10-4
シュゥ、と圧縮された空気が抜けるような、かすかな音。
その音に導かれるように、翔太の瞼がゆっくりと持ち上がった。
最初に感じたのは、ひんやりとした清浄な空気の感触だった。
彼を優しく包んでいた生暖かいぬるま湯が引いていくような感覚と共に、医療ポッドの透明なキャノピーが静かにスライドして開く。
天井の間接照明が、柔らかな光で彼の顔を照らした。
肌に残っていたわずかなジェルの粘性は、ポッドから照射された見えない光によって瞬時に取り除かれ、さらりとした肌触りだけが残った。
ゆっくりと、上体を起こす。
その動きは、信じられないほど滑らかで、自分のものではないようにさえ感じられた。
驚くほど軽い。
拷問で受けた脇腹の傷も、長年抱えてきたかのような全身の疲労感も、全てが遠い昔の悪夢のように消え去っていた。
数日間、最高の環境で熟睡した後のような、満ち足りた爽快感が全身を駆け巡る。
彼は無意識に脇腹に手をやった。
ヨハンナの扱う宙を舞うナイフに殴りつけられた、骨が軋むほどの激痛が走ったはずの場所に、今は傷跡一つない。
ただ、健やかで滑らかな肌があるだけだった。
頭には、まだ朝靄のかかった湖面のように、記憶の霧が漂っている。
最後に見たはずの、炎に包まれ海に沈んでいく巨大な船の光景が、脳裏を不意によぎった。
だが、不思議と恐怖も悲しみも湧いてこない。
まるで、自分が出演していない、遠い昔に見た映画の一場面のようだった。
ふと、視線を横に向けると、ポッドの脇に清潔で肌触りの良い、継ぎ目のないチュニック状の衣服が畳んで置かれているのに気づいた。
誰が、いつ。
そんな疑問を抱くことさえ、今の彼には億劫だった。
彼はそれに袖を通し、おぼつかない足取りで、ゆっくりとポッドから降り立った。
周囲を見渡す。
そこは、継ぎ目のない滑らかな金属と、心電図のように穏やかに脈動する淡い青色の発光ラインで構成された、人の生活感を一切感じさせない空間だった。
静まり返った通路を、彼は何かに導かれるように歩き始めた。
自分の裸足の足音だけが静寂の中でやけに大きく響き、壁に吸い込まれていく。
どこへ向かっているのか、分からない。
なぜ歩いているのかも。
複数の分岐路が目の前に現れたがそのうちの一つだけ、床の発光ラインが他よりも強く、そして温かい光を放っている。
まるで「こちらへ」と、無言で誘っているかのようだ。
翔太は、その光に吸い寄せられるように、自然とそちらへ足を進めていった。
どれくらい歩いただろうか。
やがて、ひときわ大きく、周囲の壁と完全に一体化したデザインの扉の前にたどり着いた。
彼が立ち止まると、その接近を完璧なタイミングで感知した扉が、静かに、そして滑らかに横へとスライドして開いた。
息をのんだ。
目の前に広がった光景に、彼の思考は一瞬、停止した。
そこは、この船の心臓部であるブリッジ(艦橋)だった。
広大なドーム状の空間。
中央には、有機的な曲線を描くコントロールパネル群が、主を待つ祭壇のように鎮座している。
そして、目の前の壁全体が、継ぎ目のない巨大なメインスクリーンとなっていた。
スクリーンには、穏やかで美しい、しかしどこか物悲しい深海の風景が、完璧な解像度でリアルタイムに映し出されている。
艦から放たれたのであろう淡い光に照らされた青白い砂地の上を、ヒラメやカレイが、まるで空を舞う鷲のように、優雅に滑り去っていく。
キラキラと輝くマリンスノーが、無数に舞い落ちていた。
その静謐な風景の中で、明らかに異質なものが動いていた。
遠くで複数の作業ドローンが巨大なドーム状の骨組みを、静かに、しかし着実に組み立てている。
光も音もほとんど発さず、ただ黙々と未来都市の建設現場を幻視しているかのように、作業を続けている。
彼は、その光景にただ唖然としていた。
そして、その非現実的な光景が、まるでダムの堰を切ったかのように曖昧だった記憶を奔流となって蘇らせた。
日村の歪んだ愉悦の笑み。
ヨハンナの感情の読めない玻璃の瞳。
拷問の、肉を抉るような痛み。
そして、自らの右目が蒼く輝いた瞬間の、世界の法則が内側から書き換わるような、神にも似た全能感と、それに対する底知れない畏怖。
アーベルの冷徹な宣告。
無慈悲な光によってタンカーが破壊され、炎と共に沈んでいく、あの終末の光景。
涼子たちはどうなった?
日村たちから救い出した仲間は、無事なのか?
あの『終末の光』という狂信的な組織は、どうなったのか?
全ての記憶が鮮明に蘇る。
なのに、不思議と現実感がない。
まるで、誰かが作った超大作の映像を、たった一人の観客として、この特等席で見せられているかのようだ。
悲しみも、怒りも、そして自分を苛むはずの罪悪感さえも、分厚い防弾ガラスを隔てた向こう側にあるかのように、彼の心には届かない。
感情の波が、凪いでいる。
ただ、自分の身に一体何が起きているのか、何一つ理解できないという、純粋で絶対的な「困惑」だけが、彼の心を支配していた。
「夢……じゃ、ないのか……?」
絞り出すような呟きが、広大で静かな艦橋に、虚しく響いた。
彼は無意識に、そっと右目に手を添えていた。
自分の体でありながら、どこか異質な、この部分。
忘れていた疼きが、蘇った記憶に呼応するように再び静かに主張を始める。
それは、単なる痛みではない。
内側から、未知の知覚が世界を覗き込もうとしているような、微かで、しかし確かな圧迫感。
彼の理解を超えた力が、次なる覚醒の時を待ちながら、静かに脈打っているのを感じた。
その、翔太の呟きに答えるかのように。
静寂を破り、コントロールパネルの影から、か細く、しかしどこか凛とした声が響いた。
「みゃあ」
翔太は、はっとして声のした方を見た。
そこには、一匹の小さな黒猫が座っていた。
夜の闇を溶かして固めたような、艶やかな漆黒の毛並み。
そして、この薄暗い艦橋の中でも、まるで自ら光を放っているかのように爛々と輝く、大きなエメラルドグリーンの瞳。
猫は、ただじっと、翔太を見つめていた。
その瞳には、猫特有の気まぐれさとは違う、星々の海を渡ってきた者だけが持つ、底知れない知性の光が宿っているように見えた。




