1-3
翌朝、翔太は鳥のさえずりと窓から差し込む朝日に目を覚まされた。
カーテンに柔らかな光が部屋に広がり、スズメやウグイスの軽やかな鳴き声が耳に届く。
町では目覚まし時計の無機質な電子音と、どこからともなく聞こえる車の騒音や近隣の生活音が当たり前だったが、ここでは自然の音だけが静かに響いていた。
窓を押し開けると、ひんやりとした朝の空気が流れ込み、草木の青い匂いと土の香りが鼻腔を満たした。
時間の流れがまるで違うように感じられ、都会の喧騒が遠い夢のようだった。
「……よく寝た。」
体を伸ばしながら布団から起き上がると、肩を軽く回しながら洗面所へ行き、顔を洗った。
水は冷たく、触れると眠気が一気に吹き飛ぶ。
台所で簡単な朝食――カロリーバーと野菜ジュース――を済ませ、窓の外を眺めた。
昨日の掃除の疲れがまだ残っていたが、今日はやるべきことがある。近所への挨拶だ。
田舎では近所付き合いが重要だと、どこかで聞いたことがある。
都会のように隣人との距離が希薄ではなく、住人同士のつながりが強く、何かあったときに助け合う文化が根付いているらしい。
翔太は都会育ちでそんな習慣に慣れていなかったが、この新しい生活を始めるなら、まずはその第一歩を踏み出すべきだと考えた。
「さて、とりあえず隣の家から行くか。」
翔太は手土産代わりに、ネット通販で事前に注文しておいた菓子折り――素朴なデザインの箱に詰まったカステラと煎餅のセット――を手に持つと、ポケットに家の鍵を押し込んで外へ出た。
朝の陽光が眩しく、足元の砂利がカサカサと音を立てる。
祖父の家の周囲は静かで、遠くの山から吹き下ろす風が木々を揺らし、葉擦れの音が心地よく響いた。
祖父の家から少し歩いたところに、広い畑が広がっていた。
土は黒々と肥え、整然と植えられた野菜が朝露に濡れて光っている。
そこで、一人の老人がきゅうりを収穫していた。白髪混じりの髪は短く刈り込まれ、日焼けした顔には深い皺が刻まれている。
背中は少し曲がっていたが、麦わら帽子をかぶり、作業着を身に着けたその姿は、畑仕事に慣れたたくましさを感じさせた。
老人は一本のきゅうりを手に持つと、ナイフで切り口を整え、籠に放り込んでいた。
「あの……すみません。」
翔太が遠慮がちに声をかけると、老人は手を止め、ゆっくりとこちらを振り向いた。
目の下にたるんだ皮膚が揺れ、鋭い視線が一瞬だけ翔太を捉えた。
「おや、あんたは……?」
その声は低く、少し掠れていたが、どこか温かみがあった。
「昨日、この近くに引っ越してきた高橋翔太です。祖父の家を継ぐことになりまして。」
そう言って菓子折りを差し出すと、老人は目を細め、懐かしそうに口元を緩めた。
「おぉ、あんたが高橋の孫か! 久しぶりだなぁ、俺のこと覚えておるか?」
老人は麦わら帽子を軽く持ち上げ、汗を拭う仕草を見せながら続けた。
「わしは佐々木源蔵だ。お前が小さい頃に何度か会っておる。よう大きくなった。あんたのじいさんとは長い付き合いだったよ。家のことで困ったことがあれば、なんでも言ってくれ。」
記憶を辿ると、確かに幼い頃、祖父の家で畑仕事を手伝う屈強な老人を見た覚えがあった。
あの頃はただ「じいちゃんの友達」としか思っていなかったが、今こうして目の前に立つ源蔵の顔に、かすかな面影が重なる。
「ありがとうございます。まだ引っ越してきたばかりで、何も分からなくて……」
翔太が少し照れながら言うと、源蔵は「まぁ、そうだろうな」と豪快に笑った。
歯が少し欠けたその笑顔に、人懐っこさが滲んでいる。
「田舎の暮らしは慣れればいいもんだ。だが、不便なことも多いぞ。携帯の電波も山際じゃ弱いからな。」
「ええ、それは覚悟してます。」
「そうか、それならいい。」
源蔵は「ここじゃなんだ」と呟き、翔太を自分の家へと案内した。
畑の脇に立つ平屋は、祖父の家と同じく古びた木造だが、軒先には干した大根や洗濯物が揺れ、生活の息遣いが感じられた。
源蔵は翔太を軒下の縁側に座らせ、「ちょっと待ってろ」と家の奥へ消えると、すぐに戻ってきた。
その手には冷えた缶ビールが2缶握られていた。
「まあ、一杯付き合ってくれ。」
