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山道を抜け、集落の外れにある祖父の家にたどり着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
車のエンジンを切り、窓から外を見ると、緩やかな坂道の先に古びた木造の家が青空を背にぽつんと立っていた。
瓦屋根にはところどころ緑色の苔がこびりつき、縁側の柱は陽に焼けてひび割れ、外壁は長年の雨風に晒されて灰色にくすんでいる。
家の周囲には雑草が膝丈ほど伸び、裏手の畑は荒れ放題だ。
翔太は運転席から降り、汗ばんだ首筋を拭いながら、しばらくの間その懐かしい家を眺めた。
「……結構、ボロボロだな。」
呟きながら、彼は幼い頃の記憶を思い出していた。
夏休みに訪れたあの頃、祖父の膝の上で縁側に寝転がり、蝉の声を聞きながら昼寝をしたこと。
汗をかきながら裏庭を走り回り、祖父が笑いながら「危ないぞ」と声をかけてきたこと。
井戸で冷やしたスイカを縁側で食べたときの、冷たくて甘い果汁が喉を潤す感覚。
だが今、目の前に広がる家には人の気配がなく、静寂だけが重く漂っている。
遠くの山から吹き下ろす風が草を揺らし、かすかな葉擦れの音が耳に届いた。
翔太はトランクからダンボールを下ろし、肩に担いで玄関へと向かった。
錆びた鍵を差し込み、重たい木製の引き戸を軋ませながら開けると、ふわりと古い木の香りが鼻をついた。
埃っぽさの中に、かすかに畳の青い匂いと、線香の残り香が混じっている。
家の中は意外にも綺麗に保たれていたが、長らく人が住んでいなかったせいで、空気がひんやりと冷たく感じられた。
土間には埃が薄く積もり、靴を脱いで上がると、板張りの床が足の下で微かに軋んだ。
「まずは掃除だな――。」
そう思い、翔太は荷物を土間に置き、家の中を一通り確認し始めた。
12畳の和室が2つ、障子戸で仕切られていたが畳の上には埃がうっすらと積もっている。
6畳の洋室が3つ、いずれも古いカーテンが垂れ下がり、窓枠には蜘蛛の巣が張っていたがリフォームされた部屋のため、比較的綺麗であった。
掃除機をかければすぐに使えそうだ。
居間には年代物の座卓と座布団がそのまま残され、壁には祖父が飾っていたらしい掛け軸が傾いている。
台所に足を踏み入れると、棚には埃をかぶった茶碗や湯呑みが並んでいた。
トイレと風呂場はリフォーム済みで、タイル張りの床や白い便器が清潔感を保っているものの、空気がこもっていて湿っぽい。
ぐるりと家の中を巡り、最後に翔太は家の奥にある書斎を覗いてみた。
薄暗い部屋には古い本棚が壁に沿って並び、農業関連の専門書や、祖父の趣味だったらしい歴史書がぎっしりと詰まっている。
本の背表紙は日に焼けて色褪せ、埃が積もったページからはかすかな紙の匂いが漂った。
部屋の中央にはアンティーク調の木製机が置かれ、その表面には無数の細かい傷が刻まれている。
興味本位で引き出しを開けると、中に封筒が入っているのが目に入った。
「……ん?」
封筒の表には、達筆な墨字で「この家を継ぐ者へ」と書かれている。
どうやら遺書のようだった。
翔太は少し緊張しながら封を切り、中の手紙を取り出した。
紙は少し黄ばんでおり、祖父の癖のある筆跡が黒々と浮かんでいる。
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「この家を継ぐ者へ」
この家を訪れたということは、お前は俺の孫か、それとも何か縁のある者なのだろう。
まずは、ようこそ。
ここでの暮らしは楽ではない。
田舎は不便なことも多いが、それでも自然の恵みと共に生きることができる。
近所の松本さんや、佐々木さんには世話になれ。
松本さんは農機具の使い方を教えてくれるし、佐々木さんは畑の作物の世話をよく知っている。
ゴミの収集日や出し方については別紙を入れておく。
分別が厳しいから気をつけろ。
そして、最後に一つだけ忠告しておく。
裏山には気をつけろ。
あそこには何かがある。
正体は分からんが、山の奥には不自然な空間がある。
もしかしたら危険なものがあるのかもしれないから、深入りしない方がいい。
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手紙を読み終えた翔太は、じっと紙を見つめた。
祖父の字は力強く、まるで彼の声が聞こえてくるようだった。
「……裏山?」
子どもの頃、祖父がそんなことを言っていた記憶はない。
裏庭で遊ぶたびに「山には行くな」と釘を刺されたことはあったが、理由までは聞かされなかった。
気にはなったが、今はそれよりもやることがある。
引っ越し業者が来る前に掃除を済ませなければ。
「まずは、水の確保からだな。」
汚れても問題ないように作業着へ着替え、家の裏手にある井戸に向かい、古びた電動ポンプのスイッチを入れる。
ギシギシと音を立てながら透明な水が流れ出した。水は冷たく、触れると夏の暑さが少し和らいだ。バケツに水を汲み、雑巾を手に持って部屋の掃除を始めた。
畳の埃を払い、障子の桟を拭き、台所の流し台を磨く。
汗が額を伝い、作業着の背中がじっとりと濡れた。
昼過ぎに引っ越し業者が到着し、トラックの荷台からダンボールを運び込んでいった。
元々、翔太の都会での生活は男の一人暮らし、1Kの狭いアパートだったため、荷物の量は少ない。
布団一式と衣類、ノートパソコンと数冊の本、それに簡易的な調理器具だけだ。
業者が帰った後、翔太は洋室に布団を敷き、最低限住める環境を整えた。
汗だくになりながら窓を開けると、心地よい涼しい風が吹き込んできた。
外からは山の緑の匂いと、土の香りが混じった田舎特有の空気が流れ込み、都会では味わえなかった清々しさが胸を満たした。
夕方になると、陽が西に傾き、空が薄オレンジ色に染まった。
遠くで虫の声が響き合い、開けた窓の外にはもう星が瞬き始めている。
翔太は縁側に腰を下ろし、冷たい井戸水を入れたコップを手に持った。
「……田舎の夜って、こんなに静かだったっけな。」
町の喧騒――車のクラクションや電車の走行音、隣人の生活音――が遠い記憶のように感じられた。
布団に横になりながら、彼は天井を見つめた。
古い梁には木目が浮かび、ところどころに虫食いの跡がある。
静寂の中で、自分の呼吸音だけが小さく響いた。
明日は、近所に挨拶回りをしてから裏山を見に行こう。
祖父の手紙に書かれた「不自然な空間」が頭から離れず、
好奇心が疼いた。
そんなことを考えながら、翔太は静かな田舎の夜に身を委ね、いつしか眠りに落ちていた。