たい手が肩に置かれ、彼は己の心臓が一瞬止まったかのように感じた。
肩に伝わるその感触は、まるで鉛のように重く、逃げられない現実を突きつけてくる。
——まさか、こんな場所まで……。
振り向くまでもなく、その声だけで誰かを悟った。
チャン・ユーハオ。
山寨龍科技の男だ。
スーツに身を包み、流暢な日本語と中国語を操るその姿は、いつも洗練された印象を与えていた。
しかし、今の彼は違う。
近藤が恐る恐る振り返ると、そこには笑みを浮かべたチャンの顔があった。
だが、その目の奥には氷のような殺意と狂気が潜んでいる。
金縁のメガネが怪しく光り、人工的な冷たさを際立たせていた。
「少し、お話しましょウ。」
チャンの声は穏やかだったが、その裏に隠された圧倒的な威圧感が近藤を締め付けた。
彼は反射的に立ち上がり、逃げようとした。
だが、その瞬間、視界がふわりと揺れた。
チャンの手が素早く動き、白いハンカチが近藤の口元に押し当てられていた。
——やばい、吸っちゃ……。
異臭が鼻腔を突き抜け、肺に流れ込んだ瞬間、体の力が急速に抜けていくのを近藤は感じた。
膝が崩れ、床に倒れ込む前にチャンの腕に支えられる。
意識が深い霧の中へと落ちていく中、彼の耳に最後に届いたのは、周囲のざわめきとチャンの穏やかな声だった。
「彼、調子悪い見たいネ。私介抱するから大丈夫ヨ。」
チャンは周囲の視線が集まる中、優雅に会釈しながら近藤の体を抱え上げた。
まるで旧友を助ける旅人のような立ち振る舞いで、その動作には一切の隙がなかった。
一瞬、人々の視線が彼らに注がれたが、すぐに誰もが興味を失い、それぞれの日常へと戻っていった。
空港のロビーは、冷たく無関心な空間だった。
誰かが倒れようと、誰かが連れ去られようと、それは他人事でしかない。
近藤の意識が完全に途切れる前、彼の目に映ったのは、時計台の針だった。
秒針が無情に進み続けるその姿は、彼の逃亡劇が終わりを迎えたことを静かに告げていた。
チャン・ユーハオは近藤を抱えたまま、静かにロビーを後にした。
震える指先からパスポートが滑り落ちた。
しかし、誰もそれに気づかず、誰も拾おうとしなかった。
空港の喧騒の中で、それはただのゴミのように放置された。
チャンの足音が遠ざかる中、テレビモニターでは打ち上げるロケットについて取材した番組が流れていた。
希望に満ちたその光景は、近藤の絶望とはあまりにも対照的だった。
スーツケースを引く音やアナウンスの声が遠ざかり、二人の姿は人混みに溶け込んで消えた。