源蔵はニヤリと笑い、缶を差し出した。朝っぱらからビールとは驚いたが、断るのも気まずく、翔太は「ありがとうございます」と受け取ってプルタブを開けた。
冷たい缶が掌に心地よく、シュワッと泡立つ音が静かな朝に響く。
源蔵は自分の缶を開け、一気に半分ほど飲み干すと、満足げに息をついた。
そこから源蔵は祖父の思い出話を語り始めた。どうやら祖父はこの辺りの何でも屋のような存在だったらしい。
壊れた農機具を溶接で直したり、洗濯機を分解して掃除したり、エアコンの取り付けを手伝ったりと、近隣の住民から頼りにされていたようだ。
「あんたのじいさんは器用だったよ。畑の水路が詰まった時も、一人でスコップ持って直しに行ったくらいだからな」
源蔵は笑いながら語った。
翔太はその話を聞きながら、祖父の頑丈な背中や、油で汚れた手を思い出し、少し胸が温かくなった。
源蔵はふと思い出したように言った。
「そういや、うちのトラクターが壊れちまってな。ラジエーターがダメになってるらしくて、冷却水が漏れてるんだが……修理に出すには時間がかかるんだ。前も同じことがあって、そのときは君の祖父に応急処置してもらってなぁ。」
「ラジエーターの故障ですか……」
翔太は興味を引かれ、トラクターを見せてもらうことにした。
源蔵に案内され、畑の真ん中にポツンと置かれた古びた赤いトラクターに近づく。
エンジンカバーの塗装は剥げ、タイヤには泥がこびりついている。
作業の途中で止まってしまったらしい。
見れば、確かに冷却水が漏れた跡がある。
地面に小さな水たまりができ、エンジン下部から滴る水滴が土に染み込んでいた。
翔太はポケットからスマホを取り出し、ライトで中を照らすと、ラジエーターホースの根本に亀裂が入り、そこから水滴が滲んでいるのが分かった。
「……ちょっと待っててください。」
翔太は一度祖父の家へ戻り、昨日の掃除中に見つけた工具箱を手に持って再び畑へ急いだ。
工具箱の中にはペンチやドライバー、補修テープ、シール剤などが詰まっていた。
翔太自身、DIYなどが好きで作ったり直したりするのは得意だったので、ラジエーターの故障ぐらいならなんとか修理出来そうだと思ったのだ。
ホースの状態を確認し、応急処置として補修テープを巻き、亀裂部分にシール剤を塗って接続部を補強した。
リザーバータンクに冷却水を少し足して様子を見ると、先ほどのように水が垂れてくることはなかった。
「これで、しばらくは使えるはずです。完全に直すには交換が必要ですけど……」
翔太が少し自信なさげに言うと、源蔵は目を丸くし、「おお、すごいなぁ!」と感嘆の声を上げた。
試しにエンジンをかけると、ゴウン、と軽快な音を立ててトラクターが動き始めた。
ダッシュボードの警告灯も点灯しない。
「動いたぞ! こんな畑の真ん中で止まっちまったから困ってたんだ。本当に助かったよ、ありがとうな」
源蔵は手を叩いて喜んだ。
「いえ、これくらいなら簡単なことですよ。応急処置なんで、ちゃんと業者に診てもらってくださいね!」
翔太は照れくさそうに笑った。
機械いじりは昔から好きだったが、こうして誰かの役に立つのは新鮮で、胸の奥に小さな達成感が広がった。
「いやぁ、頼もしいなぁ。これからも何かあったら相談させてもらうかもしれん。」
「もちろんです。」
「それと……田舎の暮らしに慣れるまでは大変だろうが、無理するなよ。じいさんも苦労してたからな。」
源蔵の言葉に、翔太は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。」
田舎に来たばかりで不安もあったが、こうして温かく迎え入れてくれる人がいるのは心強い。
源蔵はビールの残りを飲み干し、「次はお前さんちで一杯やろうな」と笑いながら畑に戻っていった。
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「……さて、次は裏山の探索だな。」
源蔵との会話を終え、家に帰ってきた翔太は祖父の手紙に書かれていた「裏山の異変」を確かめるため、山へ向かうことにした。
祖父の忠告が頭に残り、好奇心と少しの緊張が胸をざわつかせていた。
木々の間へと続く細い獣道を見据えた。