11-5
官邸地下、危機管理センターは静寂に支配されていた。
先ほどまで怒号が嵐のように吹き荒れていた空間は、嘘のように音を失い、無言の圧力が耳を圧するかのようだった。
重く、冷たく、粘り気のある空気が肺を満たし、居並ぶエリートたちの呼吸すら奪っていく。
誰もが、モニターに映し出された一つの光景に、魂を吸い寄せられていた。
画面の中央、冷たく知的な輝きを放つサキシマ重工のロゴを背に、一人の男が立っていた。
崎島健吾。
その名は、この場にいる誰もが知っていた。
彼らはこの男を「保護」という名の拘束下に置き、特別病棟のベッドに縛り付けていると信じて疑わなかったのだから。
内閣情報調査室(CIRO)、そして別班の上條が「管理」しているはずの、無力な怪我人。
だが、モニターに映る姿に、怪我の気配は微塵もなかった。
寸分の隙もなく着こなされたダークネイビーのスーツは、彼の歳を感じさせない筋肉質な肉体を静かに主張し、白髪混じりの髪は威厳の証のように輝いている。
伸ばされた背筋は、まるで鋼の支柱が通っているかのようだ。
その佇まいは病み上がりの経営者というより、一つの帝国を築き上げた百戦錬磨の王を思わせた。
鋭い眼光が、レンズを通してモニターの向こう側――ワシントン、北京、モスクワ、そしてこの官邸地下にいる者たちの魂の奥底までも見据えているようだった。
画面の中にもかかわらず、その圧倒的な存在感は、空間そのものを捻じ曲げ、支配するかのごとき威厳に満ちていた。
上條の背筋を、氷の刃がなぞるような悪寒が駆け抜けた。
彼の優秀な頭脳は、普段ならばどんな危機的状況下でも最適解を導き出すはずだ。
しかし今は、その思考回路が今は焦げ付くような音を立てて空転していた。
ありとあらゆる可能性を脳内でシミュレートする。
(ハッキングか? 映像の合成? だが、これほどのリアリティさを、リアルタイムで生成できる技術は地球上には存在しない。内部協力者? CIROと別班の二重三重のチェックを潜り抜けることなど不可能だ。物理的な突破? 病棟は要塞化され、五分ごとに定時連絡が入っている。異常の報告は一切ない……!)
どれ一つとして、論理的な解は導き出せない。
CIROが誇る電子の壁、そして「別班」が張り巡らせた物理的な監視網。
そのシステムが、何の痕跡も、アラートの一つも発することなく、こうして目の前で完璧に破られている。
それは、チェスの盤上で相手のキングにチェックメイトをかけたと思った瞬間、盤そのものが神の手によってひっくり返され、自分が最初から駒ですらなかったと知らされるような敗北感だった。
(誰だ……。一体、誰が彼をそこに立たせた……!? 我々の知らない、何者かがいる。このゲームには、我々が認識していないプレイヤーが……!)
心臓が氷のように冷たい汗とともに、破滅の鼓動を刻む。
長年かけて築き上げてきた「秩序」への絶対的な自信が、足元から音を立てて崩れていく。
彼の指先は無意識に微かに震え、ポケットの中で握りしめたペンのキャップが、カチリ、と絶望的なほど小さな音を立てた。
だが、その音は次の瞬間には完全に掻き消された。
モニターの中の崎島が、ゆっくりと口を開いたのだ。
彼の声は、全世界に向けて放たれた。
凛としたテノールの響きは、まるで歴史のページを切り開く刃のように鋭く、静かな、しかしマグマのような熱を帯びていた。
「――本日、皆様にお集まりいただいたのは他でもありません。先般、世界中が固唾をのんで見守った、月周回ゲートウェイにおける宇宙飛行士たちの救出作戦……」
崎島はそこで一度言葉を切り、世界の指導者たちを試すように見渡した。
その瞳には、まるで人類の歴史を見透かすような、深遠な光が宿っている。
世界が、息をのんだ。
「あの奇跡的な救出作戦には……『銀河連盟』と名乗る、地球外知的生命体の協力があったことを、ここに公表いたします」
時が、凍った。
危機管理センターの張り詰めていた空気は、音もなく砕け散った。
前田官房長官の口が、意味をなさない音を漏らしながら、だらしなく半開きになる。
彼の政治家としての経験、知識、常識、その全てが、今発せられた単語の前で無力なガラクタと化した。
隣では、警察庁の久保田長官が手にした安物のハンカチを固く握り潰したまま、白目を剥いて硬直している。
「銀河連盟」――
その言葉は、彼らの脆弱な理解の枠組みを粉々に打ち砕き、思考という機能を完全に停止させた。
