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会談当日、永田町一帯は、まるで巨大な真空の膜に覆われたかのように、異様な静寂に包まれていた。
日本の心臓部であるはずのこの場所から、いつもは絶え間なく聞こえてくる都市の喧騒が嘘のように遠のき、まるで時間がその歩みを止めてしまったかのようだ。
首相官邸の屋上ヘリポート。
普段は要人の往来を支えるだけの機能的な空間が、今日この時に限っては、目に見えない硝煙が立ち込める戦場と化していた。
黒光りする鉄柵とコンクリートが、初夏の強い陽射しを照り返し、陽炎の向こうに霞む高層ビル群が非現実的な背景画のように見える。
その空間を支配していたのは、死の色を纏った男たちだった。
ヘリポートを見下ろす建物の縁には、特殊急襲部隊(SAT)のスナイパーたちが黒い戦闘服に身を包み、亡霊のように潜んでいる。
最新鋭の対物ライフルを構え、スコープの先の青空を睨むその瞳には、極限の訓練によって培われた無感情さと、人知を超えた存在を待つ者に抱く微かな畏怖が、油と水のように混じり合っていた。
ヘリポートを囲むように、SP(要人警護官)たちが鉄壁の陣形を組んで微動だにしない。
等間隔に並んだ彼らの黒いスーツが朝陽を弾き、その鋭い反射光が張り詰めた空気をさらに冷たく研ぎ澄ませていく。
その中心で、上條が全ての神経を張り巡らせていた。
耳元のインカムに、獣が喉を鳴らすような低い声で短い指示を飛ばしながら、その冷徹な視線は絶えず周囲のあらゆる変化を捉えようと動く。
普段、彼の表情筋は能面のように固定されているが、今日に限っては、こめかみを一条の汗が静かに伝っていくのを拭うことさえ忘れていた。
長年、この国の影として生きてきた彼ですら、経験したことのないプレッシャーが全身の毛穴を収縮させていた。
ヘリポートを見下ろすガラス張りの特別会議室では、藤堂総理をはじめとする閣僚たちが、固唾を飲んで外の光景を見つめていた。
誰もが口を開かず、ただ壁の時計が刻む冷たい秒針の音だけが、それぞれの心臓の鼓動を嘲笑うかのように無機質に響き渡っていた。
約束の時刻、午前九時。
空はどこまでも澄み渡り、風さえも息を潜めている。
リポート上空には、鳥一羽の影すらない。
あまりにも完璧な静寂が、逆に神経を苛んでいた。
「――上空、クリア。異常なし」
SPの一人が囁くような報告をインカムに流す。
その声が、張り詰めた空気に波紋のように広がった。
会議室で、前田官房長官が喉の渇きを潤すように小さく咳払いをした。
「やはり、からかわれたのでは……。こんな話、あまりにも荒唐無稽だ」
その呟きが、安堵と失望の混じった空気として室内に溶けかけた、その刹那だった。
異変は、前触れもなく訪れた。
ヘリポート上空、地上からおよそ50メートルの虚空が、ぐにゃりと歪んだ。
真夏のアスファルトに立ち上る陽炎のように、空間そのものが揺らめき、景色が滲む。
次の瞬間、まるで透明なガラスに亀裂が走るかのように、その歪みの中心から漆黒の何かが「染み出して」きた。
光学迷彩が解かれていく。
闇そのものが意思を持って凝縮し、形を成していくかのような光景だった。
現れたのは、一機のシャトル。
しかし、それは人類が知るいかなる航空機の概念からも逸脱していた。
継ぎ目も、リベットも、溶接の跡すら一切ない。
まるで一塊の黒曜石を、神の手で削り出したかのような滑らかで完璧な流線型。
太陽の光さえも吸い込んでしまうのではないかと思えるほど深い黒は、この世界の物理法則を拒絶しているかのようだった。
出現に、音はなかった。
エンジンの轟音も、空気を切り裂く衝撃波も、機体が起こすはずの風圧すらない。
ただ、静かに、そこに「在る」。
その圧倒的なまでの存在感が、地上の全ての時間を凍りつかせた。
SPたちの指は、ライフルの引き金にかかったまま化石のように硬直し、スナイパーたちはスコープ越しに見える非現実的な光景に、呼吸さえ忘れていた。
閣僚たちの会議室からは、誰かが引き攣ったように息を呑む音と、押し殺した悲鳴が微かに漏れ聞こえた。
上條の瞳に、初めて怜悧な理性を超えた純粋な「畏怖」の色が浮かんだ。
それは、蟻が天を見上げた時に感じる、絶対的な存在との隔絶感に似ていた。
シャトルは、まるで重力という概念が存在しないかのように、ゆっくりと、そして優雅にヘリポートへと降下を開始する。
噴射炎もなければ、ローターの回転もない。
