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崎島健吾の演説という名の爆弾が世界を揺るがした直後、永田町の中枢、総理官邸地下の危機管理センターは、思考停止したかのような静寂と、沸騰寸前の緊張感という、相反する空気に支配されていた。
「――総理、お見えになりました」
オペレーターの一人が絞り出すような声で告げると、重い扉が開き、藤堂総理大臣が姿を現した。
その表情には、いつものように柔和で人好きのする笑みが浮かんでいる。
だが、この状況下において、その笑みは不気味なほど場違いであり、彼の側近たちは逆に背筋が凍るのを感じた。
彼の瞳の奥に宿る老獪な政治家だけが持つ鋭く冷たい光を、彼らはまだ理解するには至らない。
藤堂が司令席に腰を下ろすのとほぼ同時に、巨大なメインモニターに新たなウィンドウがいくつも開かれた。
「総理!兜町、サーキットブレーカー発動!日経平均、記録的な暴騰です!」
「渋谷スクランブル交差点、大型ビジョン前に群衆が殺到し交通麻痺寸前!」
「ウォール街、ロンドン、フランクフルト、軒並み取引停止!『Sakishima Shock』と速報が!」
モニターには、夥しい流血を思わせる鮮烈な赤色に染まった株価チャート、スマートフォンを掲げて空を見上げる渋谷の人波、頭を抱える海外のトレーダーたちの姿が、音もなく映し出されていく。
まるで世界の終焉を描いたサイレント映画のようだった。
よろめくように駆け寄ってきた前田官房長官が、報告書を差し出す。
「総理、CIRO(内閣情報調査室)からの最新情報です。既に海外、特に米軍所属と思われる諜報部隊の活動が、横須賀や厚木周辺で活発化する兆候が……!」
傍らに控えていた上條が、疲労の色を隠せない顔で静かに頷き、補足した。
「第一波は、恐らくCIAの特殊活動部かと。彼らの動きは常に迅速です」
藤堂は指を組み、次々と流れ込んでくる混沌を静かに見つめる。
彼の内面では、アドレナリンと、政治家としての本能がもたらす熱い興奮が、奔流となって渦巻いていた。
(面白い……実に面白いことになった)
この未知の存在、「銀河連盟」。
それは、沈みゆく船と揶揄されたこの国を根底から覆す脅威か。
それとも、日本を再び世界の頂点へと押し上げる、神が与えたもうた奇跡の贈り物か。
彼の計算高い頭脳は、瞬時にして利益とリスクを天秤にかけ、最適解を弾き出し始めていた。
「これはもはや、サキシマ重工という一企業の問題ではない」
藤堂の静かな声が、部屋の隅々まで響き渡り、喧騒を制圧した。
「我が国の主権、いや、人類の未来そのものに関わる重大事態だ。直ちに自衛隊の特殊作戦群、および警察庁警備局の特殊急襲部隊(SAT)を合同で出動させろ。目標は、サキシマ重工本社ビル、及び千葉にある南川除染技研の全施設。目的は、制圧や拘束ではない。あくまで『保護』だ。いいね、『保護』だ」
藤堂は「保護」という言葉に、特別な響きを持たせた。
それに対して、上條が報告を続ける。
「藤堂総理、すでに前田官房長官の指示で準備を進めております。おおよそ一時間で展開が完了する見込みです」
「それは助かる。引き続き頼むよ」
交渉のテーブルにつくための、最も強力なカードを手中に収めるための第一手。
未知の技術を、何よりも先に国家管理下に置くという、彼の冷徹な野心の現れだった。
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官邸の奥深く、執務室とは別に設けられた私的な書斎。
厚い絨毯が足音を吸収し、壁一面の本棚が外界の喧騒を遮断するその静謐な空間で、藤堂は上條を一人、呼び寄せた。
最高級のコニャックをグラスに注ぎながら、藤堂は穏やかに切り出した。
「君には、しばらく表舞台から降りてもらうことになる」
上條は微動だにしない。
藤堂はその無表情の裏に、失脚を覚悟した男の硬質な諦念が見て取った。
崎島健吾の件で失態を演じた自分は、もはや用済みだと考えているのだろう。
だが、藤堂にとって彼という手駒は、そんなに安くはなかった。
「内調としてという意味だよ、誤解しないでくれ。君の『別班』としての能力が、今こそ必要なのだ。サキシマ重工と南川除染技研の防衛作戦、その現場指揮を極秘に執ってもらう」
その瞬間、上條の目に一瞬、鋭い光が宿ったのを藤堂は見逃さなかった。
失墜し、自身の存在意義すら見失いかけていた男の心に、再び火が灯った証拠だった。
「総理、それはつまり……」
上條の声は、自分でも気づかぬうちにかすかに震えていた。
その震えに、この男がまだ死んでいないことを藤堂は確信する。
「そうだ。君の部隊を使い、あらゆる外敵から『彼ら』を守れ。米軍の影、中国の工作員、あるいは、我々の知らない第三勢力かもしれん。だが、それと同時に……」
藤堂はそこで言葉を切り、上條の瞳の奥を射抜くように見つめた。
「『彼ら』が何者で、何を企んでいるのかを徹底的に突き止めろ。君は、我が国の未来の守護者であり、そして、監視者となるのだ」
藤堂の言葉は、まるで劇薬のように上條の全身に染み渡ったようだった。
彼が知らず知らずのうちに拳を強く握りしめている。
影として生き、国家という非情なシステムのために全てを犠牲にしてきた男に、藤堂は最後の戦場を与えたのだ。
「……御意」
その短い返答に込められた覚悟の重さを、藤堂は満足げに受け止めた。
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数時間後。
官邸の自室で一人、藤堂は窓の外に広がる東京の夜景を見下ろしていた。手にしたグラスの中で、琥珀色の液体が揺れている。
(始まったな……)
その時、手元の端末が静かに着信を告げた。
上條からの、暗号化された回線だった。
画面をタップすると、サーマルスコープ越しに撮影されたと思われる、緑色の濃淡で描かれた映像が映し出された。
『こちら上條。千葉の南川除染技研、第一次防衛網の構築、完了しました』
映像には、闇に沈む森の中に潜む部隊の配置と、静まり返った工場の建物が映っている。
それはIRセンサーで覆われた見えない巨大な鳥籠のようだった。
『対象に動きは?』
藤堂は短く問いかける。
『いえ、内部は完全に沈黙を保っています』
沈黙、か。
全てを知った上で、こちらの出方を待っているのかもしれない。
藤堂は通信を切り、再び夜景に目をやった。
金融市場のパニックは、いずれ世界経済を根底から揺るがすだろう。
だが、彼はそれを恐れてはいなかった。
この混乱を乗りこなし、誰よりも早く銀河連盟という切り札を手にした者だけが、次の時代の覇者となる。
「日本の夜明けか、それとも黄昏か……」
藤堂は独りごち、グラスに残っていたコニャックを一気に飲み干した。
その瞳には悪魔に魂を売ってでも、この国を世界の頂点に立たせようとする男の業の深い光が爛々と輝いていた。