だが、崎島の爆弾宣言はそれで終わらなかった。
彼は、呆然自失する世界を置き去りにするかのように、淡々と、しかし揺るぎない意志を込めて言葉を紡いでいく。
「彼ら銀河連盟は、我々人類に対して友好的であり、宇宙の新たな隣人として、相互理解と協力を望んでいます。そして本日、その次の一歩として、我々サキシマ重工、および、卓越したリサイクル技術を持つ南川除染技研、そして、銀河連盟の三者による海底資源採掘に関する共同事業の設立を、ここに発表いたします」
崎島は背後のスクリーンに視線を送った。
そこには、地球の海の映像と、サキシマ重工の持つ海洋調査船「かいえん」のCG、そして美しい銀河のイメージが映し出される。
「銀河連盟が保有する、我々の物理法則を超越した技術。日本の誇るサキシマ重工の工業技術とプロジェクト管理能力。そして、南川除染技研が確立した革新的なリサイクルシステム。この三つを結集させることで、我々はメタンハイドレート、レアアース泥をはじめとする海底資源を持続可能な形で採掘し、地球規模での資源問題、および環境問題の解決に貢献することをお約束します」
その瞬間、危機管理センターの凍りついた空気は、ついに臨界点を突破し、爆発した。
「ば、馬鹿なことを!」
「銀河連盟だと!? 気は確かか! 本当なのか?」
「総理に、総理に連絡しろ! 今すぐだ!」
「おい、サキシマ重工の株価はどうなっている!? 」
怒号、悲鳴、どよめき、問い質す声――あらゆる感情が抑制を失って噴出し、日本の心臓部であるはずの部屋は、混沌の坩堝と化した。
オペレーターたちは我先に受話器に飛びつき、閣僚たちは互いの肩を掴んで意味不明の言葉を叫び合う。
制御不能のパニックが、巨大な渦となってその場を飲み込んでいく。
だが、その喧騒の中心で、上條だけは石のように動かなかった。
動けなかった。
彼の能面のような表情は、今は見る影もなく崩れ落ちている。
瞳に浮かぶのは、純粋な驚愕と、自分が隠し続けてきた「真実」など、矮小な秘密に過ぎなかったと知らされた男の絶望だった。
(超法規的な事象……? 国家の存立に関わる脅威……? 馬鹿な……こんなのに比べたら我々が対処していたのは、せいぜい過激なカルト教団や、他国の異能を使う特殊部隊レベルの話だ。我々が想定していた脅威のスケールを、次元ごと飛び越えてきている……!)
彼の信念――国家を守るという大義名分のもとに築き上げてきた非情の秩序。
暴力と情報操作によって維持される、コントロール可能な世界の枠組み。
その全てが、崎島健吾という一人の男が放った言葉によって、目の前で砂の城のように脆くも崩れ去っていく。
指の震えが止まらない。
膝が、がくりと力を失いかけ、彼は咄嗟に隣の椅子に手をついて身体を支えた。
彼は、今、はっきりと理解した。
自分は、この壮大なゲームのプレイヤーではなかった。
ルールさえ知らされずに盤上に立っていた、ただの駒に過ぎなかったのだと。
「世界が……変わる……」
喧騒の中、誰かが震える声でそう呟いた。
それは、この場にいる全員の心の声だった。
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千葉沖、水深二百メートル。
房総半島の沖合に深く切れ込む勝浦海底谷の縁。
太陽の光が決して届かない、永遠の夜と静寂に支配された世界。
そこに、異質な光を放つ空間があった。
アーベルが同期する宇宙戦艦の艦橋の全周モニターが、地上世界の狂騒をリアルタイムで映し出していた。
青年――高橋翔太は、ごくりと乾いた喉を鳴らし、その光景に見入っていた。
アーベルがハッキングによって映し出している官邸危機管理センターの混乱した映像。
瞬く間に「#銀河連盟」「#Sakishima」といったハッシュタグで埋め尽くされていくSNSのタイムライン。
そして、その中心には堂々と立つ崎島健吾の姿が、映し出されている。
全てが、まるで寸分の狂いもなく組まれた精密機械の歯車のように、計画通りに進んでいた。
翔太の胸を、鳥肌が立つような、ぞわりとした畏怖にも似た興奮が締め付ける。
自分が引き金を引いたこの出来事が、今まさに歴史という巨大な奔流そのものになろうとしている。
その奔流に、自分の矮小な存在が飲み込まれていくような、陶酔と恐怖が入り混じった感覚だった。
「すごいな……。本当に、崎島社長が喋っているみたいだ……」
感嘆とも畏れともつかぬ呟きが漏れる。