バレリーナが爪先でそっと舞台に降り立つように、寸分の揺らぎもなく高度を下げていく。
そして、着陸の瞬間。
静寂の中で、あまりにも小さく、しかし明瞭な音が響いた。
まるで精密な部品が噛み合うようなその音だけが、この異世界の物体が確かに日本の土に触れたことを証明していた。
銃を構えたまま動けないSPたち。
極限の状況を想定し、血肉に叩き込まれたはずのあらゆる訓練マニュアルが、目の前の現実の前では一枚の紙切れ同然だった。
閣僚の一人は、腰が砕けたように椅子から滑り落ち、床に膝をついたまま呆然とシャトルを見ていた。
誰もが、ありえない現実を前に、ただ思考を停止させていた。
上條は固く唇を結び、爪が食い込むほど強く、拳を握りしめていた。
シャトルの機体下部が、金属が滑るような微かな音を立てて開いた。
逆光の中に、一つの人影が浮かび上がる。
朝陽を背負い、その輪郭だけが黒いシルエットとなって浮かび上がる姿は、まるで神話の一場面、天より降臨した使者のようだった。
ハッチから漏れ出す微かな冷気が、ヘリポートの熱せられた空気に混じり合い、まるで異世界の空気がこの世界に侵入してくるかのようだった。
高橋翔太だった。
彼が身に纏っているのは、黒と銀を基調とした、地球上のいかなる文化にも属さない意匠の装束だった。
布のようでもあり、液状の金属のようでもある不思議な質感のそれは、彼の僅かな動きに合わせて光を吸収し、また鈍く反射する。
顔立ちは穏やかだったが、その双眸には重く静かな光があった。
翔太は一人、タラップを降りてくる。
彼の靴がヘリポートのコンクリートを打つ、コツ、コツ、という乾いた音だけが支配的な静寂の中に響き渡る。
それはまるで、この世界に初めて触れる瞬間を歴史に刻み込むための打刻音のようだった。
彼が完全に官邸の土を踏みしめた瞬間、それまで石像のように動かなかった上條が、機械仕掛けの人形のように一歩、前へ出た。
二人の視線が、数メートルの空間を挟んで交錯する。
上條は、射竦められるような感覚に陥った。
翔太は何も語らない。
だが、その存在そのものが周囲の空間を支配し、歪めている。
別班として、幾多の怪物たちと対峙してきた。
権力者、狂信者、天才的な工作員。
彼らの放つ「力」の匂いを、上條は瞬時に嗅ぎ分ける術を身につけている。
だが、目の前の青年が放つプレッシャーは、そのどれとも異質だった。
それは威圧や殺気ではない。
もっと根源的な、次元の違いとでも言うべきものだった。
「こちらへ」
上條は、喉の奥から絞り出すように、短く告げた。
翔太は無言で小さく頷き、歩を進める。
その一歩一歩が、まるで錆びついていた巨大な歴史の歯車を、軋ませながら動かしていく音を立てているかのようだった。
官邸の内部は、外部の喧騒とは隔絶された荘厳な静寂に満ちていた。
足音を完全に吸い込んでしまう深紅の絨毯が、廊下の奥へと続いている。
両側の壁には、この国の舵取りを担ってきた歴代総理大臣たちの肖像画が、厳粛な面持ちで並んでいた。
モノクロームの瞳、あるいはセピア色の視線が、一斉にこの若き来訪者を見下ろし、まるで「お前は何者か」と問い質しているかのようだ。
翔太は、その無数の視線を受けながらも、臆することなく歩を進める。
その背筋は真っ直ぐに伸び、彼の覚悟がその歩調に現れていた。
彼の背後を、上條が一歩分の距離を保って付き従う。
さらにその後方では、SPたちが音もなく、しかし最大限の警戒を維持しながら続く。
だが、この場にいる誰もが心のどこかで理解していた。
この男に対して、銃や警備といった物理的な防御は、何の意味もなさないということを。
やがて一行は、廊下の突き当たりに待ち構える、巨大な木製の両開き扉の前にたどり着いた。
重厚な木材に施された精緻な彫刻。
その中央には、日本の象徴である桐の紋章が金色に輝き、この先が「国家の心臓部」であることを厳かに示していた。
扉の前で、上條が初めて足を止めた。
彼は一瞬だけ翔太に視線を向け、その瞳の奥にある覚悟のほどを測ろうとした。
「こちらです」
上條の声は低く、しかし、歴史の証人となる者の緊張が微かに滲んでいた。
翔太は、その言葉に応えるように、ほんの少しだけ口元に笑みを浮かべた。
それは、これから始まる全てを理解し、受け入れた者の静かな微笑みだった。
彼は、扉の向こうへと、ためらいなく足を踏み入れる。
その瞬間、廊下に響いていた微かな足音は完全に消え、歴史の新たなページが開かれる重い予感が、官邸全体を静かに包み込んだ。