モニターに映る崎島の姿は、彼らが数時間前に作り出した、完璧なディープフェイク映像だ。
だが、その声色、視線の動き、醸し出す風格、その全てがあまりにもリアルで、本物だと錯覚してしまいそうだった。
『うまくいっていますね』
隣から、静かで理知的な、しかしどこか人間とは違う響きを持つ声がした。
翔太が視線を向けると、そこに一匹の黒猫が優雅に座っていた。
艶やかな漆黒の毛並みは、モニターの光を吸い込むように深く、暗闇の中で爛々と輝く二つの瞳は、最高品質のエメラルドを嵌め込んだかのようだった。
銀河連盟の惑星開拓船のコア、アーベル。
それが、翔太の隣にいる協力者の正体だった。
『AIがシミュレートした《最も理想的な崎島健吾》の人格データを映像に反映させています』
アーベルのエメラルド色の瞳が、モニターの光を反射して妖しくきらめく。
その姿は、この世のものとは思えないほど美しく、同時に人類の知性を超越した存在だけが持つ底知れぬ深淵を湛えていた。
翔太の背筋を、再び震えが走る。
もう、後戻りはできない。
自分たちは、世界という巨大なルーレット盤にチップを投げた。
賽は、投げられたのだ。
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そのニュースは、世界を駆け巡り、数分後には津波となってあらゆる権力の中枢を飲み込んだ。
ワシントン、ホワイトハウス。
大統領は顔を真っ赤にしてテーブルを叩き、「あのジャップどもは何を考えているんだ! 」と獣のように叫んでいた。
周りでは、国家安全保障担当の補佐官たちが血走った目でモニターを睨みつけ、CIA長官に絶え間なく指示を飛ばしている。
北京の静謐な執務室。
指導者たちは、硬い表情で沈黙を守っていた。
だが、その瞳の奥では、嫉妬と警戒、そして千載一遇の好機を見出そうとする獰猛な光が交錯していた。
一人が重々しく口を開く。
「……日本の技術ではない。我々が手に入れるべきは、その『銀河連盟』とやらの技術だ」
ブリュッセル、NATO本部。
軍服に身を包んだ将軍たちが、巨大な電子地図を前に立ち尽くしていた。
彼らがこれまで想定してきたあらゆる脅威――ロシアの軍事行動、サイバーテロ、過激派組織――その全てが、今この瞬間、色褪せた過去の遺物と化した。
宇宙からの来訪者。
その一言が、彼らの築き上げてきた軍事ドクトリンを根底から覆したのだ。
世界のパワーバランスは、未曾有の衝撃波によって粉々に砕け散った。
彼らがこれまで国益を巡って繰り広げてきた熾烈な覇権争いが、まるで幼稚な子供の砂遊びに等しいものだったと、全世界に突きつけられたのだ。
それも、他ならぬ日本という、経済的には停滞し、政治的には同盟国の顔色を伺うしかないと侮っていた国の一企業によって。
嫉妬、興奮、恐怖、焦燥、そして屈辱。
あらゆる感情が渦を巻き、各国首脳は緊急の指示を飛ばす。
諜報機関は総力を挙げて情報の真偽を確かめようとし、外交官たちはサキシマ重工へのあらゆるコネクションを探り、そして軍部は、来るべき混乱に備えて静かに、しかし確実に臨戦態勢を整え始めた。
世界は、一瞬にして冷戦時代以上の、未知なる緊張に包まれた。
その渦中にある日本政府の対応は、混乱の極みにありながらも、驚くほど迅速だった。
官邸地下の危機管理センターで、前田官房長官は、もはや上條という得体の知れない男の存在など意識の外に追いやり、政治家としての本能を剥き出しにしていた。
「直ちにだ! 今すぐ、サキシマ重工、および南川除染技研の全施設を、自衛隊の保護下に置け!」
血走った目でオペレーターに怒鳴りつける。
その声は、もはや人間のそれではなく、己の縄張りを守ろうとする獣の咆哮のようだった。
「特殊急襲部隊(SAT)もだ! 警察の特殊部隊も動員しろ! 出せる部隊を投入するんだ! もはやサキシマ重工はただの一企業などではない! 我が国の、いや、人類の未来そのものだ! 何があっても死守しろ! 他国の介入は、断じて許さん!」
上條は、その狂乱の光景をまるで遠い世界の出来事のように眺めていた。
前田官房長官の叫びは、旧時代の権力者の最後の断末魔にも、あるいは、新たな時代の誕生を告げる荒々しい産声にも聞こえた。
どちらにせよ、一つの時代は終わったのだ。
人類が初めて、自分たち以外の知的生命体の存在を公式に認めた歴史的な一日。
その計り知れない影響力に震撼した日。
世界は、二度と元には戻らない。




